ひとり×ひとり

 舞台袖の暗がりに身を潜めて出番を待つ時間は、何年経験を重ねても緊張する。
 視線の先には、蓄光テープでサンパチマイクの置き位置が示された戦場。頭上から舞台を照らす照明は観客席で見る印象よりもずっと眩しく、そして熱いことを知っている。
 前の組の出番が終わって暗転し、舞台転換用のBGMを挟んでから、ジャッジャッジャッと聴き慣れたアコギの音がスピーカーから流れ始めた。二人が共通で好きなアーティストの曲。出囃子として使いだしてから後悔した。純粋な気持ちで聴けなくなってしまったから。
 もたもたすんなと言わんばかりに、傍らに立っている相方が肩にとんと触れて来た。それに対して頷くでもなく、黙って舞台へ歩みを進める。まだライトはつかない。
 セットされた椅子に腰を下ろして正面に向き直ると、途端に無数の視線を感じた。実際には見えないがこちらをじっと見ているだろう、目、目、目。大半は三十代以下の女性のはずだ。今の若手は若年層の女性ファンに支えられている。養成所に入るまでならこれほど女性の注目を集めていることに多少興奮できたかもしれないが、今はただのプレッシャーでしかない。
 やがてBGMがフェードアウトして舞台上が明るくなる。観客とは目を合わせないように気を付けながら台詞を喋り始める。一年前まではこのまま最後まで一人きりだった。一人で演じて、一人でお辞儀をして、一人で背中を向けて。
 決められたきっかけで、相方が舞台上に現れる。グーテーモク(というコンビ名だ)のコントの傾向上、板付きの自分がツッコミである相方の登場を待つネタがほとんどだ。観客の視線がぞろりとそちらへ移る。まだライトの眩しさに慣れず一瞬目を眇める相方を出迎える瞬間がいつも、嬉しい。例え出番前に喧嘩をしていても、個人的に好きではないネタであったとしても。

「ネタ飛ばした。ごめん」
 舞台袖へ捌けて、菊井から何か言われる前に先手を打って謝った。菊井は低い溜息でそれに応え、「ちょっと」と手招きをして楽屋ではなく劇場の地下へ続く階段へ戸浦を誘った。
 事務所が保有するこの劇場の地下は使用頻度の低い小道具やセットの置き場になっている。楽屋はことネタライブとなると若手の芸人で溢れ返っているので、少々込み入った話がしたい時にはこの階段がよく使われる。ちょうど大人三人が並んで腰掛けられる幅の段に、一人分の距離を開けて座った。
「お前先週もネタ飛ばしたよな」
 眼鏡の奥からじっとこちらを見据えながら菊井は言った。インテリ風の小奇麗な見た目の菊井は大学卒業後に養成所に入ったクチで、戸浦とは同期だが4つ年上だ。
「先週の分は先週謝った」
「そういうことじゃなくて。何か改善策を考えるべきだと思わないわけ?」
「一回飛ばしたネタはもう飛ばさねーよ、誓って二度と。でも新ネタの入りが悪いのはしょうがない」
「もっと入念にネタ合わせすればいいんじゃないのか」
「嫌いなんだっつってんだろ」
「好き嫌いで準備を怠って飛ばすなんてプロのすることじゃない」
「…プロねえ…」
 思わず口元を歪めてしまった。
 その職業を名乗り、観客から金を貰っている以上、確かに自分たちはプロの芸人なのかもしれない。それでも戸浦は菊井が口にするその表現には違和感があった。
 養成所を卒業し、事務所に所属するようになってから5年。初舞台を踏んだ頃は19だった戸浦は24になった。しかしこの5年間、舞台に立っていた日数はどれだけあったろうか。下手したら合わせて365日にも満たない。
 芸歴6年目は業界ではまだまだ若手の域だ。もっと先輩でも売れずに粘っている芸人はいくらでもいる。けれど、ポンポンと売れて行きテレビで活躍している同期や後輩も中にはいる。
 彼らを見ているといつも考えてしまう。学生に混じってバイトをし、そちらで生計を立てながら月に4、5回舞台に立ち、月給1ケタのギャラを事務所から受け取っている自分は、果たして本当に『プロ』なのだろうかと。
「俺は別に舞台をナメてネタ合わせしねー訳じゃねーよ」
 組んだ自分の足の先、暗がりへ螺旋を描いて降りて行く階段を見下ろしながら、戸浦はつぶやいた。
「新鮮な感覚で舞台に立ちたいってだけ。綿密に練習してこなれたネタじゃ笑いなんて起きないと思ってるから」
 事前に決めた通りにやれるかどうかなんて重要ではない。良し悪しを決めるのは面白いかどうか、笑いが起きるかどうかだ。ハプニングは笑いに繋がることだって多い。コントは基本的になにがしかの役になりきるが、設定に入り込み過ぎたら柔軟性がなくなると戸浦は思っている。
「…お前のやり方は理解してるつもりだけど、最低限台本は頭に入れてくれなきゃ困る」
「悪いと思ってるよ。だからほんと、繰り返さないようにはしてっから」
 会話をぶった切るように強い口調で言い終えると、菊井はまた溜息をついて、自分の膝の間に頭を埋めた。この癖を見ているとイライラする。コンビを組む前は『お前』なんて呼ばれたことがなかった。言い争ったことだってなかった。
 戸浦は無言で立ち上がったが、制止の言葉はかからなかった。芸人仲間が集まって騒々しく盛り上がっているのであろう楽屋へ向かう足取りが重い。さっきまでライトの下で人を笑わせていたのに、当の自分たちにはひとかけらの笑顔もない。
 それが段々当たり前になりつつあった。

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