6月の恋人

 土曜日の午後、バスに乗って出掛けることにした。
 手ぶらで行ってやろうと思っていたが、道中で小雨が降り始めたのでビニール傘を買うついでに、コンビニで見舞いの品を買うことにした。
 梅雨入りした空はどんよりと灰色に曇り、気温は高くないのにまとわりつく湿気が空気中に満ちている。しばらくはこういう気候が続く見込みだ。嫌な顔をする人間が多いが、相模は別段梅雨が嫌いではない。
 お前は雨に似てる、ちょっと嫌だけどなんか好きで止むと寂しい。と昔ぬかしやがった腐れ縁に、久々に会いに行く。

 四人部屋の病室で、信濃は漫画みたいに足を包帯でグルグル巻きにして吊り下げていた。4つあるベッドのうち2つはマットが敷かれているだけで空っぽで、1つは使っている患者はいるようだが席を外している。老眼鏡をかけてベッドの上で新聞を読んでいた信濃は、すぐ脇に立って数秒してからやっと気付いたように顔を上げ、相模の姿を認めてぎょっとした顔をした。
「ほい見舞い」
 広げた新聞紙の上にビニール袋を放り出すと、丸めて突っ込んだままだったレシートと黄色いパッケージがこぼれ落ちた。
「吸えねぇって…」
「なんだよ折角買って来てやったのに」
「入院見舞いに酒と煙草買って来るなんて聞いたことね、」
 新聞を畳んで枕元に置き、苦々しい顔でアメリカンスピリッツの箱とアサヒスーパードライの缶2本を取り出した信濃が手を止め、袋から半ば抜き出していた小さな箱を奥に突っ込み直した。ニヤニヤしながら仕切りのカーテンを閉め、ベッドの足元あたりにあった丸椅子を引きずってきて腰掛ける。
「こおんなちっちゃい頃は俺に懐いて来て可愛かったのになー」
「年上みたいな言い方すんな、俺がそんなちっちゃい頃はお前もそんなじゃねぇか」
「いーや、俺の方が小6までは身長高かったからな。途中からニョキニョキ抜かしやがって遅生まれのくせに」
「関係ねぇ」
 俯いてビニール袋の口をしばる横顔、もみあげに白髪が混じっている。しばらく見ないうちに老けたなあと思う。しばらくと言っても2ヶ月ちょっとだと思うが。信濃は40歳にして早くも始まった老眼のせいで眼鏡をかけるようになったのだが、銀縁の洒落っ気のない老眼鏡は一気に昔馴染みをオッサンに見せた。
 腕を組んで掛け布団をかけた腹の上に乗せ、その上に顎を載せると、重いらしく「うぐっ」と聞き苦しい声が漏れた。
「仕事が忙しいっつって随分ほっとかれたもんだなぁ」
 新製品開発が形になるまでは当分会えそうにない、とは言われていた。部長になって初めての大きい仕事らしい。昔から生真面目で責任感の強い男だった。相模もサラリーマンなので繁忙期には余裕がなくなるのは解るし、一度物事に集中したらそれしか見えなくなる信濃の性質も知っていたので文句は言わなかった…いや「観に行く約束してた映画の公開終わんじゃねーか」とは怒ったがそれは置いておこう。
「で? 休みになったらなったで? 何の連絡を寄越すでもなく? ナース見て鼻の下伸ばしてた訳だ」
「伸ばすかよ…心配すると思って言わなかったんだよ、誰に聞いた?」
「所用でお前んとこの会社に電話したもんでな」
 文房具の製造・販売をしている会社で、事務用品を補充がてら企画開発部長の信濃に繋いでくれと窓口のお姉ちゃんに頼んだら、「あいにく信濃は怪我で入院中でして…」ときた訳だ。
 仮にも恋人(という言葉で括っていいのかわからないが)に、骨折・入院を報告しないやつがいるか? と思う。昔相模が妙な生え方の親知らずを放置した結果全身麻酔をかけて抜歯手術をする羽目になった時に「心配だ、代わってやりたい」と涙目になっていたやつのすることとは思えない。
「ていうかなんなの脚折るって」
「いや…駅の階段で前登ってた女の人がたっけぇヒール履いてて、足捻って転びそうになったのを助けたら俺が落ちた」
「馬鹿?」
「俺のせいじゃねぇ」
「何のために日頃ジム行って鍛えてんだよ」
「女の人支えるためには鍛えてねぇ」
 ふてくされたような口調で呟いてそっぽを向く。相模が黙って上目遣いに睨んでいると、沈黙に耐えかねたようにちらりとこちらに視線を寄越してからまた目を逸らした。小学生の頃、喧嘩して大人に叱られた時と同じ顔をしている。ワックスで髪を立てなくなったのは何歳の頃からだっけ。
「それアレだな? 恋に落ちるベタなパターンだな」
「歳考えろよ…相手20代前半のOLさんだぜ」
「歳の差20なんて今どきザラじゃねえの」
「見舞いに来てくれたけど、左手薬指に指輪してたからな」
「障害があるほど燃えるってな」
「しつこい、あと痛い」
 途中から顎でグリグリ腹を圧迫しながら喋っていたら頭をはたかれた。仕返しに脚を狙いにかかると「やめろやめろマジでやめろ」と腕を掴んで止められる。チッと舌打ちしつつ丸椅子に腰を戻し、身を乗り出すとその分信濃が身体を引いた。ありあわせのものなのかよく見るとやたらにダサいパジャマを着ている。老眼鏡と相俟ってこりゃダメだ、ビジュアル的にアウト。
「俺に言うことない?」
 ゆっくりと低い声で問うと、信濃は無精ひげの生えた口元をムズムズさせて視線を落とした。
「…悪いと思ってる」
「それは何についてだ?」
「会えなかったことも入院黙ってたこともだよ…」
「ほんとだよ。もっと謝れや平身低頭」
「悪いとは思ってるけど…わかれよ」
 ぼそぼそ言い募る信濃の耳たぶが赤くなっている。
「お前に会ったらだめなんだよ…帰りたくなくなるし帰らせたくなくなる」
「問題ある?」
「仕事できなくなるだろうが」
「ふっふん」
 完全に馬鹿にして鼻で笑ったら「その余裕の態度がむかつくんだよ」と目を剥かれた。
「なんか俺ばっかりお前に踊らされてる気がする。ウン十年も」
「馬鹿め。世の中告ったもん負けって相場が決まってるんだ」
「幼稚園の頃の話じゃねぇか」
 おれおんなのことなんてけっこんしたくない、いっしょうよっくんといる――という、当時3つ上の姉にいじめられていたせいで女子嫌いだった信濃の発言は、今のところ現実となっている。数少ないカムアウトした相手には「幼馴染とか恋愛感情抱くのにハードル高くない?」と驚かれるが、小さい頃から兄弟みたいに育ったからこそ抱ける劣情だってある。
 年相応に焼酎のお湯割りなんかを飲んでいるのを見ると妙に生意気に思えて押し倒したくなるし、小学生の頃喧嘩になって容赦なく引っ掻いた時の傷痕が二の腕にうっすらと残っているのをベッドの上で見ると泣きたくなるほどいとおしい。積み重ねてきた年月を思い知る。信濃が透き通るようなやわらかい髪の毛をしていた頃。
 同じ病院でオギャアと生まれて、幼稚園から小中と一緒で、勤めた会社は2駅離れた程度の距離で。思い返す限りつかず離れず、でもずっと互いの事が好きだ。
「太るの気にしてるのも俺だけだし」
「俺太れない体質なんだって」
自分みたいにカリカリな体型より健康的に脂肪のついた信濃の方が魅力的な身体だと思うが、当人は相模の裸体を見る度に鼻の頭に皺を寄せてから己の体型を見下ろすのだ。飯を食べに行くと低カロリーメニューをチョイスしようとしたり白米の量を減らそうとするので相模は逐一止めている。体型なんか関係なく美味そうにたくさん食べる方がいいに決まってる。体重の増減の激しいタイプだが最近は忙しさにかまけてろくに食べていないのだろう、記憶よりも幾分ほっそりとしている。作りに行ってやりたいくらいだ。
「そもそもウン十年俺慣れしねえお前が悪いだろこの場合。ところで俺に言うことっていうのはそれだけか?」
「…なんだよ。何かあったっけ」
 信濃は本気で戸惑った顔をする。相模は思いっきり不機嫌そうに唇を歪めてみせた。
「ふうん。じゃあいい」
「え? 何、気になる。帰るの?」
「帰る」
 腰を浮かせると信濃は物言いたげに口をうっすら開いたが、結局何も言わなかった。何をしたいのかはわかっていたが、汲んでやる義理はないので肩を竦めてベッドサイドを離れる。
 軽い手ごたえのスライドドアを引き開けながら、思い出して振り向いた。
「使えよな。見舞い」
「…うっすいコンドーム買ってきやがって」
 苦々しく答える信濃にひらひらと手を振って、病室を後にした。留守にしてる間にこいつの家の冷蔵庫の中身腐ればいいのに。あとどうせ溜めっぱなしの洗濯物にカビ生えろ。

