空がずいぶん暗い色をしているとおもったら、まもなく大粒の雨が窓をたたく音が聞こえた。ノートパソコンから顔を上げると、隣でまっしろな課題に鉛筆でゆっくりゆっくり文字を入れていた彼女がつられたみたいにこっちを向いた。
「どうしたんですか?みか、」
「みか?」
ボクがいじわるく聞き返すと絢音
は、じゃなくってっ・とちいさな声で自分の失態を叱ってからそうっと息を吸った。ちょっとおもしろい。
「…どうしたんですか藍くん」
律儀に初めから言いなおした彼女はすこしむくれている。ボクはひっそり口元を緩めてうなずいた。

ボクが彼女に「恋」をして、それが彼女の方も同じなのだと分かってから、ボクは彼女に約束をふたつ取り付けた。
ひとつ、名前で呼ぶこと。
ふたつ、敬語を使わないこと。
メモリ不足ですぐにいっぱいいっぱいになる彼女は、たまにそのどちらかを忘れる。それでも、約束を交わしたばかりの頃には「いつも」だったのが「よく」になって、「よく」が「たまに」になって、約束をやぶった彼女にボクがいじわるを言える機会もぐんと減った。一緒にいる、っていうのはこういうことなのかもしれない。

「藍くん?」
「雨、すごい降ってるね」
「え?あ…はい」
そこで絢音はなぜか曖昧な返事をして、大きな雫が次々に窓硝子にぶつかる様子をしばらくの間じっと見ていた。ほらまた敬語になってる。
「藍くんは、雨はきらい?」
窓の外の雨を瞳に映して彼女は聞いた。相変わらず、雨足は強い。
彼女は時々こうしてボクの好き嫌いを知りたがる。苦いコーヒー、夏の暑さ、ほえる犬、そして音楽。そういうものを挙げて、それにボクが好きだとか嫌いだとか、はたまた嫌いではないだとか、そんなふうに答えるのを一生懸命メモリに記録するみたいにじっと聞いていた。だからボクも、ちゃんと考えてゆっくり答える。
「どうだろう。好きではないかな」
「…苦手?」
「どうしてそう思うの」
「…海に、似てるから」
彼女はそう言って目を伏せた。あのどこまでも広くてどこまでも深い碧が苦手だったころ、ボクはまだ「恋」を知らなかった。「恋」どころか、何かを大切にしたいと思う感情があることさえちっとも知らなかった。それは、あの頃のボク。まだボクがほんとうに「ボク」じゃなかった頃の。
「海が苦手だったのは『ボク』じゃないよ。それに、もう苦手じゃない」
「あ……そう、でしたね」
「ほら、また敬語になってる」
「あ…すみません…」
「べつにいいけど」
口をぱくぱくさせている彼女の瞳は、もう外の雨を映してはいなくて、代わりに、オフ用に下ろしているボクの碧い髪がゆらゆらと映り込んでいた。いつだってすこし潤んでいる瞳はボクの碧のせいでまるで海みたい。じっと覗いていると、ふたつの黒目がきょろきょろと落ちつかなさげに動いた。あ、海に、行きたいな。ほんものの碧が、見たい。
「あの、藍くん…」
「やっぱり、雨は嫌いかも」
「え…?」
「キミと一緒に外に出かけられない」
言葉にしたら自分で思っていたよりむくれた口調になって、感情はやっぱり難しいと思った。だけど彼女は、ふふっと笑ってそんなボクにそっと触れる。
「でも、こうやって藍くんとゆっくり過ごせるから、わたしは嫌いじゃないですよ」

彼女のほっそりした指が、ボクの作り物の碧を撫でた。それでもその手つきがあんまり優しいから、ボクはおもわず笑ってしまう。同じように彼女も笑った。表ではゆるやかになった雨音がしずかに鳴っている。閉じた部屋にはボクと彼女。なにもかもが優しくて、あたたかい
「幸せ」という感情がどういうものなのか、まだボクにはわからないけど、こういうことが「幸せ」だったのなら、それはとてもうれしいことに違いないと、彼女の体温に混じりながらボクは思った。

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