ラストネーム

 今年は桜が咲くのが早い気がする。
 昼食のサンドイッチをかじりながら、会社の中庭に植わった桜を眺める。南の座る席は二階の窓に向かって座る向きなので、わさわさと花を揺らす桜の樹を上から眺め下ろすことができた。
 三月最後の金曜日。平常ならこの日の夜は会社全体で『今年度もお疲れ様でした会』が開かれる。従業員30人程度の小さなイベント企画会社に人事異動はないし、新入社員も全く入らないか入っても1、2人なので、年度が変わるといっても変化はほぼないと言っていい。同僚との交流がてら酒を飲み交わす会が唯一の節目らしいイベントだ。
 そのお疲れ様でした会が今年はない。今年は暖かいから夜桜で花見酒にしても盛り上がっただろうに。社長が社員との垣根を感じさせない庶民的な人なので、気取った店を選ばずともいいのが良いところだ。
「あ、南ー、今日店どこ?」
 外で昼食を済ませて帰ってきた先輩が声をかけてきた。首だけで振り向いて答える。
「メール送ったじゃないですか。東口の藤ノ家」
「会社で行ったことない店じゃね? お姉ちゃんいんの?」
「普通の居酒屋っすよ」
「田家はそっちの方が喜びそうだけどなー」
 笑い含みの声が通り過ぎて行く。まあな、確かにそういうの好きな人だよ、と内心で呟く。
 会社全体で飲む、というイベントに変わりはないが、今日は名目が違うのだ。
 眼下では白っぽい花びらがはらはらと舞い落ち、黒い土とのコントラストを作っている。「桜は綺麗すぎて見てらんない」と言った人の声を思い出した。今日の送別会の主役、総務部・田家和足。

 名目が慰労会だろうが送別会だろうが歓迎会だろうが、社員はお構いなしに日頃の鬱憤を晴らそうと飲みまくる。
 開始一時間で社長が退席すると、宴はいっそう賑やかになった。
「それじゃそろそろ主役の挨拶ー」
 営業の先輩が声を張り上げて、めいめいの話題で盛り上がっていた卓でぱらぱらと拍手が起きた。二箇所の半個室の境にある襖を開け放って一つの空間として使っており、四つある卓をビール瓶を携え酌をして回っていた田家は、それらの中心に立ってぐるりと周りを見回した。
 今日まで有休を取っている田家はいつものスーツ姿ではなく、私服で直接居酒屋に来ていた。シンプルなチャコールグレーのシャツと黒のパンツがぴたりとハマっていて悔しいくらいにかっこいい。南は目の前のグラスを引っ掴んで中身を空けた。何杯目だかはもう覚えていない。
「えーと」
 爽やかな笑顔を湛えながら田家は口を開いた。
「本日はお忙しい中このような会を開いて頂いてありがとうございます。皆さんから田家田家と声をかけて頂きましたが、僕、もう苗字が変わってまして」
 旅館の一人娘と結婚して婿養子に入るのだと、退職の報告を受けた時に聞いた。ゆくゆくは旅館を継ぐことになるという。
 南の入社当時から五年間、世話になった直属の上司だった。小さな会社ゆえ32歳という若さで総務部の部長を務めており、女好きキャラで通しているが実害はないし顔が良いので女性社員の顰蹙を買う事もなく多くの社員から好かれている。
 つつがない別れの挨拶。拍手。みんな寂しがってはいるが、泣く程感傷的になるような人間は一人もいない。去っていく仲間がいることには慣れている。大人だから。
「今日はありがとな幹事さん」
 挨拶を終えた田家が席に戻り際肩を叩いて来た。無表情に振り仰ぐ。
「合格ですか、この店は」
「うん。美味かったよ、串焼き」
 破顔した田家の言葉に複雑な気持ちになり、黙って目を逸らした。
 自分には和やかに送ることはできない。子供なのだと自覚はしている。

