そのひとは、三里むこうの夜の闇からこちらへするりと溶け出たように突然わたしの目の前に居た。妙な着物とそれより一層妙な化粧を施したそのひとは、重たしげな木箱を背負っているとは思えぬ涼しい顔でくちを開く。

「ちょいと、お尋ねしても」
「…ええ、何か」

その見て呉れに反してずっと落ちついた声音は、奇妙に読点を交えながらゆっくりと紡がれた。此処に居るのに何処にも居ないような、彼自身は他意なく其処に在るだけなのに見ているこちらを何処か不安定にさせるようなその面持ちに、くらくらと立ち上るような眩暈を感じてわたしはおもわず目をつむった。相変わらず涼しげな声音が、閉じた目蓋のうえへ降りつもるように続きを紡ぐ。

「ここらに、宿屋はありやせん、かね」
「宿屋」
「ええ、宿屋、です」

実を言えばわたしは宿屋の娘であった。そしてさらに言えば、今しがた、もうあそこへは戻らないと決めてきたばかりでもあった。ああ、なんという、なんという縁。目蓋を持ち上げると、奇妙な模様に紅を差した目元が、するりと細められてわたしを見ていた。まるでほんとう以外は許されぬと言うような。懐にしのばせた石ころが、こつりとちいさな音を立てた。

「わたしは宿屋の家です。うちでよろしければ」
「そう、ですか。それでは、お言葉に、甘えて」

軽く会釈をした彼が目線だけをあげて今いちどわたしを穿つ。穿たれたわたしは身動きが叶わずそのまっすぐな視線をただ黙って受け止めるほかない。

「それから、もうひとつ」
「…もうひとつ」
「ええ、もう、ひとつ」

彼がその言葉をいやに噛み締めるように繰り返した。夜の闇が一層濃く落ちて、目を凝らしてもこらしても、何も見えない。代わりに、引きずるように抱えていた懐と袖の重さがゆるゆるりと消えていく。闇の奥から、彼の涼やかな声が風鈴のように鳴った。



「死んじゃあ、なりませんぜ」


深い闇が、濃い夜が、たちどころにぱっと明ける。

「…ああ、ああ、なぜ、それを」
「貴方の胸の内を、読んだのですよ」
「まさか」
「ええ、まさか」

彼は息をつめるようにわらって、いつのまにか手にしていた拳ほどの石ころを指の腹で撫でた。わたしと彼の足もとには同じような石ころが五つ、六つ転がっていた。

「わたしは、恐ろしいのです」
「死んでしまおうと、思うほどに、一体何が」
「わたしは、わたしの心が恐ろしい」
「貴女の、心」
「ええ、ええ、わたしの心が、じきに人ならざるものに変わってしまうのが、恐ろしい」
「人、ならざるもの」

知らず知らず、わたしは彼の痩せた手をとっていた。彼は驚いた顔ひとつしなかった。わたしはぼろぼろと心のかたまりをひとつずつ吐き出すようにしゃべる。わたしのほんとうを、しゃべる。
客の男に入れ上げて客室に籠りきりの母、自分を見限った妻の代わりに実の娘の身体を求める父。宿屋の経営が傾くのは必至で、その切り盛りはわたしの手には余り過ぎた。

「わたしは、わたしはあの人たちが、憎い」
「殺してやりたいと、思うほどに」
「ええ、ええ」
「その心が」
「恐ろしい、恐ろしいの」
「いつか、人ならざる物の怪、が、とり憑くやも」
「ああ、ああ」

壊れたからくりの人形のようにわたしはかくかくと頷いた。わたしが取っていた彼の手は、いつのまにかわたしの手を包み、薄紫色に染めた爪が宥めるようにとん、とん、とわたしの指の節を撫ぜている。

「人ならざるものになってしまうくらいなら、いっそ」
「そいつは、いけない」
「でも、でも」
「では。その時が来たら、私がそれを、斬る、というのでは」
「貴方が、わたしを斬る?」
「いえいえ。斬るのは貴女の、心」
「心」
「ええ。物の怪にとり憑かれた貴女の、心」
「そんなことがほんとうにできるの」
「まあ、ね」

彼は何でもないと言うように頷いた。突拍子もない話だけれど、彼が言うのならできるのに違いないと、彼のその返事だけを根拠にわたしは考えた。

「でも、でも」
「でも、が多いお嬢さんだ」
「わたしが、わたしの心がそうなった時、あなたは遠くへ行ってしまっているやも」

身なりからして彼は旅人や商人の類だ。ひとところに留まることをしない人だと、身に纏う空気が言っている。けれどとうの本人は、わたしの言葉にも軽くうなずくだけだった。掴まれたままの手がすこし強く引かれて、彼との距離がわずかに近づく。とん、ともう片方の手がわたしの心の臓の上に置かれて、速度をあげた鼓動が彼の手のひらを忙しく叩いた。彼が唇だけで笑う。

「大丈夫、ですよ」
「なぜ」
「私が貴女を救いたい、と、思っているから、ですかね」
「…ちっともわからないです」
「万事、そういうものですぜ」

まるでこの世のあらゆるものを見てきたような言い方をするこのひとを、果たして信用して良いものか、けれども一方でわたしは、もうじぶんには彼しかいないのだとも思い始めている。
自分の心を計りかねるというのは、どうにも収まりが悪い心地だった。すがるものを失くして、じぶんという存在が宙ぶらりんになってしまう気がする。でも、それでも、いつかこのひとに斬られる心なら、別段明らかにすることに意味なんて、ないのかもしれない。
もういちど正面から彼に向き直る。その顔が右半分だけ橙色の明かりにほんのり照らされていて、わたしははっとした。なぜ、今まで気がつかなかったのだろう。

わたしが立っていたのは、この町いちばんの宿の目の前。それでもこのひとは、はじめにわたしにたずねた、ここらに宿屋はないか、と。

「よもや最初から気付いていたのですか」
「いいえ、なにも」
「でも」
「ほんとうに、でも、が多いお嬢さんだ」

唇をきれいにつり上げてわらう彼をわたしは無視した。こればかりは、聞いておかねば気が済まない。

「でも、宿屋ならほら、目の前にあります」
「これはこれは」

まよわず右をちらりと見て、彼がまた笑う。その横顔は、ぞっとするくらいにうつくしかった。


「全く気が、つきませんで」

闇が一層濃さを増す。それでも、わたしに二度と来ぬはずだった朝は、その闇の向こうで明けるのを今か今かと待っている。わたしはどうやら、大変な人に心をあずけてしまったらしい。

「いえいえ、私はただの、薬売り――ですよ」

その夜、このうつくしい横顔だけが、わたしの行く末になった。

140318 葬列
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