幸福な食卓

幼馴染みの拓己は恐ろしく家事の巧い男だ。
小学校低学年の頃に両親が離婚して以来、多忙な父親と二人暮らししていた彼は、遊びたい盛りの時期にも面倒を見てくれる大人が身近にいなかったそうで、高校を出て一人暮らしを始めるまでは家族二人分の家事を一手に引き受けていた。子供の頃から有稀が家に遊びに行くとご飯を出してくれるのは当然のように拓己で、その手際の良さと男の料理らしからぬ垢抜けたメニューの数々には感動したものだ。
凝り性の拓己は小遣いで買った分厚い料理本に記載されたレシピを余さず習得し、中学に上がる頃には主婦歴20年を誇る有稀の母親よりも料理が上手くなっていた。
掃除、洗濯、買い物、裁縫についても、拓己は完璧にこなした。スポーツ好きで体育の成績も良かったが、学生時代の拓己は部活にも入らず、趣味と言って良いような熱を注いで家事の腕を磨いていた。
ただ、後に聞いたところによると家事が好きだった訳ではないらしい。生来(恐らくやり手の経営者である父親からの遺伝で)完璧主義で上昇志向の強い彼は、必要に迫られてやることになった家事を性格上突き詰めずにはいられなかったのだという。怠惰という看板を背負って歩いているような有稀とは雲泥の差といえる。女だったら嫁に貰いたかった、と何度思ったか知れない(阿呆な小学生の頃に実際プロポーズをしたこともある)。
拓己という男はまたたいそう整った顔立ちに恵まれており、女に不足することがないのも有稀からすれば羨ましい話だ。有稀は拓己の女性遍歴を完全に把握しているが(彼女と別れると拓己は必ず有稀を飲みに呼び出して愚痴をぶちまけて来た)、無意識に母親の代わりを求めるゆえか、彼が選ぶのはことごとく家庭的で尽くすタイプの年上の女性だった。そしてことごとく『自分より家事が下手』という理由で拓己の方からフっている。恐らくその女性達の家事レベルは水準には達しているのではないかと思うが、完璧主義が仇となっている訳だ。女性に対して夢を見すぎている部分もあるのだろう。

「お前きっと結婚できないタイプだな」

例によって呼び出された居酒屋で酒を飲み交わしながら有稀が半笑いで言うと、拓己は恨めしそうな上目遣いを寄越し、それからぽつりと「自分でもそう思う」と呟いた。
線の細い彼には憂いのある表情がよく似合う。何をとっても世の中の男性の平均値を上回るであろう拓己は、きっと凡人では到達しえないような次元の悩みを抱えているのだろうとたまに有稀は想像する。全速力で突っ走って突っ走って、いつかその勢いのままに崖っぷちから踏み切って奈落へ飛び降りていってしまいそうな男だと思う。

「あ、有はどうなの、そんなこと言って」

若干しんみりした空気を振り払うように拓己は悪戯っぽく目を見開いて、からかい口調で聞いてきた。有稀はその問いを鼻で笑い飛ばす。

「俺はお前と違って立候補者すらいねーわ」
「はは。こんなダラダラ男二人で飲んでる間に、俺らあっという間にオッサンになってそうだよね」
「うん、まあそれでもいいんじゃねーの」
「いいのかよ」

拓己が喋りながら綺麗に骨を取り除いた焼き魚を有稀がつつく。酒に弱いので食べる専門である。一方の拓己は強くはないものの酒好きで、いつもハイペースでジョッキを空ける。
アルコールが回ってほんのりと赤くなった目の前の首筋を眺めつつ、疑問を投げ掛けてみた。

「拓己はやろうと思えば家のことは一人でこなせる訳じゃん。結婚願望なんてあんの」
「うーん、まぁ、ずっと一人暮らしっていうのはやだなぁって程度」

拓己は軽い調子で答えて、有稀が箸を引き上げた魚に入れ替わりで箸を伸ばした。

「親父さんとこ戻る気は?」
「無い無い、父さん一人暮らし満喫してるみたいだし彼女いるらしいし」
「ああそう。懲りねーなお前んとこの親父は」

拓己の父親は仕事のできる男で、拓己より無骨ではあるが容姿も良い。真面目な人間なのだが女運が無く、金と肩書きに釣られて言い寄って来る女性達にすぐたらしこまれる悪癖がある。できちゃった婚だった拓己の母親も当時まだ遊びたい盛りの若い女性で、ろくに子供を構いもせず遊び歩いていたのだと、有稀は成人してから自分の母親から聞いた。
拓己も同居していた頃は口を酸っぱくして父親の女を見る目について注意していたものだが、もう諦めたのか有稀の言葉に苦笑するだけで苦言を連ねようとはしなかった。大人になったんだな、と思う。
互いに一人暮らしを始めて8年、社会でそれなりの苦労を重ねてきた。冷静に自分の過去を振り返ってみれば、良くも悪くも落ち着いてきたなと感じる。世界の成り立ちが少しずつ見え始めて、自分の生き方がなんとなく掴めてきたところだ。もっと若かった頃に戻りたいと思うことはままあるが、なんだかんだで今が一番楽しい。

