マインマインド

ズ、グズ、と耳障りな音がうるさい。
ホテル街を歩く間、斜め後ろをずっと、鼻水をすすり上げる音がついて来ていた。
それはまあいい。すれ違う人間の何事かという視線が痛かったが、それはまだ我慢のできる範囲内だった。
しかし、ホテル街を抜け、飲み屋街を過ぎて、遊び倒した酔客や夜の仕事明けのお兄さんお姉さんだけではなく、これから勤めに行くのであろう通行人と擦れ違うようになっても、その音はついて来続けた。
ついには駅に辿り着こうという頃になってもまだ泣きやむ気配の無い様子に、とうとう呉島直樹はブチギレた。
「女子かお前は」
振り向きざま低い声で唸ると、鼻の頭を真っ赤にしてグズグズいっていた野木大地はびくっと肩を竦めた。普通にしていれば素朴な好青年然とした大地の顔立ちは、泣くと一気に幼くなる。これじゃ本当に自分がイジめているみたいだ。イライラと頬にかかった茶髪を耳の後ろにかけ直しながら呉島は続けた。
「よくもまあそこまで感傷に浸れんな? あのさあ、ノンケが無理矢理掘られたってんなら解るけど、俺とお前は合意の上だし、お前突っ込んだ側だよな。違う?」
「つ、突っ込んだとか大きな声で言わないでください」
周囲の目を気にしてあたふたと視線を彷徨わせる大地に向かって溜め息を落とし、呉島は踵を返して歩き出した。

事の発端は一週間前に溯る。
その日は職場の飲み会だった。呉島は携帯ショップに勤めており、飲み会は基本的に近隣の店舗2つと合同で開催される。互いに人が足りない時には応援に行ったり差し入れを行き来させているので日常的に関わりがあるのだ。
酒好きだが多人数の集まりが嫌いな呉島はなんだかんだと理由をつけて断る事が多かったが、たまには顔を出せと先輩にしつこく誘われて、仕方なく参加した。
大地は隣駅の店舗の店員だった。たまたま席順で隣になった呉島は、盛り上がる輪をよそに、大地と他愛ない会話をダラダラと交わしていた。それまで大地とは、呉島が隣駅の店舗に応援に行った際挨拶程度の会話をしたくらいで、人となりを知れるほど話したことがなかったのだが(そもそも職場の人間と親しくしようと思わないからみんなそんなものだ)、短く切り揃えた黒髪と素朴な顔立ちが与える真面目そうな印象を裏切らない、大人しくて堅いところのある青年らしかった。二十六だというから呉島より二つ下か。
存在感の薄いタイプだが、呉島はこういう男に興味を惹かれるタチだ。かわいいな、と思ってしまう。
「野木くんは彼女いるの?」
恋バナで盛り上がる正面の輪に視線を投げつつ聞いてみたが、返事が無い。顔を向けると、目が合った大地はハッと驚いたような顔をし、一拍置いてぱっと目を逸らした。
「なに?」
「あ、いや」
手を目の前のグラスに伸ばしてストローでカクテルをかき混ぜながら、大地はちらちらと横目に呉島を見た。
「前から思ってましたけど、呉島さんて美人だなぁと思って」
ふうん、と思った。表には出さずに、「なにそれ」と笑ってグラスに口をつける。大地も合わせるようにあははと笑った。
「俺は彼女いないですね。呉島さんは?」
「俺も。お互い寂しい限りだねぇ」
「うーん、まあ…あんまり欲しいとも思わないですけどね。女の子ってよくわかんないし」
「まあな。男が楽でいいよな」
しれっと同意する。
女は要らないと感じているのは本当だった。呉島は目鼻立ちのくっきりした華やかな顔立ちをしているため、接客業をしていると女性客から食事に誘われたりアドレスを渡されたりすることもままあるが、すべてきっぱり断っている。
化粧や服で自分を美しく見せ、愛想を振り撒いて自ら男に釣られに来る人種に興味は持てない。誘われるのをじっと待つ女も論外だ。
「つか野木くん何飲んでんの? 甘いやつ?」
「甘くはないです。ジントニックです」
「ひとくち」
手を差し出すとためらいなくグラスを渡された。差さっていたストローでひとくち飲み、「薄いねここの店」とつぶやいて返す。
「こんなんじゃ酔えなくねえ? それとも野木くん酒弱い?」
「んー。強くはないです」
「ああ、そうか。なんか顔赤いもんね」
ストローをつまんでゆるゆるとグラスの中身をかきまぜる大地の頬を、人差し指で軽くつついてみた。大地ははっと固まった。頬がいっそう赤くなる。
いける、と確信した。
呉島を美人と形容した人間で、喰えなかった相手はいない。思わず笑みを漏らしつつ手を引っ込め、グラスの中身を一気に空けた。
呉島にとって恋愛はささやかなゲームだ。
男に靡くはずのない男が、自分に思わず手を伸ばす。その様を見るのが好きなのだ。

