sideXX

刷り上がってきたばかりの葉書を裏返して順繰りにその宛名たちを確認していると、ひとつの名前で思わず手が止まった。懐かしい名前。昔の教え子の名前。
もう何年も前のことのはずなのに、
「…平和島」
彼の名を呼ぶ唇はその感覚を鮮やかに覚えていた。あの2年間で、何度その名前を呼んだことだろう。わたしがあの高校で彼と過ごした2年間。苦く甘やかなわたしの過去。


校内でいつも問題児の筆頭に挙げられていた平和島は、わたしには普通の生徒に見えた。彼との小競り合いが絶えなかった折原の方がよほど手に負えない問題児で、それに比べれば平和島は割合大人しく、好んで問題を起こすような生徒ではなかったのだ。けれど周りはそうは思わない。周囲の冷たい目に射られるたび平和島は悲しい顔をした。そしてそれに気付いた時から、わたしはきっと彼に惹かれていたのだ。

平和島は、人一倍優しくて人一倍不器用だった。それだけ。周りと違うことなんて、何もない。だからこそ、わたしは校庭の真ん中で標識を片手にぽつんと立ち尽くす平和島が、もうどうしようもなく愛おしかった。
「平和島は、幸せにならなきゃ駄目だよ」
そう囁いたのは、本音と予防線が半分ずつ。予防線は平和島がわたしに少なくとも好意を持ってくれているのを何となく感じながら、それに甘えてしまいそうになる自分へ。平和島がわたしを受け入れたとしてもわたしたちが教師と生徒である限り、どうしたって平和島は幸せになれないから。自分はこれ以上彼に踏み込んではいけない。そう自分に言い聞かせるための、予防線。

だから、
「先生、俺は先生が好きだ」
平和島が真っ直ぐな視線でわたしを射止めて、きっと彼にとって初めてだろう告白の言葉をくれた時、わたしは少しだけ後悔した。たぶんわたしは彼の中に踏み入り過ぎた。予防線は、あっけなく破られたのだ。
平和島が望む答えを、わたしはあげられない。
平和島が欲しい幸せを、わたしはあげられない。
本当は、誰より平和島を幸せにしてやりたいのに。わたしには、ありがとうの言葉しか許されていなかった。
「…どうして、泣くんだ」
自分の方がよほど泣きそうな顔で平和島は聞いた。答えなんてわたしにもわからない。平和島についてわたしが持っている答えなんてひとつだけなのだ。
「平和島は、幸せにならなきゃ駄目だよ」
今度のそれは、全部が本音。嘘でも予防線でもない。平和島は、幸せにならなければいけないのだ。幸せに、なってほしい。
未練がましくほろりと落ちた涙ごとわたしを包むように、平和島の体温がわたしを抱きしめた。きっと人を抱きしめることなど、抱きしめられることなど知らないその体温に、わたしがまた泣いたことを平和島はたぶん知らない。縋るように腕を回した、その体温を離したくないと思ったことも、きっと知らない。
「…大好きだよ、平和島」
最初で最後のわたしのほんとうの言葉は、けれど先の無い未来を連想させて、平和島に悲しい顔をさせた。

結局、その場面を他の生徒に見られていたわたしは、来神高校を辞めることになった。卒業式が間近だったこともあってわたしがその門出を見送ることを許された平和島はそのことを知らない。
本当を言うと、あの時教師という立場に意固地にならずただ気持ちのままに平和島を受け入れていたら、と思うことがある。そうしたら、わたしはこうして平和島に写真の無い結婚報告の葉書を送ることなど、なかったかもしれない。

結婚相手は赴任先の高校の同僚。可もなく不可もなく。普通に結婚して家庭を築き、子供は二人くらい。それがわたしに待っている将来。この葉書はけじめでもあったのだ。金髪の教え子の面影を、過去と割り切れない自分に対して。
だけどわたしは笑うことができなかった。葉書に載せるために撮った写真は、どれも幸せなわたしの顔をしていなかった。旦那は写真映りの悪い嫁を笑って許してくれたけれど、わたしを打つのは罪悪感が軋む嫌な音だけだった。
葉書の宛名は書道を教える旦那が書いた。彼の字で書かれた平和島の名前は、背徳の残り香を色濃く散らしながらわたしの目を灼く。
そうして焦がされるままにペンを取って書きあげた短い言葉が、けじめか未練かあるいはそのどちらでもないのか、わたしは矢張り答えなど持っていないのだ。

ありがとう、平和島。
あんたは幸せになってね。

この葉書を手に取った平和島が、可愛らしい彼女を作って穏やかに笑う毎日を過ごせていればいいと思う一方で、わたしの目や胸や脳はちりちりと焦げ付くような執心に未だ囚われたままだった。平和島は気が付くだろうか。結婚を報告する女が、あんたも幸せになって、と書けない未練がましさに。
外から帰った旦那が、玄関でわたしを呼ぶ声がする。


120404 貴方が残した世界の終わり
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