喧騒が落ち着くことのない二係のオフィスが不意に遠慮がちな静けさに返った。監視官、と部下のひとりが何故か潜めた声でわたしを呼ぶ。タブレットから顔を上げれば細身の黒装束が難しい顔で腕組みをして入口あたりに立っていた。
「…チカ、どうしたの」
途端に執行官たちがざわついた。呼ばれた相手は思いきり眉をしかめている。そういえば彼はこの呼び名があまり好きではなかった。それにしてもしかし、一係の監視官がわざわざうちを訪ねてくるなどあまり良い予感はしない。つい先日も、うちの血気盛んな猟犬たちが他管轄の現場を荒らして、上からチクリと厭味を言われたのはわたしである。また何かしでかしたか、と執行官たちを一瞥すると、尻尾をくるりと丸めた猟犬たちは一斉に首を横に振った。その向こうの監視官様は、いいから早く来いという顔である。わたしは内心で首を傾げながら席を立ちその背中を追った。

「お前、ああいうのはよせ」
無人の屋上に出るなり不機嫌な声が言った。表は緩く風が吹いている。煽られてはたはたと駄々をこねる髪を耳に掛けて彼の隣に並ぶと、眼下のあちこちにシビュラの電子広告が見えた。最大多数の最大幸福。古典的功利主義の結実。
「ああいうの」
「執行官たちの前で妙な呼び方をするな」
「妙な呼び方って、昔からああ呼んでるじゃない」
「別にそう呼ぶなとは言わないが、部下の前では控えろ」
「はいはい宜野座監視官」
いつも彼がわたしを呼ぶように返事をすると、宜野座はしかめた眉を少しだけ下げた変な顔をした。けれど視線に気づいたのかすぐに顔は反らされて、わたしから見える宜野座はその長い前髪から少しばかり覗く横顔だけになる。
「宜野座、何かあったの」
「…何故だ」
宜野座の視線はブレない。真っ直ぐ前を向いている、ように見える。それでわたしの目を欺いているつもりなのだろうかこの男は。だとしたら、わたしも随分甘く見られたものだが。
「ねえチカ」
「それはやめろと言ったばかりだろう」
「今は部下の前じゃないしいいじゃない」
「…」
わたしの言葉にぐっと口を結んだ宜野座はそのまま黙して、真下に広がる整備されすぎた街並みを見下ろしていた。シビュラの公告がその正当性と信頼性を謳い続けるこの景色は、彼の目にはどう映るのだろうか。宜野座は鈍い銀色の柵に肘をついて、彼にしてはめずらしくぼんやりとした物言いで口を開いた。
「サイコパスの定期診断で、カウンセラーにあるセラピーを提示された」
「ふうん、どんな」
「…近しい人間に悩みを打ちあけろと」
「悩み?」
「…悩み…というか、腹を割って話せくらいの意味合いだろう」
「……それで、わたし?」
「恋人や家族と言っていたが生憎俺には居ないからな」
対等の立場というなら、別に同僚であっても構わないだろう、と宜野座は続けた。対等な同僚、と強調するように言われてわたしは思う。きっとわたしは、狡噛の代わりなのだ。狡噛が今も狡噛のままだったら、ここに居るのはわたしではなく彼で、宜野座もそれを迷わなかっただろう。もしかしたらわたしには言えない彼の「悩み」も、狡噛には打ち明けられていたかもしれない。わたしは狡噛の代わりですらまっとうできやしないのだ。
宜野座が、狡噛が、一係が、あの喪服を纏う限り、宜野座の中でわたしはわたしにはなれない。あの日から、わたしたちの時計は止まったままなのだ。一線を踏み越えかけていた互いの脚は、ついにそのまま越えることなく互いの持ち場へ戻っていった。
「ねえチカ、もしさ…」
「何だ」
「……」
「…おい」
「ううん何でもない、それで何を話すの」
「何でもいい、お前と話題に困ることは無いだろうからな」
「呼び出しといてそれ?」
「…悪いか」
「あーあこれだからチカちゃんはお友達ができないのよ」
「うるさい」
宜野座が不機嫌そうに眉をしかめる。けれどそれが本当に不機嫌かどうかくらいわたしにはわかる。緩い風が宜野座の髪を揺らした。ぱたぱたと風に遊ばれる鴉色を見ていると、その手がこっちに伸びてきて、いつの間にか耳から外れていたわたしの髪をひと束すくって掛け直す。3年前までのあの空気が戻ってきたような心地がした。たとえそれが現実では叶わぬと、分かっていても。宜野座がそんな風に、笑うから。
「髪、以前と同じくらいになったな」
「チカも、だいぶ伸びたね」
「お前は長い方がいい」
「うん、…知ってる」
知っている。あの頃胸元まであったわたしの髪を宜野座が気に入ってくれていたこと。だから、一係が揃って喪服のような真黒なスーツを纏い始めたあの日、わたしはその髪をばさりと切った。ずいぶん古典的な発想だとは自分でもわかっていたけれど、そうする他わたしには何も許されていなかったのだ。なにひとつ、あの時わたしが宜野座にしてやれることなど、本当になにひとつなかった。
あの日わたしは文字通り、恋を失ったのだ。もうわたしは、彼に恋をしていてはいけなかった。宜野座が纏う闇の様な黒と、彼の瞳が宿す闇よりも深い黒が、それを許さないように思えた。だからわたしは、つめたい床に散らばる長い髪と一緒にそれを捨てたのだ。二係に藤間幸三郎の身柄を確保する命令が下ったのはそれからすぐのことだった。

「聞かないのね」
「…藤間のことか」
「うん、局長に聞いたんでしょう」
「…」
「てっきり、呼びだしたのはそのことだと思った」
「……いや、俺は」
何か言いかけた宜野座の手首で端末が緊急を知らせる。宜野座がひとつ溜息をついて眼鏡を押し上げた。風は緩やかに長い鴉色を攫って流れていく。
「事件?」
「ああ、俺から呼び出したのに悪いな」
「事件じゃしょうがないよ」
わたしが都合の良い女を気取って言うと、宜野座はほんの少し眉を下げた苦笑とも違う複雑な顔でシビュラの作る景色に背中を向けた。最大多数の最大幸福。古典的功利主義の結実。わたしの幸福もこのシビュラシステムの下でいつか実現されるのだろうか。
下から巻き上げるような風が吹く。伸びた髪がばたばたと遠慮なく暴れて思わず目を瞑った。
「絢音」
目蓋の裏で宜野座の声がする。いや、きっとあれは昔の。だって今の宜野座はわたしを名前で呼ばないはずで。そうっと目を開ければ、眩しいばかりの視界にたったひとつ真黒な影が見える。それから、髪と耳に触れるやわらかい温度。
「矢張りお前の髪は、長い方がいい」
最後にひとつ頭を撫でて、宜野座は屋内へ戻っていった。下手くそな撫で方はあの頃から変わらない。誰かに触れることに慣れていない手。それに安心してしまうわたしはきっと狡いのだろう。だってそれは、彼が未だしあわせではない現実に安心することで。

「いやなおんな、だなあ」

わたしに触れた宜野座の温度は、緩やかにけれど冷たく吹いていく風に攫われてすぐに失くなった。あとに残るのは、重たく伸びた焦げ茶の髪と狡い女の流すあまり綺麗でない、なみだ。

130205 耳朶と幸福論
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