amore fermo, amore innosente

玄関チャイムが鳴ったので、「はあい」と答えながら覗き穴を覗いたら、パンダがいた。
首元には白地に黒ドットのスカーフを巻き、肩から反対側の脇にかけてたすきのような形でリボンを結んでいる、お洒落なパンダだ。口を真一文字に引き結び、まんまるに見開いた目でこちらを見ている。
「宏」
パンダが喋った。
だが、口は動いていない。腹話術だ。突然我が家を訪問して来たパンダが、腹話術で俺の名前を呼んでいる。こんな知人、いや知パンダがいただろうか。それも下の名前を呼び捨てにしてくるような親しい知パンダである。大変だ。そんな存在がいた記憶がない。といってまさかパンダの顔を忘れるとも思えない。
「ひろむ。早く開けろ。俺だ」
ドアに張り付いたまま動きを止めている俺を急かすように、パンダは苛立った声を出した。俺は首を傾げつつ(ドアを隔てているのでパンダには俺の様子は見えないだろうが)慎重に口を開いた。
「…あの、俺と言われても」
「不動だろ」
食い気味にパンダが言う。ふどう、ふどう、と小さく呟いてから、
「ああ、不動さんか!」
それならば話は早い。よく見知った人物の名前を復唱しながらドアを開けると、そこにはパンダを抱いた長身の男が佇んでいた。
パンダは正確に言うと大きなパンダのぬいぐるみで、不機嫌そうな不動の腕にくったりともたれかかっているのだった。間抜けな顔でこちらを見ているパンダとは裏腹に不動は眉間にくっきりと皺を寄せて俺を見下ろし、
「お前解ってて今のやりとりしたな」
と低い声を出した。
「なになにそのパンダ?」
不動の言葉を完全に無視してはしゃいだ声を上げ、俺は身体を引いてドアを大きく開け、不動を家の中へ招き入れた。「家の近所の雑貨屋でな」不動は微妙に言葉足らずな返答をしながら、腰を屈めて戸口を潜った。動作は決して鈍重な訳でも緩慢な訳でもないのだがどこかのったりとした印象を与えるのは、彼が手足の長さを持て余しているからだろう。不動の脱いだ規格外のサイズの革靴を揃えて置き直し、勝手知ったる他人の家とばかりにずかずかと奥へ入っていく長身の背中を追う。
仕事帰りに来てくれたようだ。約束はしていなかったが、来てくれると思っていた。
「袋に入れるか包んでくれりゃいいものを、リボンだけかけて渡された。絶対店員にからかわれた。むかつくから堂々と持って帰って来てやった。周りのやつらにはチラ見されたがその都度睨んでやった」
低いトーンで早口に畳みかけながら、不動は険しい顔つきでくるりとこちらを振り向いた。その動作に合わせてパンダの頭がぐらぐらと揺れた。
「可愛い」
思わず呟く。不動はそれを聞くなり、「だろ?お前が気に入ると思って」とすぐに口元を弛めた。気難しいくせにこういう単純なところがあるのだこの男は。
可愛いのはアンタの方だけどな。
俺は心の中でこっそりと呟きつつ、無邪気な笑顔を取り繕って不動とパンダの顔を見比べた。
骨ばった手があくまで『物体』という扱いでぞんざいにぬいぐるみを抱えている様は、大事そうに両腕で抱いたりするよりも照れが垣間見えて却って可愛かった。ダークブラウンのスーツをかっちりと着こなした190cm以上の強面の中年男性が、自分の上半身と同じくらいのサイズのパンダのぬいぐるみを抱えて闊歩していたら、それは通行人も見るだろう。そもそも身長だけで目を惹く男だ。
不動大典という、名前を見ただけでも如何にもでかそうなこの男は、俺の姉の恋人である。
俺が産まれてすぐに父が事故で亡くなり、母子家庭となった我が家では、働きに出た母の代わりに歳の離れた姉が親代わりをしていた。俺が生まれた頃には姉は大学生で、その時には既に不動との交際が開始しており、家に頻繁に顔を見せていた不動は俺のおむつを換えたこともあるという。
不動にとっては俺は弟のようなものであり、下手したら息子のような感覚すらあるだろう。一応高校1年生になったのだが、今だに小さい子供のような扱いをされることがある。
パンダのぬいぐるみってなんだよ。俺が気に入ると思って、って。
心の内で苦笑しつつも無邪気に喜んでみせる、そんな自分が更に笑える。無邪気に喜んだりなんて、幼い頃から一度もしたことのない子供なのに。物心ついた頃から、大人の顔色を窺って動くタイプだった。けれど不動の前ではいつも子供らしくあろうとしたし、今もし続けている。
「それ、俺に?」
「ああ。お前可愛いもん好きだろ」
ほら、とパンダを差し出してくる。
可愛いものは確かに好きだが、俺が一番可愛いと思うのはアンタだ。
そんなことを言ってもふざけるなと一喝されるのがオチだろうから、ありがとう、とリボンのかかったパンダを両腕で抱き上げた。不動の体温が移って微かに温かい。ぎゅう、と鼻先を押しつけながら抱き締める。不動のプレゼントセンスが酷いのはずっと昔からだが、貰えて嬉しいのは本当だし、やはりさっきの姿が可愛かったから許す。
「それは美幸と俺からのプレゼントな。あいつ仕事で来れないけど、おめでとうって」
「うん。ありがとう」
姉は俺が中学に上がったのと同時に家を出て行った。不動と住む為だ。その当時で姉は既に30を越えており、俺も母もそのまま不動と結婚するものだと思っていたが、仕事好きな姉は今だに結婚はせずバリバリと働いている。不動もそれについて不満があるでもないようだった。
姉と不動の付き合いは長い。ずっと仲良く同棲しているのだし、事実婚と言って良いだろう。
それでも、二人が籍を入れていない事実に俺が一抹の救いを感じていることを、俺以外の誰も知らない。姉の苗字が『不動』になったら。俺が不動の義理の弟になる日が来たら。俺はそれを、『とどめを刺された』と感じるだろう。

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