これのつづき

ぽた、り。
それは真っ白な膝丈スカートに赤い染みを作って、彼女の顔を歪ませた。服が汚れた不快感ではないだろう。だって彼女は今、本気で死のうとしたのだから。その両の目は、たった今自らに突き刺そうとしたナイフの刃を握る、俺の両手をしっかりと映していた。
彼女は結局、死ねなかった。他の誰でもない俺の文字通り手によって、それを阻まれた。
嗚呼。可哀想に。


「…ねえ、いつまでそうしてるつもりかな」
事務所の壁の隅で座敷わらしみたいに体育座りをしている黒い影。いや、座敷わらしが体育座りをするのかは知らないけど。彼女を俺の事務所に半ば引きずるように連れてきたのはちょうど一週間前のことだ。あの自殺志願者たちの集った死にたがりの会は、結局誰にもその本懐であるところの自殺とやらを許さぬままにめでたく閉幕となったわけである。そう、実に平和的な話だ。
「…どこが平和的よ、そんな手をしてよく言えたわね」
「あれ、波江さん俺の心配してくれてるんだ、珍しいね」
「貴方が怪我しようが死のうが私には関係ないけれど、貴方が怪我で両手を使えないおかげで私の仕事が増えたのは許しがたいわ」
「その分給料あげてるからいいじゃない」
波江さんはいつもどおり冷ややかな視線をたっぷり俺に浴びせかけて、ちらりと部屋の置物と化している彼女を見た。
「…あんなの拾ってきてどうするつもり?」
「あんなのじゃないさ、絢音って言うらしいよ」
「名前なんてどうでもいいのよ、…ていうかあの子喋ったの?」
「いいや?ま、俺の得意分野だからさ。名前とか家庭環境とかスリーサイズなんかをちょちょいっとね」
「…それは笑うところかしら」
さあね、と俺は包帯がぐるぐる巻かれた両手を持ち上げて肩をすくめてみせる。波江さんはあからさまな溜め息を寄越して大量の書類へ視線を戻した。これは、私のことはおかまいなく、という波江さんなりの意思表示。ありがたく汲み取って俺は体育座りの座敷わらしを暫し見遣る。
この一週間、彼女がしたことと言えば、こうやって部屋の調度品を決め込むか、俺の隙をついて死のうとしてみせたくらいである。今彼女は生きているから、後者はことごとく失敗に終わったわけだけれど。そうして、どうあっても此処では自殺が叶わないと悟ったのかそれからは、飽きもせずこうして微塵も動かない生活を送っている彼女である。刃物や紐系の類いを差し出しさえしなければ、酷くまともな生活だ。比較対象はあくまで以前の彼女の生活なのだけれど。
ともあれ、今は自殺という選択肢を失って死んだような彼女である。この場合、重要なのは「死んだような」であって、つまり彼女は生きているのだ。死んだふりができるのも、死んだようなつもりになれるのも、それは生きているからで、死んだらきっと、死んでいるふりももうできない。

「ねえ、」
「……」
調度品はぴくりと僅かに肩を揺らしただけで俺の呼び掛けに答えもしなかった。あの狭いカラオケの個室ではぺらぺらとご機嫌だった舌は、どうやら彼女の体勢にリンクして労働を拒否しているいるようだった。これ見よがしにため息をついてやったが、絶賛口内スト中の彼女は、ため息をつきたいのはこちらだと言わんばかりの恨みがましい目を向けるばかりだ。だがこれでもコミュニケーションがとれた方だと言えるだろう。日がな口はおろか睫毛の一本さえ動かさない彼女なのだから。

「ねえお腹空いてない?ここに来てから録に食べてないだろ?」
調度品相手にご機嫌とりは不本意だが仕方ない。とりあえず手っ取り早く食べ物で釣ろうと試みたのだが、
「何が食べたい?波江さん…あそこにいる女の人が君の食べたいもの作ってくれるって」
「作らないわよ」
最大限に空気を読まない冷ややかな声で見事に失敗した。というか、彼女は空気を読んであえて空気を読まない発言をしたに違いなかった。矢霧波江はそういう人間だ。

「……おにぎり」
「だから作らないったら、…え?」
さしもの波江さんも、そして俺も、ここに来てはじめて口を利いた体育座りの座敷わらしを驚いて見つめた。当の本人は口を利いたことなどすっかり忘れてしまったようにまた調度品スタイルに戻っている。俺はここぞとばかりにその隣にしゃがみこむと、
「おにぎりね。中身は何がいいかな」
「……しゃけ」
人類で初めて言葉によるコミュニケーションを成立させたやつらはきっとこのくらい感動したに違いない。おにぎりとしゃけ、しか発していないけれど俺はようやくまともな会話が成立したことに柄にもなく安堵していた。人間にとって、言葉は最大の武器で、同時に、だからこそそれは最大の弱点にもなりうる。表裏一体なのは、何も馬鹿と天才だけではないのだ。

「……ちょっと、どうするつもり」
立ち上がった俺に波江さんがあからさまに怪訝な顔をした。普段無表情なのに、こういう負の感情だけは隠そうとしないのはわざとなんじゃないだろうか。
「お姫様がおにぎりをご所望なんだ、君が作ってくれないなら俺が直々に作ってやるしかないだろ」
「……貴方、何か悪いものでも食べたの」
「ひどいなあ、俺だってたまには誰かに何かしてあげることだってあるのさ。そうだ、波江さんにも作ってあげようか。中身は何がいい?」
「………」
波江さんはなんというか、本当に気持ち悪いものを見るような目で俺を見回した。悪食の影響が、どこかに出ていないか探すように。ひどいなあ、もう。

俺はキッチンに入って、彼女が所望した鮭おにぎりを作るに足る冷蔵庫の中身であるかを確認する。冷凍庫では果たして、かちかちに凍った切り身の塩鮭が再び常温に戻されるのを心待ちにして俺を見上げていた。そいつを電子レンジに放り込んで、炊飯器に残っていた俺の昼食の残りの米をボウルにすべて移して下準備を完了とする。さて握ろうとして俺は大事なことに気づいた。

「だいたい、その手でどうやっておにぎりなんか握るっていうのよ」
波江さんの呆れたような声が、タイムリーに聞こえてきて俺は思わず包帯だらけの両手を見つめてしまった。忘れていた。日常生活に支障はないとは言え、さすがにおにぎりは。塩が滲みて痛そうだ。どうしたものかと考えているうちに電子レンジが鮭の解凍完了を知らせたのでとりあえず取り出そうと振り向くと、そこには思いがけず座敷わらしがいた。気配には敏感な方だ。なのに真後ろに立っていた彼女に気付かなかったのは、やっぱり「死んだような」彼女だからだろうかと、埒もないことを考えていると、座敷わらしはレンジから鮭を取り出してキッチンに立った。
「もしかして自分で作る気?」
「…その手じゃ無理」
彼女は大半の語彙を失ったように幼い物言いで返事を寄越した。すこぶる饒舌だったあの日がまるで嘘のようだ。
「…わたしのせい」
彼女は殊小さく呟いて俺の両手に触れた。もう痛みはないけれど、治りきっていない傷に触られるのはぞわりと粟立ってしまう。それでも、ひやりとした温度が心地よくて俺はその手を払い除けることができなかった。悔し紛れに精一杯の皮肉を以て返してやる。
「それは謝ってるわけ?」
「……そう」
こくん、と頷いた彼女は存外素直で、俺はもう黙ってその隣に立って、放置されていた鮭をグリルに投げ入れた。喋ってくれとあんなにも思っていたのに、口を利いたら利いたで厄介だったと思うのは俺の我が儘だろうか。また無口に戻った彼女を、俺は横目で見下ろす。

