堺さんお手製の夜ごはんを二人がかりで綺麗に平らげて、ごちそうさまでした・と手を合わせた頃にはすでに22時を回っていた。それから堺さんのベッドをふたりでお互いに譲り合って、何がどうしてだか結局どちらにも使われなかったベッドを見ながら、わたしたちがフローリングに敷いた毛布に向かい合って包まるに収まったのは、今日が終わっていよいよ明日にもなろうという時間だった。常夜灯がぼんやりと暗がりを映して、わたしたちだけがこの夜に取り残されている。ねむる気にはなれなくて、けれどたわいもないお喋りでこの時間を壊してしまいたくもなくて。それは堺さんも同じなのかさっきから真一文字にむすんだくちを開く様子もない。
堺さんの肩越しに見える遠征用のスーツは、彼が夕飯を作っている間にわたしがアイロンをかけた。明日、彼はあれを着て戦いへゆく。むかしは幾度となく当たり前のようにしていたことなのに、その作業がひどく幸福に満ちたものだったことをわたしは今夜ようやく思い知った。なにもかもが呆れるほどにもう遅く、けれどそのどれもがまだ手遅れではないことがなおのこと救いようがなかった。

「堺さんのごはん、おいしかったなあ」
「お前は相変わらず料理のセンスがねえよな」
「さかいさんひどい」
「…そんなんで大丈夫かよ これから」
「…へいきへいき、ゆっくり覚えるから」
「あ、そ」

堺さんはもぞもぞと動いて顔の半分ほどを枕に埋めた。明るい髪色がうすぼんやりとした夜のなかで柔らかく反射する。今はずいぶん緩やかな構えの垂れ目がその息遣いすら逃すまいとわたしを見ていた。彼のくちから「これから」の話が出て、わたしが自分で想像したよりもずっと気持ちが落ち込んでいることを見透かしているみたいに、堺さんは穏やかな目をしてわたしを見る。
きっと彼は、わたしが求めさえすればおどろくほど簡単にわたしを奪っていってくれるだろう。わたしがそうできないことも、知っているから。

「絢音、」堺さんがわたしを呼ぶ。二人でくるまった毛布のすきまから彼のしなやかな腕がこちらへ伸びてきて、硬い指先が目元をそっとなぞった。ああ、彼にはやっぱりお見通しだ。

「泣くと目腫れるぞ 明日」
「…うん」
「それ以上ブスになっても知らねえからな」
「…さかいさんひどい」
「なら泣きやめ」
「…うん」

もう一度ぐいっと目じりを拭って堺さんの体温が離れていく。わたしひとりきりの温度は、こんなにも冷たかっただろうか。このまま冷めて、冷めきって、ひっそりと死んでしまうみたいだ。

「堺さん、ごめんね」
「何がだよ」
「遠征前に押し掛けたことも、ごはん作ってくれたことも、ベッドで寝られないことも」
「……」
「むかし堺さんから逃げたことも、まだ 堺さんを好きなことも」

それからひどく長い沈黙がふたりきりの部屋にしんしんと降り積もった。このままふたり、この部屋に埋もれてしまえばいい。誰にも見つからずに、ふたりきりで、この温かな毛布にくるまっていられたらいいのに。
そうしたらわたしは明日、優しすぎるのだけが欠点のようなあの人と結婚することはなく、むかしのようにピッチに立つ背番号9を赤と黒がひしめく騒がしいスタンドで見ていただろうに。
幸福な空想は、まっくろな虚無感を引き連れてやってきた。そんな明日は決して来ない。明日、わたしはあの人と結婚し、新居の大きなテレビの前、夜のスポーツニュースで堺さんの姿を見る。きっとわたしはまた泣いてしまうから、優しいあの人に心配をかけてしまうかもしれない。わたしはたぶん涙の理由をごまかすけれどそれでもやっぱりあの人は優しいから、何も言わずにそばにいてくれるかもしれない。どれも最低だ。最低なわたしが願ってはいけない最低な願いだ。

「堺さん わたし」
「お前は、明日結婚する。ちゃんと結婚して、幸せになる」
「……うん、そうだよ」
「だから、わりい 先に謝っとく」

そう言って堺さんはまだめそめそと涙の止まらないわたしをぐっと引き寄せて腕の中に閉じ込めた。いつも冷静で、常識人で、ゴール前でだってふてぶてしくキーパーを嘲笑うようなプレーをするこの人が、自分でもきっと間違っているとわかっていることをしている。こんなに苦しい顔をして、わたしを抱きしめている。
だったら、わたしはもう 大丈夫なのかもしれない。こんなにも優しいこの人を愛して、愛されていた、それだけでわたしはこれからも前を向いてゆける。このひとのいない「これから」を、目をそらさずに見つめられる。

「…堺さん」
「うん」
「わたし、堺さんのこと大好きだけど、きっとずっと好きなままだけど」
「……」
「明日はちゃんと、お嫁にいくね」
「…ああ 幸せにしてもらえ」
「うん、まかせて」

何かを言いかけた堺さんのくちびるが、迷って迷ってわたしの目蓋にゆっくりと着地するのを、わたしはひどく穏やかな心で感じていた。やがて、明日は今日になって、ふたりの間にやってくる。

願わくば君に ありふれた祝福を
( 2013.11.24 )
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