私は特別なんだと思う。否そう思うようにしている。そうじゃなかったら彼はとてもズルイ人だ。大人と子供の狭間にいるからかな、一歩踏み込んでしまおうと思えばやんわりと否定され、わざと子供っぽく振る舞えば強い力で引き戻されることにはもう慣れた。何でもいいと思った。理不尽で我が儘でも彼の側にいることができるのなら、もう何でもいい。
「なまえ、どこ行くの?」
どき、その言葉に少し心臓が波立つ。今まさに寮を出ようとした私に親友は何の悪気も無く聞く。
「あー…ちょっと、図書館に」
「ああそう」
あまり遅くならないうちに、ね、なんていう勤勉な友に内心ごめんねと強く思い寮を出た。…図書館とは逆の方向を行く。
その重い扉を開ければ開放的な教室で、回りにはよくわからない魔法道具が並べられている。触れただけで崩れそうな繊細なもの、よくわからない煙を上げて忽ち形を変えるもの。そして教室の空気を深く吸い込むと、なんとなく、彼の香りがした気がする。あの独特の、優しい甘い香り。
ゆっくり、ゆっくりと一番奥の扉を近寄る。そっと、出来るだけ風のように。扉に手をかける。彼はきっと少し驚いて困ったように笑うだろう。ドアノブはひんやり冷たい。
「あはは」
「やだ、先生ったら」
手をかけた瞬間、中から声が聞こえた。反射的にドアノブから手を離す。確かに、二人。男女の声だ。一人はわかる。この部屋の持ち主で自分が会いに来た張本人、それは先生と呼ばれた。もう一人、甲高い声で彼を先生と呼んだ、きっと自分と同じ程の年齢の、女子。
ドアノブから引いた手をゆっくり、木目の荒いドアに翳す。そしてゆっくりと二回、コンコンとノックする。二人の心臓にノックするみたいだ。随分と胸の高鳴りが違うものに変わったことに気づく。二人の声は止んだ。かわりに少し間があって優しさがたんまりとこもった彼の「どうぞ」という声が聞こえる。わざと間を置いて少し顔を覗かせる。ランタンの淡い明かりが目を擽る。その部屋の真ん中に二人はいるのだろう。二人の長い影だけが見える。
「やあこんばんわ、ミスみょうじ」
「先生、」
わざと、少しだけ悲しそうな声で呼ぶ。女生徒は何も言わない。先生は相も変わらず優しそうな笑顔を浮かべている。まるで何もかも、わかったと言っているみたいに。
「さて、補習は終わりだ。もうわかったね?君は寮に帰りなさい」
「えールーピン先生!それじゃあ寮まで送ってくださる?」
「そうしたいのは山々だが残念だ。僕は今度は彼女を見なくてはならないのでね」
彼はちらり、と私に視線を送る。つられて駄々をこねる女生徒も私を見る。まるで舐めるようにつま先から頭の先まで、とはきっとこんな感じだ。ごそごそと荷物を片付け先生に一言二言言った後、彼女はこちらへ向かってきた。私はささ、と道を空けた。すれ違う瞬間、何か言いたそうな目が突き刺す。そして彼女は少し乱暴に先生の私室のドアを閉めた。
「さて、」
すこしの間の後、先生はゆっくりと呟いた。
「紅茶でいいかな」
それに返事はせずに私は奥の、二人がかけていた所とは別の、大きくて少し擦り切れたソファーに腰掛ける。デスクには世界中のチョコが入った小皿がおいてある。その中のひとつ、を手にとる。読めない文字、見たこともない。どこの国のものか、検討もつかない。
「それはね、確かここよりずっと南にある、とても暖かい国のものだ」
ゆらゆらと湯気を揺らしてソーサーに乗せられた二つのカップ。片方は少し欠けている先生の、もう片方は私が勝手に置いた、私専用のもの。ああ、あの時も先生は困ったような笑顔をしていた。
先生は角砂糖をいくつか入れてマドラーでゆっくり紅茶を掻き混ぜる。ゆっくりゆっくり、砂糖は溶けて、見えなくなる。ゆっくりゆっくり、シンショクされていく。薄い唇が、それを飲み込む。
「なまえ?」
「さっきの、子」
ああこんなこと、聞きたくはないの。だってまた君は子供なんだねと思われたくなんかない。こんなこととても子供じみているから。
「質問がある、と言われてね」
宥めるような、優しい口調。彼の目を見れずにいる。まだ視線はチョコレートの読めやしない文字。ああ、私の熱すぎる体温で溶けてしまいそうだ。
「飲まないのかい?」
じわり、じわり、
「なまえ?」
シンショクして溶かして、そして、
「なまえ、ほら」
私を、どうするの?
「こっちを見て」
「先生、」
彼はただ優しく笑うだけだった。
「いい子だ」
チョコを奪われた。するり、とその細い手で包み紙を破り中のものを口に運ぶ。かり、と噛まれる音。少し傷ついた彼の手が私の頬を包み込む。暖かい手。そして唇が近づいてきた。甘い、甘い瞬間。
チョコレート味のキスが、胸に染みる。
「夜中に来て帰さないのも、自分専用のカップが置いてあるのも、こんなことするのも、なまえだけだよ」
大人って、ズルイ。
ロージィガールの法則
(甘い大人の恋を君と)