「クリーチャーめは、一体何からお話したらよいのか、わかりません」
大きなビー玉みたいな目が虚に、いつもはうるさいその鼻音もせず、ひゅー、と息の抜ける呼吸音だけが部屋に響く。黒い塊がふたつ、蝋燭の明かりだけが燈る部屋に揺らめく影。ひとつは小汚い屋敷しもべ。だがその姿は普段の忙しく落ち着きのない動きも止まり、大きな目に光りは見えない。もうひとつは人間。こちらも先程からぴくり、とも動かず、ただ屋敷しもべを黙って見つめていた。木枯らしがコンコン、と窓を叩いた。
「レギュラス様は、とても穏やかに話してくださいました…レギュラス様は、なんだかとても、とても嬉しそうでした…」
シリウス・ブラックの弟。
いつだって誰かが、僕を指さしてそう呼んだ。兄さんは何でも出来た。そして純血や血筋に捕われないその性格からか、誰にでも慕われた。僕は何処に行ってもどんな時でもその兄さんとの比較対象でしかなかった。兄さんはどんどん離れていきながらそれでもいつも僕の前から消えない存在だった。母様も言った、友達も言った、見ず知らずの他人も言った、シリウスと僕をいつも比べていた。僕はただそれが嫌で仕方が無かった。
「だから、シリウスと口を利かないの?」
「あなたに、何がわかるんですか」
彼女との出会いは突然だった。僕の気持ち何て考えずに土足で人の心に入ってくる人だと、最初は酷く不快に思った。でもなぜだろう。僕はなぜそんな人に、こんなことを話しているのだろう。彼女は僕を真っ直ぐに見つめた。僕の、僕だけの目を彼女は映し出してくれた。屈託のない純粋な眼差しだった。
「レギュラスはレギュラスだもんね」
「っ――…」
「私知ってるよ?レギュラスはシリウスより努力家だし、繊細だし、思慮深くて。シリウスの手はごつごつしてて男っぽいけど、レギュラスは細くて綺麗だよね。それにまつげもレギュラスの方が長いでしょ。あと髪の毛もレギュラスの方が細くてサラサラで、」
「っく…あはは!」
「え?何で笑うの?」
一生懸命僕のことを話しているその表情が、眩しかった。なんだか、たったこれだけ、これだけのことだったが救われた気がしたのは、なぜだろう。
「それにレギュラス、本当はシリウスのこと、大好きだもんね」
私、ちゃんと知ってるよ?そう言って彼女曰く兄さんよりサラサラな髪をくしゃくしゃと撫でてくれた。…笑顔がすごく暖かい。陽だまりみたいだ。
「私は、ちゃんとレギュラスのこと見てるから」
「…はい」
ありがとうございます。そう、言いたかった。
それから先輩はずっと側にいてくれた。ずっと僕だけを見ていてくれた。僕は先輩を愛していた、先輩も僕を愛してくれた。ずっと一緒にいよう、いつしか僕らはそんな約束をするようになった。僕らはまだ子供で僕らはまだ何も知らなかった。知らなすぎた。世界はいつか終わりを迎えることを、そんなことを受け止めたくはなかった。例え世界が滅んでもそれでも僕らは永遠に一緒だと、そう思っていた。
だけどそんな僕らの終わりは呆気なくも、あまりに突然だった。
「僕は…死喰い人になります」
「そう…」
先輩は何も言わなかった。きっと僕の気持ちを知っていたから、止めても無駄だとわかっていたから。だけど代わりに先輩はこの世の終わりだという目をしていた。そして先輩は静かに言った。
「ねえレギュラス、私はちゃんとレギュラスのことを見てるから」
僕を僕だと、僕を見つけてくれた先輩は悲しそうに僕に告げた。
一年が経った頃、我が君はクリーチャーに命令を下した。何も疑わず僕はクリーチャーを差し出した。それが間違いだったと気付いた時には遅かった。クリーチャーが帰ってきた時、僕は全てを悟り、全てを捨てる覚悟をした。ただ、どうしても過ぎる貴女のあの陽だまりみたいな笑顔が、僕を少しだけ弱くさせて、僕を少しだけ生かしている、そんな気分だった。
「なあクリーチャー、お願いがあるんだ」
「はい、何でしょうレギュラス様」
「今からする話を、なまえ先輩にして欲しい」
「はい」
薬が張った水盆を目の前に僕は恐怖を感じていた。だからせめて、楽しかった、幸せだった、美しい思い出で胸を満たそうと、そう考えた。そう考えたら自然に浮かんできたのは先輩のことばかりだった。
先輩は僕を暗く深い闇の世界から導き出してくれた。そして暖かい陽だまりで僕を包み込んでくれた。僕は幸せだった。先輩がいれば世界に光りが燈ることを僕は知った。いつだって僕の世界は先輩がいなければ成り立たなかったんだ。だからもう一度、闇の世界に染まってしまっても、それでも僕を見つけてくれると言ってくれた先輩がいたから、僕は生きてこれた。
だけども、もういいんだ。僕はもう十分幸せだった。僕を見つけてくれた先輩と出会えた、それだけでもう…
なあクリーチャー、
「はい…」
このことは、彼女以外には誰にも話さないでくれ。
「…はい」
それから彼女に、
「愛している、と…それから…」
ずっと言えなかった。
ありがとう、と伝えてくれ。
「レギュラス様は、そうおっしゃいました。」
窓に吹き付ける木枯らしが強さを増してぱきぱき、と音をたてる。クリーチャーはいつの間にか目からこぼれ落ちている涙を自分の服で拭った。蝋燭の光りだけが、そんなクリーチャーの横顔を淡く照らす。
もう一つの影が、ゆっくり立ち上がりドアに向かう。ずず、とクリーチャーのものじゃない鼻を啜る声が聞こえる。こちらも、とめどなく涙を流している。
「なまえ様?」
クリーチャーが名前を呼ぶ。なまえと呼ばれた女は立ち止まり、振り返る。
「どちらに?」
「決まってるでしょ?」
レギュラスのところだよ。
その時女が見せた笑顔は正しくレギュラスの言う陽だまりみたいな笑顔だ、とクリーチャーは悟った。自分も連れて行って欲しいと縋る思いを堪えて拳をぎゅっ、と握った。彼女が言った言葉を理解したからだ。クリーチャーは何も言えなかった。ただ、この世界から自分が最も大切な人の最も大切な人がまたひとり、消えてしまうことをその小さな体の宿る大きな心で感じていた。
クリーチャー、
「はい…」
いつかの主人と同じような、優しい声だった。
「私もレギュラスに、ありがとうって、言いたかったな」
そう言って、女は静かに部屋を後にした。
今は小さくなった蝋燭の光りに揺れる影はひとつ、ただ涙を拭うだけだった。
good-bye,
(ただ、君に会いに)