ジャックポット・シネマ

 映画鑑賞とは一種のギャンブルである。
 少なくとも菅谷にとってはそうだ。しかも競馬のように分析や戦略がきく訳でもスロットのように経験と技術が物を言う訳でもなく完全に運任せの賭けである。
 1800円を支払うことにより大画面と素晴らしい音響で映画を堪能できる環境は、しかしその時の周囲の観客によって明暗が分かれる。最低週に二度は仕事帰りに映画館に立ち寄るが、そのうち十回に一回ははずれを引いてるのが現況である。俳優の立てる微かな衣摺れや呼吸の音にさえ耳を澄ましたい静かなタイミングで音を立ててポップコーンを頬張る観客。ビニール袋をがさごそやり始める観客。コンビニで買った強烈なにおいのスナックを座席まで持ち込んで食べ続ける観客。シークエンスが終わるたびに感想を述べたり隣席の連れに質問を始める観客。スマホを取り出して時間を確認したりあるいはメールの返信を始めて目に突き刺さる眩しい光を撒き散らす観客。なぜか前の席の背もたれを蹴らずにはいられない観客。いびきをかいて寝始める観客。総じて邪魔だ。すべての感覚をスクリーンに集中させたいのに、そして毎回同じチケット代を払っているのに、日によって他人の些細な言動に貴重な映画体験を阻害される。いちいち注意してもいられないので賭けに負けた日は諦める外ない。
 4月6日水曜日、19時10分開演のその回は嫌な予感から始まった。開演時間を回り劇場内が暗くなって予告編が始まった頃に隣の席に若い男が滑り込んできたのだ。
 各種割引デーは映画館が混む分はずれを引く可能性が高くなるため、水曜日に映画を観る時はレディースデーを実施していない館で観ると決めている。会社が池袋にあるので渋谷新宿日比谷など映画館の多い駅へのアクセスは楽だ。その日は有楽町にある大きな館で(ここは水曜に割引がない代わりに月曜がサービスデーだ)縦から見ても横から見ても中央の席をとっていた。当然観やすい中央付近からチケットは売れて行くものだから、公開日から少し日が経つ平日夜上映とはいえ話題作のことなので隣の席は売れているだろうと思っていた。ただチケットを買っておいて姿を見せない客というのは一定数いる。無論来ないでいてくれたら菅谷としては有り難い。地雷を踏む可能性がひとつ減るのだから。なので時間を過ぎてから隣に客が来た時点で少しがっかりしたのだが、その腰の下ろし方が『ドカッ』としか形容のしようのない乱暴なもので、菅谷は素早く横目で相手を盗み見た。明るい茶髪。合皮のジャケット。見たところ大学生だ。走って来たのか息を切らしていた。
 四十を過ぎて若者と老人の狭間にいる菅谷は今の若者はマナーがなっとらんなどという不特定多数を一括りにした説が幻想なのはわかっているが(傍若無人な人間は年齢など関係なく若い頃から棺桶までずっと傍若無人だ)、軽そうな男子大学生というのは映画館において警戒の対象である。こういった手合いがよく上映真っ最中にスマホをチェックするのだ。どうか嫌な予感が当たりませんようにと祈りながら、菅谷はやがて始まった映画に観入り始めた。



