隣の隣の隣の人の

 近所の小さなスーパーに閉店ギリギリで滑り込んで買い物を済ませ、外に出たら雨が降り出していた。そういえば朝の天気予報で夜は天気が崩れるって言ってたな。
 天気予報に関係なく折り畳み傘は常に持ち歩いているが、自宅のアパートまでは徒歩5分なので傘を差すより走った方がいいと判断して、店の軒先を走り出た。手元でビニール袋ががさがさと音を立てる。今日の夕飯は白菜と豚肉の鍋にしようと会社を出る前から決めていた。走っている間にも雨脚は徐々に強くなっていく。駐輪場の前を過ぎ、そのままの勢いでアパートの外階段を駆け上がろうとした瞬間、
「あ」
 階段の五段目くらいに蹲る、白と黒のかたまりと目が合った。
「猫…」
 外階段にはトタンの屋根がついているので、野良猫が雨宿りに逃げ込んだものらしい。たまに近所をうろついているのを見掛ける小柄なブチ猫が座り込んで、やや離れたところで立ち止まった俺の出方を窺うようにこちらを凝視している。
 さて、どうしたものか。
 二階建てアパートの二階に位置する自分の部屋へ帰るには外階段を上がらなければいけない訳だが、猫に「ちょっとすいません」と声を掛けて通して貰う訳にもいかない。猫と人がすれ違えるくらいの横幅はあるのだが、たぶんこれ以上近づいたらまっしぐらに逃げて行ってしまう。といって、強まりつつある雨の中に追い出すような真似をするのは忍びない。自分は濡れたところで家に帰って着替えてシャワーを浴びればすっきりするが野良猫はそうもいくまい。
 とりあえず突っ立っていると濡れるのでショルダーバッグがら折り畳み傘を取り出そうとした時、ビニール傘を差した男性が隣をすっと通り過ぎた。そのままアパートの階段に向かって行く。あ。猫がいるので、なんて呼び止める訳にもいかず背中を見送っていると、傘を閉じて階段に足を掛けた男性を見上げて、猫はなあんと甘えた声を上げた。
「あ、あなたの猫ですか?」
 ほっとして声を掛けると、段を上がって猫に近づこうとしていたアパートの住人らしき男性はゆっくりと振り向いた。同じ建物内に住んでいても生活リズムが違えば全然顔を合わせない人もいる(顔を合わせたところで会釈程度のやりとりしかしないが)。見覚えのあるような無いようなこざっぱりとして特徴のない顔をした男性は、「ああ、いや、野良猫なんだけど」ともごもごと答え、それから「ごめんなさい、階段を塞いでしまって」と頭を下げた。白髪交じりの頭頂部を見せられて俺はなんだか慌ててしまい(顔立ちは若く見えるのだがもしかしたらだいぶ年上なのかもしれない)、「あ、いえ、それは全然」と答えながら階段の屋根の下に入った。猫は目を丸く見開いてこちらを見たが、男性の脚に身をすり寄せるだけで逃げようとはしなかった。
「野良猫なんですか? でもすげー懐いてますね」
「どうやら親猫がいなくなっちゃったらしくて、近所で弱ってるのを見掛けてから餌をやってる」
「へえ」
「ペット禁止だから部屋には入れないようにしてるんだけどね、雨の日とか寒い日はメーターボックスに避難させてやるんだ」
 片手を伸べてひょいと猫を抱き上げ腕の中に収める仕種は、慣れていて愛情深さが感じられた。特別猫好きではないが可愛いなーと素直に思う。
「名前はなんていうんですか?」
「名前? …考えた事なかったな」
「えー? 考えましょうよ」
「そういうセンスないから…」
 ぼうっとした視線を猫に向ける。折角のご近所さんと話せる機会なのだしここで会話を切り上げるのも素っ気ないなと思い、「じゃあ俺考えていいですか?」と名乗り出ると、男性は面白がるように瞬きをして頷いた。俺は顎に手を当てて猫を眺めまわす。
「えー…白黒ブチだから、オセロ。か、囲碁」
「……直截的だなぁ」
「あとモノクロとか。あーでも可愛くないか。じゃ、後半とってクロ」
「白黒なのに黒って」
 ふっと笑って、
「でもそれ、いいな」
 と男性は何回も頷いた。邪気の無い…というより徹底的に毒気の無いその笑顔は妙にあどけなくて、やっぱり年齢が推測できない。思いつきで言った名前を思いのほか気に入って貰えたのが嬉しかったので、俺は調子に乗って言葉を続けた。
「俺も今度餌あげさせてください」
「いいよ。って言っても缶詰開けて置いてやるだけだけど。駐輪場の裏の植え込みのところでこっそりあげてるから覗いてみて」
「はい」
 こっそりっていう言葉、子供みたいだ。
 男性は階段を上がると、メーターボックスにクロを収めて俺の3つ隣の部屋に帰って行った。スーツがすっかり濡れちゃったなと思いながら俺も鍵を開けて家に入る。そういえば、実家はご近所付き合いが盛んな田舎だったから都会に出て来てしばらくは他人に対する関心の薄さに戸惑ったものだ。そんな希薄な人間関係の築き方に随分染まったつもりでいたけど、初めてのご近所さんとの接触に気持ちは高揚している。
 さっきまで人と話していた余韻が残っていて、いつものような真っ暗な部屋に帰る寂しさは感じなかった。

