メビウスの心情

秒針の音を近づいて来る足音がかき消した。足音の主は軽く床を蹴ると、風を伴って机に腰かける。重厚な机は彼女の重みを支えても微動だにせず、机の持ち主である彼も同じ様だった。何事もなかったかのように、丁寧に並べられた数枚の紙に没頭している。集中しているのか、単に無視されているだけなのか、おそらく後者だろうが、ナマエにとってはどちらでも良かった。初めて会った時よりも待遇は格段に良くなっている。それより気になるのは紙の方だった。好奇心から彼の肩越しに手元をのぞき込もうとすれば、やんわりと視界をふさがれる。

「最重要機密書類ですから」

穏やかな声に答えを与えられた。言葉の裏側に流れるはっきりとした拒絶に、ナマエは大人しく目をつむる。暖かい手のひらが離れていくのが少し名残惜しかった。幾度か紙の擦れる音がすると、次に目を開けた時にはすっかり消えてなくなっていた。

「私の目の前で、そういう書類を広げているほうもまずいと思うけどなあ。まあ安心してよ。一文字も読んでないから」

探るような視線をよこしたアポロにナマエがそう答えると、アポロの肩からようやく力が抜けた。

「もし、さきほどの言葉に嘘があるようでしたら――」

「命はない、でしょ?」

「全くお前は――」

「危機感が足りない!もう何回も聞いた」

続けようとした言葉を再びさらわれて閉口したアポロに、ナマエはカラカラと笑いかけた。


「それはお前が懲りずに何度もここへ来るからでしょう。もう二度と来ないようにと言ったはずですが」

「アポロさんが心変わりしてくれるまで、何回でも来るよ」

ナマエはぴょんと机から降りて、椅子に腰かけるアポロの隣に並んだ。自分の目線より下にあるアポロの姿をじっと見つめる。その顔は笑いの名残を浮かべていたが、少しだけ泣き出しそうにも見えた。

「ねえアポロさん。ロケット団を解散してくれないかな」

カチリ、カチリと秒針が2つ進んだ。アポロはナマエの視線が注がれているのに気づきながら、目を合わせようとはしなかった。

「その予定はありません」

静かな声音には強い決意がこもっていて、

「やっぱり、今日もダメかぁ」

ナマエは苦笑をにじませたのだった。

「何度説得に来ようが無駄です。最初にここへ来た時のように、力で訴えた方が可能性はありますよ」

相手をしましょうか?と問いかけられて、ナマエは腰のモンスターボールを撫でながら「んー」とうなった。袖からのぞく手の甲から手首に向かって、酷い引き攣れができている。その傷跡は肘まで続いていることだろう。昔アポロと戦ったとき、彼のヘルガ―に焼かれた痕だ。

「今はいいや。もうボロ雑巾みたいにされて追い出されるのはこりごり」

眉をハの字にして首を振るナマエは、血にまみれ、痛みに歯を食いしばりながらも、ギラギラとした目で睨んできた少女の姿とまるで重ならない。

「あの時アポロさん本気で私のこと焼こうとするんだもん。死ぬかと思った」

「正義を振りかざしてきた小娘に適切な処置を行っただけですよ。もっとも、あのまま抵抗するようでしたら、お前の予想もあながち間違っていなかったかもしれませんね」

「すぐに気失って良かった……」

小声でつぶやくと、ナマエは片腕を柔く擦った。完治とは言い難い傷が痛みをぶり返して、じくじくと疼く。そこには以前、自分で巻いた覚えのない包帯が巻かれていて、完璧な治療がなされていたのを思い出した。今ではなんとなくだが、誰にやってもらったのか分かる気がする。

あれ以来、頑なだったナマエの心は不安定な水面のように揺らいでいる。

「痛いのが嫌っていうのもあるんだけどね。本当のことを言うと、アポロさんたちとあんまり戦いたくないんだ」

「お前が組さず、歯向かうのならば、私たちはいつまでも敵同士です」

「分かってる」

「わがままを言いますね」

「うん」

呆れられている気がして、ナマエの頭はどんどん下がり、ついにはうつむいてしまった。口をきつく結んでいないと、胸の内で爆ぜた思いが喉元にせり上がって溢れ出してしまいそうだ。ここへ何度も足を運ぶうちに、絆されたというのか。断罪されるべきだと怒りをぶつけた後で、フィルター越しに見た悪だけではない彼らの姿に戸惑ううちに、ナマエの中で確かに何かが変わってしまった。彼らを糾弾する傍らで、この瞬間、居心地の良い関係を失わずにすむ方法を必死で模索している。


「でもね」


両の拳をぐっと握りしめて、ナマエは面をあげた。その瞳には凄絶な光が宿り、アポロの腕に泡立つような寒気が走った。


「私、ロケット団を潰すよ」

「おやおや、強気なことを」


まっすぐな視線を受けて、目を細めたアポロが立ち上がる。先ほどの威勢はどこに消えたのか、たじろいて距離を測ろうとするナマエを引き止めると、鼻先が触れそうになるまで顔を寄せた。


「宣戦する前に、己の身の安全を心配しておきなさい」


すっかり呑まれた様子のナマエに告げると、弱くその肩を押す。ぼんやりとアポロを見上げていたナマエの頬がぽぽぽと染まった。無言で一気にドアまで後退するナマエを見ると、アポロは口元に手を当てて小さく笑う。ナマエは慌てて部屋の外に身体を滑らせて、後手にノブを取った。勢いよくドアが閉まりかけ、半開きのそこから赤い顔をのぞかせる。


「アポロさん」

「はい」

「また来るね」


パタンとドアが閉まると同時に、秒針の音が戻ってきた。アポロはドアが再び開くことがないのを確認すると、しまっておいた書類を取り出す。無防備に晒すなとナマエに言われた最重要機密だが、もしかしたら、彼女の目に触れて欲しいという思いが心のどこかであったかもしれない。いやはや、やはりそのような愚考はありえないだろう。簡素なホチキス留めの紙にはラジオ塔占拠計画と記されていた。


「ええ、また、ラジオ塔で」


アポロは低い声でつぶやくと、書類に目を落とした。自らの信念とナマエの語る正義のどちらが生き残るのか、未だはかりかねている。珍しく考えることを放棄したアポロは、代わりに近々予定されている大計画の詳細を再び確認し始めた。乗り込んでくるであろう彼女への対策を頭に置きながら。



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