 結論から言うと、非常に快適な鑑賞だった。
 周囲の観客は誰一人気を散らすような言動はせず、エンドロールが流れ切って席が明るくなるとおのおの感想を述べたり上着を身につけたりしながら立ち上がった。
 菅谷は映画が終わった後できるだけ速やかに劇場の外へ出たい。そしてカフェにでも入ってひとりのんびりと作品を反芻し、レビューサイトに感想をしたため、次に観る作品のことを考えたい。しかし中央の席に座ると通路まで抜けるのが大変だ。右側に座る老夫婦のうち男性は杖をついており、おそらく観客があらかた捌けるまで席を立たないつもりだ。杖が嵩張るので前を通るのも通りづらい。なので左側から抜けたいところなのだが、あろうことか、左側の男性客は顔を両手で覆って泣いていた。会場は既に明るくなっているというのに洟を啜りあげながら泣いていた。涙腺に直撃するようなストーリーではなかったはずだ。周りを見渡したところで涙を拭っている観客さえいない。
 とりあえず立ち上がって無言で通りたいアピールをしてはみたものの若い男は気付く気配もない。かといって泣いている相手にすみません通してくださいと愛想のない声を掛けるのは無粋な気がして、苦肉の策として菅谷はジャケットの内ポケットからハンカチを取り出した。
「よかったら」
 差し出しながら声をかけると、若い男はぱっと弾かれたように顔を上げた。色が白いので鼻が真っ赤になっている。「ありがとうございます」と素直に受け取ったので会釈して前を通り抜けようと試みたが、若い男はハンカチで目元を拭いながら言葉を続けた。
「俺この作品大好きで。観るの6回目なんですよ。いいですよね」
「……どうかな」
 正直取り立てて良いと思わなかった。気に食わない類の映画だ。アメリカーでメジャーな映画賞をいくつかかっさらっており、アカデミー賞にもノミネートされた作品で、作品賞は逃したものの助演男優賞と音楽賞と監督賞は獲ったと記憶しているが、ベタなストーリーに山場も何もないあっさりしたラストで、何が評価されたのかいまいちわからない。音楽だけはよかったから星をつけるなら5点満点で2つ。まあ恋愛ものだし大衆受けするんだろうなという感想だ。いわゆるデートムービーというやつだろう。
 しかし公開から一週間の時点で6回目ということは彼は毎日のように観ていることになるのか。若者の好みはよくわからない。しかも男ひとりで観にくるとは。
「面白くなかったですか?」
「好みではなかったな」
「なんでー?」
 なぜか相手は落胆したように眉尻を下げる。なんでと言われても好みは好みだ。菅谷が何か返す前に若い男は続けた。
「最初のシーンのカメラワークとかすごくないですか? 俺どうやって撮ってるんだろうって、すげーなって思ってそれ観ただけで泣けてきて」
「別に……手持ちのカメラで撮りながら人波を縫って移動してるだけだろ、こう」
「だってあのぐいーんって上にあがるのは? 空飛んでるみたいな」
「途中でクレーンに乗り込んでるんだよ。カメラマンが撮りながら後ろ向きにカゴに乗って、そのまま機械で上に」
「そうなんですか!? なんで知ってるんですか!? すげー」
 まずい、食いつかれた。「失礼」と断って前を通ろうとしたが、男は前の座席の背もたれに腕をついてそれを阻止してきた。
「あの、もっと話聞かせてくださいお願いします、コーヒー奢るんで。ビールがいいですか?」
「いや、俺は監督でもなんでもないから」
「お願いお願い」
 顔の前で両手を合わせて懇願される。若い男にしか許されない仕種だなとぼんやり思いながら、眼鏡のブリッジを押し上げて吐息した。