 田家にはよく夕食に連れて行ってもらった。
 旨い店を開拓するのが趣味だそうで、南が無趣味で家に帰ってもゴロゴロするばかりだと聞くと月に数回のペースで誘ってくれるようになった。付き合ってもらってるから、と言って南には財布を出させようとせず、下戸な自分は一滴も飲まないくせに南にはしきりに酒を勧め、「美味そうに酒を飲んでるやつ見るの好きなんだよ」と目を細めていた。正直それまで酒は特に好きではなかったが、美味しいアテがあるのでどんどん飲むようになり、確実に当初より強くなった。都内のいくつの店を一緒に回っただろう。
 田家の綺麗な箸遣いを見るのが好きだ。目の前の料理に対して礼儀正しいその仕種が。性格は男臭いのにそういうところは丁寧で、そのギャップがかっこいいなと思っていた。
 上司と部下という関係を逸脱したいと、いつの間にか願うようになって、けれどちょうどそう思い始めた頃から誘われなくなった。
 それが一年前のことで、結婚と退職の話を聞いたのは三ヶ月前だった。

 居酒屋をどやどやと出ると当然二次会に行こうという空気になったが、主役が先手を打って「それじゃあみなさん、今日は本当にありがとうございました」と解散宣言をしたため、「次行かないのー?」という声はちらほら上がりつつも帰ることになった。
 地下鉄派、私鉄派、車派に別れてぞろぞろと散って行く。南は群れの中からそれとなく離れて、居酒屋の正面の植え込みの中に頭を突っ込んで蹲った。飲み過ぎた。普段なら許容範囲内のアルコール摂取量だが寝不足と気分の重さが災いして悪酔いしている自覚がある。
 視界が暗くなると車の走行音や客引きの声が耳につく。一人になりたい。誰もいない場所で大声で叫びたい。
「おいおい、そんなに長く吐いてるの?」
 同僚たちの足音と話し声がすっかり遠ざかった頃、背中に声がかかった。首を振る。喉がぐっと鳴る。込み上げてくるのは吐き気ではなくて嗚咽だ。
 こっそり離れたつもりだった南をいつの間に目に留めていたのか、あるいは南の不在に気付いて引き返し来たのか、田家は笑いを含んだ声で言いながらしゃがみこんで背中を撫でた。
「あーあー飲みすぎちゃって…そんなに俺いなくなるの寂しい? 俺の事大好きだな南くんは」
「好きだよ」
 流したくなかったから、涙に濡れた顔を上げて間髪入れずに答えた。
「俺、あんたの事が好きだよ」
 からかいをたたえていた田家の表情が一瞬失せた。そしてすぐに、困ったように笑った。
「…知ってた」
 その言葉を聞いた瞬間、何も考えずに首に手を回して引き寄せていた。箸がフォークがスプーンが運ばれる様を何度も見てきた、その唇を塞ぐ。自分がアルコールで体温が上がっているからか、舌を差し入れた口中は生ぬるく感じた。
 田家は抵抗しなかった。だから泣きたくなった。素面のこの人は明日になっても忘れてはくれないだろうが、完璧に忘れたふりをしてくれるだろう。
 おそるおそる顔を離すと、田家は唇を拭うでもなく、嘔吐した酔っ払いを介抱するような調子で「二日酔い決定だね」と言って肩を抱いた。この人は冷たい。そしてモラリストだ。最後まで責任を持って良い上司でいてくれようとしている。
 ちゃんとフラれる勇気も、黙って送り出す強さもなかった自分を、この人は忘れたふりをしてくれるだろう。
「奥さんは、酒、好きですか」
 田家に対する最後の質問にしようと思って、目を見ながら聞いてみた。
「飲めないんだ」
「田家さんと一緒で?」
「もう田家さんではないけどね」
 そうですか、と呻くように呟く。視線を落とした膝の間に、踏み汚された桜の花弁が何枚も、汚らしく地面にへばりついていた。汚れた桜なら好きですかと尋ねそうになったが、さっき最後の質問をしたことを思い出してやめた。
 この人の新しい苗字を呼ぶことはないだろう。

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