短い爪は嫌いだった。長く綺麗に伸ばした爪でどうにか見栄えのするわたしの指は、その爪たちをぱちんとひとつ切るだけでまるで子供のようなそれになる。早い話が、長い爪はわたしの劣等感を上手い具合に押し隠してくれる手頃な装飾品だったのだ。
けれどそれがどうして、わたしが、わたしの嫌いな短い爪でこの愛おしいひとを捕まえているのかと言えば、それはきっとわたしが彼をこのつまらない劣等感よりもほんの少しだけ強く愛しているからに違いない。

「また手に力入れてたのか?…痕になってる」
生ぬるいベッドの上で辰也がわたしの手首を握って言った。辰也が直にわたしに与えてくれる、引き攣るような痛みや快感に行き場を失くした短い爪が刻んだ赤い半月が四つ、左の手のひらに並んで浮かんでいた。辰也がそのうちのひとつを舌でなぞる。熱い温度は手のひらにできた小さな溝をいやに熱心に撫でて、思い出したかのように不意にわたしの首元に着地した。薄い皮膚を噛み付くように吸われて、またひとつわたしに辰也の痕が残ったことを知る。わたしの喉元に寄せたままの唇がぼそりと何事かつぶやいた。
「俺に立てたって構わないのに」
「うん?」
「爪」
そうやって笑う辰也は優しくてひどく残酷だ。だって、彼に自分の痕を残すことが、わたしにはできない。そんなことをすればきっと後ろ暗いわたしの存在は、消えてしまう。消されて、失くなってしまう。
驕りでも自惚れでもなく、辰也は確かにわたしを愛していて、けれどもだからこそいっとう質が悪かった。ただわたしが彼の一番ではないというそれだけがわたしを縛り付けて許さない。身体を繋ぐことはできるのに、その背中に自分の傷を残せない。だからわたしは爪を短く切るのだ。
「辰也の背中、綺麗だから痕がついたらもったいないよ」
「…そんなこと」
見透かしたように辰也は笑うけれど、わたしのその言い訳はあながち苦し紛れでもないのだ。わたしはもとより、誰の印も付いていない彼の背中はわたしに錯覚させてくれる。他の女の人の存在など、まるで無いのだと。
色の熱の引き切っていない身体で辰也がわたしに乗りかかって、ちいさな凹凸までぴたりと嵌め合わせるように裸の肌を寄せる。辰也の体温が乗ったへその裏側が、ざわりと蠢いた。降りてくる唇を受け止めて、まるで前戯のような熱心さで吸われる舌をわたしもまた駆け引きのように縮込ませる。追って侵入してきた辰也の温度は完全に色情を取り戻していた。
「         」
息継ぎの音を漏らして離れた唇が、愛の言葉を紡いでわたしに放る。それを紡ぎ直して彼に放り返せばいいのだ、わたしも。とりわけこんなにもいびつな形をしたわたしたちの恋は、決まりきった台詞と繋ぐ身体さえあれば、せめて終わるまでは取り繕うことが出来るから。
「……うん、わたしも」
「…うん」
言葉とは裏腹に崩れる辰也のポーカーフェイスが見えない距離まで、小さく整ったその顔を両手で挟んで引き寄せた。
こんなときばかり辰也は苦しそうに笑う。彼がわたしにつく嘘が、まるで彼自身の胸を抉っているかのように。いつもみたいに冷静に笑っていてほしい。決して見抜けないように、わたしを上手く騙してほしいのに。辰也はやっぱり、優しくて残酷だ。


明け方近く、せかいが一番暗い時間に、辰也は帰っていった。寝ているはずのわたしの頭をそっと撫でて、心から愛しむようなキスを落として。
「goodnight、…またね」
引きとめたい気持ちをどうにか押さえてわたしはただその声を聞く。いつかちゃんと、わたしの方から終わりを告げるから。辰也が夜毎残してゆく「またね」がこの小さな部屋に積もり積もって、いつか壊れてしまうその日まで、無言で叫ぶこの「愛してる」が彼に届いてしまわぬよう。

"i love you with all my heart"

例えその言葉が彼の心すべてではなくても、わたしが心すべてで彼を愛した証が、この手のひらには残っている。この赤い半月は確かに、わたしが辰也につけた傷だ。誰にも、辰也にさえ消せない、わたしの傷痕。

121113 この愛しさだけ還す
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -