※医学生と大学院生

がちゃりと研究室の扉が開いた時、わたしは扉に背を向けてハードカバーの分厚い文献を読んでいた。表紙に古めかしい金文字の装飾が施された、抱えているだけで腕が筋肉痛になってしまいそうに重たい本。それを、資料や消し屑が散らかる自分の机に広げてああでもないこうでもないと、うんうん唸っていた。だから、扉を開けたのがケンくんだとはちっとも思わなかったのだ。
「おい」
不機嫌そうな声はいつも通りで、だからと言ってケンくんはいつもそのとおり不機嫌だとは限らない。大体が難しいひとなのだ。文字から目を離して振り返ると、ケンくんは眉間に皺を寄せてわたしを見下ろしていた。
「ケンくん。どうしたの」
「雨、降ってる」
ケンくんは半分本棚で隠れた研究室の小さな窓の外を指した。おもてはもう日が落ちていて、ようく目を凝らさなければ雨粒が窓硝子を叩く様子は見られなかったけれど、夜の落ち着いたしじまのなかで雨が土や屋根や木に色々にぶつかる音は耳を澄まさずとも聞かれた。この様子では、ついさっき降り出したということもないだろう。文字に誘われると周りが見えなくなってしまう癖を、いい加減直さなければ。
「ほんとだ、気付かなかった」
「だろうな」
「今日雨降る予報だったっけ」
「やっぱ傘持って無かったのかよ」
ケンくんが呆れながら腕を組む。けれど少し安心したようなその横顔を見て、わたしは彼がここにやってきたのをようやく理解した。ハードカバーの背表紙についていた紐製のしおりを頁に挟みこんで立ち上がる。雨の音はまだ続いていた。
「じゃあお迎えも来たし帰ろうかな」
ううんっと伸びをするとケンくんは複雑そうな変な顔をした。机の真中にでんと置いてある閉じたばかりの本を指差す。中世ヨーロッパ文学が専攻のわたしの、次の論文の主文献。締め切りは冬の頭だ。
「それ、もういいの」
「明日また来るし、平気」
「持って帰ればいいのに」
「だってあれ、すごく重い」
そこでケンくんはまた溜息をついた。彼の溜息には種類があって、心の底から呆れた深いやつと、不機嫌な時に癖みたいに出てくるのと、それから下手くそな照れ隠し。わたしは選択肢を浮かべて彼の次の言葉を待つ。
「あのさあ、何のために俺が来たと思ってんの」
「…答えは3、か」
「なんて?」
「ううん、でもあれほんとに重たいし」
「俺が本一冊持てない貧弱な男だとでも」
「あははわかった、お願いする」
「はいはい」
ケンくんは相変わらず眉間にしわを作ったまま本に手を伸ばす。わたしが両手で精一杯だったのを左手だけで抱えてしまうケンくんは、やっぱり男のひとだなあと彼が聞いたら臍を曲げてしまいそうなことをぼんやりと思った。

建物を出ると、雨はだいぶ小降りになっていた。ケンくんは傘とわたしの本二つともを持ってくれて、繋ぐ手が塞がってしまっていたので、傘の柄を持つケンくんの左手を上から握り込んだ。雨のせいで少し下がった気温に、彼の体温はあたたかい。指の隙間に滑り込むとケンくんの力が僅かに強くなってわたしの指先を包んだ。
「これ、何の本?」
「イタリアの史劇集。読む?」
「よくそんなもんを嬉しそうに読めるよな」
「ケンくんの読む本は怖いよ」
「ただの医学書だろ」
「そのただの医学書の解剖写真を見開きで枕元に置いたのはだれ」
「だからあれは読んでる途中で寝たんだよ」
「嘘だよ、わざわざ内臓がわたしの方向いてたもん」
「そりゃ御愁傷サマ」
はっ、とケンくんが鼻で笑う。思いっきり嫌味っぽいのに、わたしはそのプライドの塊みたいな笑顔がどうしようもなく好きなのだ。
難しいひとを好きになると難しい。何が本当に好きか、分からなくなって不安になる。
だけどわたしは、ケンくんの体温に後ろから包まれながら分厚い本の頁をめくる、彼とひとつの傘を握り締める先にきっと待っているその時間をただとても幸せに思うのだ。

「ケンくん、」
「ん」
「ありがとうね」
「…どーいたしまして」

121001 ローレンの夜列車
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