グリルから程よく焦げ目がついた鮭を取り出すと俺はお役御免となったが、かといって彼女をここに一人きりで放置するのも何なので手持ち無沙汰に流しにもたれて、意外に器用な彼女の手つきをぼんやりと眺めていた。
鮭をほぐして冷まし、一握り掴んだ米の中央に鮭を埋め込んで塩をまぶした手で握る。おにぎり特有のあの三角形がみるみる形成されていく。
無言の俺が気になったのか、彼女は握る手を休めないままちらりとこちらを見てすぐにまた米の塊とにらめっこに戻った。

「……して………たの」
まるで米と会話しているような彼女の視線は俺に向けられることはなく、わずかに動いた唇は空気が漏れたような音しか発しなかったが、彼女に独話癖がないのだとするならばどうやらそれは俺に問うているらしかった。
「何だって?」
「どうしてわたしを助けたの」
絢音はそう言って綺麗な三角形に仕上がったおにぎりを俺が出した皿にそっと置いた。見た目に完璧なおにぎりである。料理の腕は波江さんといい勝負かもしれないと何となく後ろを振り返ってみたが、当然波江さんがこちらを窺っている様子はなかった。俺は流しに腰かけたまま彼女の横顔を見遣る。
「君は俺に助けられたなんて思っちゃいないだろう」
「……」
「俺はてっきり、何で死なせてくれなかったんだって言われると思ったけど」
「…だって、貴方は自分がわたしを助けたと思っている」
「……」
今度は俺が黙りこむ番だった。否定するのは簡単だったし実際そうしようとしたのだけれど、俺らしくもなく上手い物言いが浮かばなかった。何を言っても肯定の言い訳に聞こえる気すらする。
厳密に助けたかったわけじゃない。ただ何となく、彼女を死なせるのはもったいないと思ったのだ。とてもポジティブな言い方をすれば、彼女を死なせたくないと思った。偽善者ならそれを「助けた」と言うだろう。だけど俺はそうは思わない。思いたくない。

「…わたしをどうするの」
絢音はまるで他人事の様に訊ねて握り終えた最後のおにぎりを皿に乗せた。全部で3つの鮭おにぎりが真っ白な皿の上から俺を見上げている。
「君はまだ死にたいと思っているのかな」
「そう、」
「じゃあ俺は君を生かしておくよ、君が生きていたいと望むまで」
「わたしが生きようと思ったら」
「その時は、」
俺は調理台の隅に立ててあった料理包丁を一本抜き取り彼女の首筋に突き付けた。その切っ先は寸分の狂いもなく彼女の急所を狙い澄ましている。だと言うのに彼女はまるで恋人からの抱擁を待つかのように恍惚と頬を緩ませてそれを期待しているのだった。だから俺は言う。

「その時は、俺が君を殺してあげるよ」

それまでは殺さないし死なせない。絢音はさもがっかりしたような顔を作ると何を思ったか俺の方へ手を伸ばし、耳元に口を寄せてきた。「じゃあもし、貴方がわたしを殺せなかったら」空気の漏れる様な声はそう紡がれて、残りの科白はどろりとした痛みを俺の首筋に残して空気中に消えて行った。おそらく赤黒く鬱血しているであろうその場所をなぞれば、彼女の狂気が体の中へ攻めて来る様な心地がして、俺は思わず指を離す。
その絢音はとうに俺に興味を失ったようで3つの米の塊が乗った皿を持ってリビングへ移動していた。俺は首筋の痕を隠すために暑苦しいコートを羽織ってそれを追う。案の定波江さんの変な物を見る様な視線が痛いほど飛んできたけど別にこれは俺の奇行ではない。

絢音はソファには座らず床にぺたんと女座りをすると皿からおにぎりを二つ手に取った。意外な食い意地に半ば感心していると、その左手が俺の方へ伸びてくる。三角形のおにぎり。自殺志願者が握って差し出したそれは、そう思うにはあまりに綺麗すぎた。
残りの右手を波江さんの方へ差し出す彼女を見ながら、俺は綺麗な三角形の天辺を食い潰してゆく。

じゃあもし、貴方がわたしを殺せなかったら
わたしも貴方を愛してあげるわ


120203 ライク・ア・ヴァージン
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