 病室にいる間に雨は本降りになっていた。ばかでかい傘立てに鍵を挿してビニール傘を抜き取り、バス停まで歩きながら携帯をチェックする。メールも着信もなかった。画面にぱたぱたと水滴が落ちる。
 待ってるんだけどな。
 時刻表を確認したら、さっきバスが来たばかりのようだった。次のバス停まで散歩がてら歩くことにした。透明な膜越しに、ぼやけた色の雨空を仰ぐ。傘に雨粒がぶつかる音というのは静かでうるさい。
 これから信濃は忙しくなるんだろうな。休んだ分新製品開発とやらが落ち着くのも遅れるんだろう。相模は経理の人間なので月末や年度末はそれなりに忙しいが、所詮は決まりきった業務で、残業だって滅多にない。
 一緒に住もうくらい言えないもんかね。
 スニーカーが濡れるのを無視して歩く。例えばお前が靴を濡らして帰ってきた夜に、俺なら新聞紙を丸めて型崩れしないように詰めておいて、朝方には乾くようにしてやるのに。代わりにお前は駅ビルで何か甘い物を買って来るといい。そういう部分を補い合うことが、二人でいればうまくいくのに。
 気付かないんだろうな、あいつは。
 携帯を握り締める。負ける覚悟を決めるために、バス停もう一つ分歩こう。

1/1

[ ][ ]
[mokuji]



第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -