桜の葉がぼんやりと浮かぶ春のプールサイドで、遙は膝をかかえてしゃがみこみながらきらきらひかる水面を見つめていた。その身体中が、はやく泳ぎたい・と訴えている。真琴が目を光らせていないのを良いことに、今のうちに飛びこんでやろうかと企んでいるに違いない。横に立ってその黒髪を見下ろすと、わたしの影に入った遙がわずかに身動ぎをした。ぎくり、という効果音がとてもよく似合う。

「はるか、まだ駄目だよ」
「…わかってる」
一文字ずつくっきりとした発音で名前を呼ぶと、遙は口先をとがらせながら小さくうなずいた。思い切り納得していない顔だけれど、風邪など引いたらプールはおろか水風呂にさえ入れなくなる始末だからやむを得ず、といったところだ。水馬鹿の考えることは手に取るようにわかる。たとえきっと幼馴染じゃなくたって。
流れてきた桜の花びらを掬うように水のなかに手を入れるとひんやりとした温度が指先から浸みた。濡れた手首を揺らしてしぶきを飛ばす。ブレザーの胸元にかかってちいさな染みをつくった。そのわずかな水すらもうらやましいと言うように、遙が水掻きのような指先で触れてくる。
「やっぱりまだ冷たいね」
「おれは平気なのに」
「思いっきりくしゃみしてたじゃない」
「あれは誰かが噂してたんだ」
「はいはい」
ローファーとハイソックスを脱いでフェンスの前に並べる。素足がぺたぺたとプールサイドを叩いた。音につられた遙が水面から顔を上げてこちらを見上げている。その無表情に見せつけるみたいに淵の段差にゆっくり座って、飛びだした足の先を塩素剤のにおいのする冷たい水に浸した。ぴちゃん、と鳴る音が涼しくて気持ちいい。
「……!」
遙は無言できらりと目を輝かせた。スラックスの裾をまくって靴と靴下を、ぽい・と脱ぎ捨てる。転がった靴の片方が丁寧に並べたわたしのローファーにぶつかった。
「足だけだからね」
「わかってる」
そっけない返事が返ってくる。それでもその両方の瞳がきらきらしているのは、風にゆれるプールの水面を反射しているせいだけではないだろう。

「あ、あそこ。ちょっと色ちがうね」
「たぶん渚だ」
対面に見える壁の水色が真ん中あたりの一箇所だけ微妙に深い。遙いわく渚くんが塗り違えたその壁から始まって、ふたりして足を突っ込んでいるこのプールの、ほとんど手作りと言ってもいいくらいの修理が終わったのは、つい最近のことだ。
またすこし風が立って、水色のプールがゆらゆらとゆれる。冷たい氷の海みたいな色をしたプール。ふたり分の足がつめたい水を弾く。

「はやく泳ぎたいね」
「お前も泳ぐのか?」
「わたしじゃないよ、遙が泳ぐの」
「お前もたまには来れば」
「うん。差し入れ持ってくね」
「…ん」
ちいさな沈黙を埋めるようにばたつかせた足が、力強い筋肉を蓄えた遙の足とぶつかる。冷たい水温と遙の体温が混じってそこから溶け出してしまうみたいだ。遙が蹴りあげた水しぶきがひとつ、わたしの顔のほうへ飛んできた。遙と、春のプール。思わず浮かんだへたくそな洒落にくすりと笑うと、遙が眉を寄せてわたしを見る。その手が伸びてきて、頬をつたう水色の海の欠片をそうっとさらっていった。

130720 - アイシーブルー・ブルー
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