やがて二時間の飲み放題コースは終了し、翌日もシフトの入っている人間が多いので二次会には続かずに解散になった。地下鉄の駅へ足を向ける大地のスーツの裾を呉島はそっと引いた。
「野木くん」
並んで立つと大地の方がわずかに背が高い。上体を傾けて胸元に顔を寄せ、上目遣いに笑いながら誘った。
「1時間だけふたりで飲まねえ?」
呉島の目をまともに見下ろした大地の視線が、直後にあからさまに泳ぐ。
「飲み足りねえからさ。明日オフなんでしょ?」
「あ…はい。でも、呉島さん明日仕事なんじゃ」
「家近いから平気。終電なくしても歩いて帰れる距離だもん」
「じゃあ…、行きましょうか」
心臓の鼓動が聞こえてきそうな緊張した表情で、大地は頷いた。
そこからしれっと同僚の群れを抜け出し、静かな個室の居酒屋に移動して飲んだ。焼酎の種類が豊富でたまに飲みに来る店だ。大地が酒に弱いのは本当だったようで、水割りを一杯飲ませただけで目がとろんとし出した。
当たり障りのない仕事の話をしていたのが、次第に酔いが手伝って愚痴にシフトした。勤務三年目、ちょうど悩みや不満が出てくる時期だろう。
店長に対するもの。横暴な客についてのもの。端末を作る会社に対してのもの。ぽつぽつと大地の口をつく愚痴に、呉島は丁寧に相槌を打った。どれもこれも似たような経験があるので理解できる。会社の後輩と飲むのはそういえば初めてだ。
こういうのいいな、と思った。自分と同じような成長の過程を辿る後輩に母性に似たものを感じる。
目の前で俯く大地の短く切られて清潔感のある髪の毛を、手を出して撫でたのは無意識だった。言葉を切った大地はふわ、と視線を寄越して、すぐにまた俯いて喋り続けた。嫌そうな仕種をされるでもなかったので、なんとなく頭を撫で続ける。つむじのあたりの髪の毛がうねっているから、伸ばしたらくるくるした天然パーマなのかもしれない。
「俺、ほんとトロいので、職場の先輩とか見てると、将来俺もあんな風になれるのか? って不安で…」
「みんなそんなもんだよ。俺だって未だに不安だし」
「本当ですか? 俺から見たら呉島さんすごくできる人なのに」
「年数重ねれば多少はね」
「そうなんですか…あ、すみませんなんか、俺の愚痴ばっかりで」
「いや。俺も初心思い出せて嬉しいよ。飲みに誘って良かった」
本音だった。まっすぐさも不器用さも、かわいいなと思うと同時にまぶしい。今の自分と同じだけの年数を経て経験と歳を重ねた時、こいつはどんな人間になってるんだろう。
「…呉島さん、」
もう一度大地が視線を上げたので、呉島は手を引っ込めた。テーブルの上に前のめりになった大地を斜め上から見るかたちになり、睫毛がくるんと上を向いているのに気付いた。やっぱり天然なんだな、自然に睫毛がカールしてるのいいよな。前髪だけを長めに伸ばした自分のストレートの茶髪に思わず手をやる。睫毛長いね、とか、髪の毛綺麗だね、と自身が言われると「ちまちまちしたとこ見てんな」と割と鬱陶しく思うのに、他人のそれには目を引かれるとは。
「どうして今日俺を誘ってくれたんですか?」
緊張を孕んだ大地の問い。ある種の答えを期待されているのは解った。呉島はふと笑みを漏らし、大地の目を覗き込むようにして顔を近づけた。
「なんでだろ。野木くんのこともっと知りたかったからかな」
吐息が鼻先にかかる距離。アルコールにとろんと蕩けた大地の目の奥にちらりと炎が燃え上がるのが見えた気がした。
噛みつくような勢いで口づけられ、痛いくらいの力で腕を掴まれながら、呉島はずっと内心で笑っていた。さあ、久しぶりに遊べるぞ。

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