色素のうすい蜂蜜色の髪が橙のユニフォームを着なくなった。191センチの童顔が放課後の体育館からいなくなった。ややハイトーンの残る罵詈雑言がすこしだけ大人しくなった。それでも毎日は、どうしたって過ぎていく。

「よおサボり魔」
「うっさい不良頭」
校舎と校舎の間のちいさな日陰の空間で少しでも陽のあたる温い場所を探していたら、抜け出した数学の授業が半分ちかく終わっていた。映画や漫画と違っておおくの屋上が閉鎖されている過保護社会の現代では、サボり魔稼業も一苦労なのだ。
「お前なあ、推薦決まったからってサボりまくってっと卒業できねえぞ」
「宮地だってサボってる」
「自習になったんだよ数学」
「ふうん。最近おおいね自習」
「受験近いしな」
「受験ねー」
ま、お前には関係ねーか。宮地は溜息をついてわたしの隣にどかっと腰掛けた。校舎の隙間からちらちらと漏れ入る光が宮地の明るい色の髪に反射して、彼を幼顔に見せているくるりとした大きめの瞳がまぶしそうに細められる。なんだかそんなふうな顔をするといよいよ宮地が変わってしまったみたいで、自分でこの場所を選んだくせにわたしはこのちいさな日陰を温めてくれる太陽をすこしだけ恨んでしまった。照らすなら、もっと明るい先まで、終わりまで明るく、照らしてくれればよかったのに。
「…お前さ」
「うん?」
宮地はほんのすこし眉を下げると、太陽と自分の顔の間に浮いているわたしの手のひらを掴んでそれを下ろしながら呟いた。その顔に作っていた影は消えたけれど、宮地はもう目を細めたりしなかった。いつもの宮地だ。童顔で口のわるい191センチ。
「…何でもねえよ、何見てんだコラ轢くぞ」
「えええ理不尽!」
「うるせえ埋めんぞ」
いつも通りの悪態をついたあと、体の位置をずらそうとした宮地が、じぶんが掴んだままだったわたしの手のひらに気付いた。みるみる黙ってしまう宮地が可笑しくて、握られた手のひらに ぎゅう、と力を込める。お前なあ、とか何とかもごもごと口ごもったきり、宮地が口を開かなかったので、校舎の間のちいさな日陰はちかくの教室で教師が音読する古典文学と遠くのグラウンドで鳴るちいさな笛の音が聞こえるだけになった。時間の流れがゆるやかになっていく。この空気をどうにかすることを諦めたような宮地は、わたしの手をとったまま校舎に切り取られた青空を黙って見上げている。今ならすこし、本音を言っても構わないような気になった。

「宮地はさ…泣いた?」
「は?」
「後輩くんたちは泣いてたじゃない、宮地も泣いたのかなあって」
いつ、とは言わなかったし宮地も聞かなかった。だけどお互いが思い浮かべる「あのとき」はたぶん同じだと二人ともがきっと思った。あのときわたしは、二階席のいちばんまえでやけに冷たい手すりを握り締めながら、控室へと消えていく宮地の背中を見送った。その後につづく緑と黒の光と影は涙に濡れていたと思う。
「…どーだったかな」
「わすれたの」
「…つーか、泣いてたのお前だろ」
溜息交じりに言われて思わず隣の蜂蜜色を見上げると、眉毛の端を上手に下げた宮地はやさしいやさしい顔をしていた。ああ、わたしはこの顔を知ってる。あのとき、主将の掛け声で応援席前に整列した秀徳レギュラー陣の右の端、目のふちを赤くしてこっちを見上げた8番と、おなじ顔だ。
「うん…泣いてたね、宮地も」
「知らねえよ」
穏やかなやさしい顔を引っ込めて、宮地がつん、とそっぽを向いた。それにあわせて動いた上半身が繋がったままの手のひらも一緒に持って行ってしまう。宮地の方へ傾いたわたしの頭が学ランの肩にぶつかった。いてえ、と宮地が文句を言う。
「それはこっちの台詞だよばか」
「んだとコラ吊るすぞ」
「みやじってそういう物騒な語彙は豊富だよね」
「どっかの我が侭なエース様のせいだな」
「…淋しい?」
エース様たちに物騒なこと言えなくなって。宮地は目をまるくしてこっちを見ると、呆れたようにわらった。おまえ、そんなこと考えてたのか。そんなこと、じゃないよ。

よし、と宮地が立ちあがる。手のひらで繋がっているわたしは無理やりに引っ張り上げられた。どこいくの、と言いかけたのを終業のチャイムがさえぎって、本日の授業がすべてつつがなく終了する。あとは放課後。受験生にはもうあまり縁のないじかん。
「あのな」
「うん」
「たしかに俺は部活引退したけど、でもそれだけのことだ」
「…それだけ」
「そ。俺はバスケをやめないし、まだあいつらの先輩なんだよ。何も変わんねえ」
「……みやじ」

校舎の間のちいさな日陰をとびだすと、もうだいぶ傾いた夕陽が宮地の横顔を朱色に染めた。なんだ。太陽はやっぱりちゃんと照らしてくれていた。ずっとずっと先まで、明るく。

体育館にずかずかと乗り込んだ宮地に、いちばんに寄ってきた黒髪の後輩がわたしと繋いだままの手を指さしてにやにや笑っている。宮地が笑顔でそれに中指を立てた。遠巻きにこちらを見ていた緑髪のエース様は、相棒に呼ばれて仕方なく、といった感じで寄ってくる。眼鏡の奥の瞳は穏やかな笑みを宿していた。制服のシャツの袖を捲り上げた宮地が、脱いだ学ランをわたしに放ってわらう。

色素のうすい蜂蜜色の髪が橙のユニフォームを着なくなった。191センチの童顔が放課後の体育館からいなくなった。ややハイトーンの残る罵詈雑言がすこしだけ大人しくなった。それでもやっぱり、毎日は過ぎてゆくのだ。

130403 たおやかにめぐる