 後に直接聞いたところによると、その人は俺のちょうど一回り上の38歳で、名前を斎木さんといった。
 あの雨の日以来、俺は会社から帰ってくると駐輪場の裏の植え込みを覗くのが日課になった。人目につかない場所なので今まで気付かなかったが、今までずっとここでクロに餌をやっていたらしい。
 斉木さんは在宅でWebデザイナーの仕事をしているそうだ。一日二回クロに餌をやるのとたまに食料や日用品を買いに出る以外では外に出ないらしい。そのせいなのかわからないが、斉木さんは実際話してみても世間ずれした感じの一切しない人だった。服装もいつもコットンのTシャツにジーンズといったラフな装いで、飾り気はないが素朴で清潔感があった。
 俺が「坂松一志です」と名乗ると、斉木さんはカズシの『ズシ』の部分で少し舌をもつれさせながら「一志くん」と呼んだ。
「クロって兄弟はいないんですか?」
「生まれた時はいた筈だけど…。以前たまに猫の親子数匹づれを見かけてて、気付いたらこいつだけになってたんだよ。あの頃はガリガリで痛々しかったけどすっかり元気になったなぁ」
 斉木さんのほっそりとした掌に頭を撫でられて、猫缶にがっついていたクロは少し鬱陶しそうな顔をした。そんな一人と一匹のやりとりがいちいちほほえましい。こんな安アパートに住んでいるくらいだから決して裕福な暮らしをしている訳ではないのだろうが、クロは毎日いいキャットフードを与えて貰っている。
「斉木さんって元々猫好きなんですか」
「…こんなこと言ったら薄情に聞こえるかも知れないけど、特別好きではないよ。今も前も。ただ、俺が放っといたらこいつは飢え死にしちゃうんじゃないかと思って」
 餌を食むクロにじっと視線を注ぐ横顔を、俺はじっと見ていた。
「俺の手助けで生かせるだけは生かしてやりたいんだよ」
 俺は黙ってクロの背中を撫でた。よーく見たら何かの形になっていそうな、味のある白黒模様の背中。斉木さんと一緒にご飯タイムに立ち会う内にクロは俺から逃げなくなった。
「俺、田舎の出身なんですけどね、昔近所に猫屋敷って呼ばれてる家があって」
 俺はぽつりぽつりと思い出話をした。
「結構なお年のおばあちゃんの一人暮らしだったんですけど、すげー大量の猫飼ってたんですよ。下手したら百匹くらい? 動物好きの人で、元は野良猫を拾って来てたんですけど、その猫同士が子供産んでどんどん増えたみたいで。で、ある日そのおばあちゃんが亡くなって」
 よそに住んでいた一人息子はアレルギー持ちで猫が嫌いだった。当然引き取るという選択肢はなく、全ての猫が保健所行きになった。
「その時は、その息子酷いことするなって子供ながらに思ったんですけど、今思うとおばあちゃんの飼い方に問題があったんですよね。好きだから集めてた、ってだけで、猫たちのこと真剣に考えてやってなかったんだと思う」
 だから斉木さんの考え方、俺はいいと思います。そう伝えると、斉木さんは少し間を置いてふっと笑った。嬉しいとか楽しいという感情を口には出さないのに表情の変化でダイレクトに伝えることのできるこの人を、おしゃべりな俺は羨ましいと思った。
 会社と家を往復するだけだった日常に、習慣がひとつ加わった。駐輪場の裏、植え込みの陰。ひっそりとした居場所は幼い頃に作った秘密基地を思わせる。子供の頃、子供として可愛がって物を買ってくれるような大人より、一緒になっていたずらして一緒になって叱られてくれるような大人気ない大人が好きだったことをふと思い出した。斉木さんはそういう大人なんじゃないかと思う。子供に合わせる器用さを持っているのではなく、幼くてやわらかい新芽のような心を成長させないまま大きくなった大人。

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