「お前彼女ともあんまり頻繁に会わないタイプじゃなかった?」
「それと一人暮らしやだってのは別問題でしょ」
「ふーん。寂しいの?」
「寂しいの」

拓己は笑って肯定する。軽く会話をしているようでいて、きっと今脳裏で色んな事を考えている。伏せた目線の先の箸先は魚をつつき回すばかりで口元に行こうとはしていない。有稀は鶏の唐揚げの皿を自分の手元に引き寄せた。

「寂しいっていうか疲れたの。俺がよっかかっても倒れないようなでっかい存在に甘えてぇの。大人になったらこういう気持ち、なくなると思ってガキん頃から生きてきたけど、まあ増すばかりだよね」

お前が寄り掛かったところで幾許の重みもないだろうに、と心の中で呟く。
拓己は生い立ちから推測できるように甘え下手だ。自分が弱音を吐いたり頼りない姿を晒すことは許されないと(意識的にか潜在的にかは解らないが)思っている。包容力のありそうな女性ばかり選ぶ割に、彼が愚痴を零す相手は昔から有稀だけだった。それは有稀が頼り甲斐のある存在だったからではなく、その場がどんな暗い空気になろうが拓己が取り乱そうが意に介さないマイペースさを持っているというだけの話だったが。
有稀は拓己のペースに合わせない。拓己も有稀のペースに合わせない。それでも成り立つということはそういう風に育ってきたのだろう。
有稀は相手の話に特に相槌も打たずに、口に運んだ料理を噛み締めた。べっとりした揚げ衣が口の中で崩れる。この唐揚げはまずいな、と思った。恐らくこの安い居酒屋のどの料理よりも拓己は上手く作ることができる。
美味い料理は間違いなく人を幸せにする。拓己はその腕を持っている。その腕を持っているゆえに、幸せにする相手を見つけられずにいる。世の中もっと上手く事が運んでも良さそうなものなのに。
そういえば、性別という壁など微塵も意識せず求婚した小学生の頃の自分に、拓己は何と答えたのだったか。今となってはその時の自分の感情すら思い出せない。鼻水を垂らしながら外を駆けずり回っている絵に描いたようなやんちゃ坊主だったから、気の利いた言い方などしなかったことは確かだ。

「拓己さ」

名前を呼んだタイミングで、隣の卓でどっと笑い声が起きた。その喧騒に負けないように少し声を大きくした。

「一緒に住もうか」

酒を追加しようと俯いてメニューを開いていた拓己の視線がこちらに向かって跳ね上げられた。何かを言いかけて唇が小刻みな開閉を何回か繰り返し、やがて途方に暮れたような笑みを浮かべて首を傾げた。

「有ちゃん酔ってんの」
「まーな」
「乾杯のビール1杯で?」
「コーラと烏龍茶も飲んだぞ」
「安く酔えて羨ましい限りだわ」
「お前は良妻賢母になりそうな女の子がタイプみたいだけど、ほんとは他人の世話焼く生活の方が性に合ってんじゃねーかってずっと思ってた」

強引に話題を戻して目で返答を促すと、相変わらず中途半端な笑顔のまま、拓己はメニューに視線を戻して「別に住むのはいいけど、」と呟いた。

「この歳で男二人で住んだらますます結婚遠ざかるんじゃない?一人暮らしでペット飼うと結婚できなくなるとか言うのと一緒で」
「は?」
「は?って。俺はそれでいいけどさ。あ、でもそれで有だけ結婚したら俺結局一人じゃん。それ辛いな」
「あー伝わんなかった?さっきのプロポーズなんだけど」

隣の卓ではどぎつい下ネタが飛び交う。またどっと笑いが起きる。有稀は唐揚げをぱさぱさのレタスと一緒に口に入れて咀嚼する。やっぱりまずかった。まずいものを拓己の口に入れるのは悪いので黙って食べきってしまおうと思う。
拓己は目を丸くしてぽかんとしていた。

「は?」
「は?って」
「…お前のプロポーズ、小学生の頃からわっかりにくいよ」

ああ、そこは成長できてなかったか。「わりーな」と不貞腐れると「ばーか、ありがと」と拓己は笑う。拓己の答え方も大概わかりにくかったが、それはOKということだと有稀は知っていた。

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