「だってあの世界を人が作ってるってことですよ」
 青井、と名乗った男は言った。映画館に併設したカフェで菅谷はコーヒーを頼み、青井はコーヒーとフレンチトーストを頼んだ。朝食のようなセットを食うんだなと夜21時に思う。
「すごくないですか。俺めちゃくちゃ感動したんですよ、子どもの頃見てた大好きなアニメがたくさんの人の手で作られた作品だって知った時。ディズニーランドが魔法抜きで作られてる夢の国って知った時とか、サンタはいないって知った時も。色んな人が団結して人に夢を見せるってすっげーすごいと思って」
 熱っぽく語りながら目をきらきらさせる様はまだ子どものようにしか見えないが、本人からしたら違うらしい。事前に情報番組を見てぼんやりと得ていた撮影方法の知識や主演俳優が語っていたエピソードを教えてやると青井はいちいち「へー! すげー」を連呼した。
「映画観ながら裏側のこと考えて感動するタイプか」
「うーん、いや、半々です。物語に熱中してる時っていうのももちろんいっぱいありますし」
「年に何本くらい観るの」
「えー、平均週に1本とかだから50くらい? 菅谷さんは年に何本くらい映画観てるんです?」
「200はいってる」
 口にしてから鬱陶しい自慢に聞こえたかなと内心で焦ったが、青井は目をまん丸くして驚きを表現してくれた。
「すげー! 俺つい好きな映画ばっかリピートしちゃうんで本数全然観てないんですよね、ぜひおすすめの映画教えてください」
 言いながらショルダーバッグを漁って手帳を取り出す。黒革のシンプルな表紙の手帳に赤い細身のボールペンがついていて、自分では選ばない色の組み合わせに目が吸い寄せられた。
「おすすめと言われても好きなジャンルが多岐にわたるから……」
「えーじゃあ、今パッと思い浮かぶ菅谷さんが泣いた映画」
「泣いた映画ね、そうだな――」
「考えちゃだめですよ、パッと出てくるやつ」
「え? えー、『ライフ・イズ・ビューティフル』」
 本当にパッと浮かんだタイトルを口にした。
「ライフ…イズ…ビューティフル」
 復唱しながら手帳にタイトルを書きつけた青井は、ふとそのページの下部を破り取りこちらに差し出してきた。
「観たら感想LINEしますね。IDこれなんで追加しといてください」
 ライン。……ライン。新しいアプリを使うのが面倒で未だ従来のケータイメールを使っているとは言い出せず、仕組みもよくわからないまま文字列の書かれた紙を受け取ってスーツのポケットにしまった。
「じゃあすみません、ありがとうございました」
 大学生に奢られるのもなんだかなと思いつつ、伝票に伸ばされるすらりとした手を止めはしなかった。軽やかに立ち上がる茶髪頭に向かってふと問いかける。
「青井くんの泣いた映画は?」
「パッと浮かぶの『リアル・スティール』です」
 にこっと笑顔を見せて青井はレジに向かう。その背後をそっと通って菅谷はカフェを出た。レンタル屋に寄って帰るか。



 翌日、仕事の手が空いた隙を見計らって後輩の女の子に頼んでLINEをインストールしてもらった。上野という二十代のその子はスマホを操作して手際よく設定してくれながら「スターゲイザー観ました?」と尋ねてきた。小規模な食品製造会社だが映画好き仲間はちらほらいる。
「昨日観た」
「どうでした? 私期待値高すぎてがっかりしちゃいました」
「わかる。オスカーの基準もよくわからないよな」
「ほんとそれです。しかもあの監督低予算デビュー作でオスカー獲っちゃったじゃないですかー、絶対二作目肩に力入りすぎてコケると思う。あっ、このAoiってこれ女の子!?」
「苗字だよ。男の」
「なんだ課長彼女できたのかと思いました」
 IDの書かれた紙を渡して友達に追加とやらもしてもらい、とりあえず満足していると、その翌日に"超泣きました"というメッセージが青井から来た。
"あれは泣く お父さん超かっこよかったです"
"同じく"
"?"
"リアルスティール。お父さんかっこよかった"
"観てくれたんですか!? いいですよね!!!"
 ぽつぽつと感想と知識を交換した後、こうメッセージがきた。
"次のおすすめ教えてください お題「一夏の成長映画」"
"ダーティ・ダンシング"
"なんかタイトルだけはすげーよく聞くやつだ"
"きみのは?"
"プールサイド・デイズ"
 それ以降、互いのおすすめの映画を消化するたびに次のお題が出された。子役の演技が印象的だった映画は? 話はわけわかんないのに好きって映画は? 観た直後は面白いと思わなかったけどなんか繰り返し思い出しちゃう映画は?
 青井は日本では映画館で公開されずDVDスルーされた映画や菅谷がなんとなく避けていたアクションものを多く挙げたのでちょうどよく観たことのないものばかりだった。観ないことを選んできた映画たちの中に意外なほど面白い作品が多かったことに驚く。逆に往年の名作を青井はほとんど見ておらず、返ってくる反応がいちいち菅谷にとっては新鮮だった。トム・ハンクスのコメディ演技最高にいい! だとか、ドナルド・オコナーの身体能力どうなってんですか! だとか。
 番外編として「まじ観なきゃよかったと思った映画」なども挟まれて、観終わった後に"観なきゃよかった""まじ観なきゃよかった"と予想どおりの感想が交わされて笑った。
 

 ある日、飲み会の終わり際にふと携帯を確認すると、青井からメッセージが入っていた。
"俺らけっこー趣味合うのにスターゲイザーが菅谷さんに合わなかったのめっちゃふしぎ"
 青井と会った日に観た映画だ。菅谷の周辺の映画好きの間では若者を含め総じて評判が芳しくなかった。なんとなく顔を上げて上野を観る。あの子なんて青井とそう年齢は変わらないだろうに。
 アメリカでも大ヒットした注目作だけあってロングランを続けているスターゲイザーを、実はその数日前に観返しに行っていた。同じ映画を二回も映画館に観に行くのは初めての体験だった。
 正直な話、今となってはどうしてあの作品が気に食わなかったのかよくわからない。絶賛する気にも6回もリピートする気にもなれないが、話を強引に運ぶこともなくよくまとまった映画だし、出演者の演技はどれもとても自然で好感が持てる。監督の長編デビュー作だけに荒削りではあるのだが確かな熱意があり、これを作った人は映画が大好きなんだろうなと思わせてくれる類の映画だ。青井に愛される理由はよくわかる。レビューサイトに投稿した星2つの感想は上方修正しておいた。
 LINEには"そうだね"とだけ返信した。それからふと"次のお題が出てないけど"と。
 以降一週間、返信はなかった。



 何か気に障ることを書いただろうか、ついに菅谷とのやりとりに飽きたんだろうか、あの年頃だし映画より楽しいことに夢中になってるんだろうか、あるいは事故にでも遭ったのだろうか……とやきもきして過ごしていた菅谷は、仕事中デスクの上に乗せてある携帯がLINEの通知画面を表示した瞬間すぐに手に取って内容を確認した。
"すみませんテスト期間でした! 終わったーーー!"
 脱力した。そうだ、学生を卒業して久しいから浮かばなかったが、大学生にはテストというものがあるのだ。
「お疲れ様ですー、菅谷さん」
「はい!」
 ぱっと顔を上げると、部下がぎょっとした表情でこちらを見ていた。
「なんかいいことありました?」
「え、なんで」
「テンション高いじゃないですか。試写会か何か当たったとか?」
「抽選運はないんだよ」
「残念。あ、資料メールしておきました」
「ありがとう」
 目を通さないといけない議事録と請求書と検収書が溜まっていたのでとりあえず携帯は放置し、退社して駅のホームに着いてから"おつかれ"と返信した。レスポンスは速かった。
"ありがとうございます! しばらく映画館行ってないんで行きたいんですけど今やってるのでおすすめあります?"
"今は個人的にめぼしいのは… 『You go, I go』は観ようと思ってる"
"あっ俺も観たいと思ってました いつ行くんです?"
"公開日。16日"
"有楽町ですか?"
 電車に乗り込んだところでその質問が来て、新宿で観ようと思っていると返そうとしてふと菅谷は指を止めた。
 これは、一緒に観ようと言われているのか?
 まさか、青井は普段は友人か恋人と映画を観に行くのだろうし(たぶん――だってあんな交友関係の広そうな大学生が日常的に一人では観ないだろう。常に先々まで映画鑑賞の予定を詰めているので人と一緒に観に行こうという話にはならない菅谷とは違う)、菅谷を誘う理由がない。しかしもし万が一これが誘いならスルーするのは申し訳ない。
 帰りの車中ぐるぐると考え込んでしまい、気付いていないふりをして返信を明日にしようかとも思ったがもう既読をつけてしまったのだった。忌まわしいシステムのアプリだ。変に間が空いたら青井が気にするかもしれない。家に帰って缶ビールを2本空け、ほどよく酔いが回ったところで思い切ってえいっと返信を送った。
"うん。一緒に観る?"
 送った直後にはもうすっと既読の文字が浮かび上がった。そして吹き出しが増える。
"ぜひ!!"



 木曜の夜、菅谷がまとめて二人分とったチケットで並んで映画を観た。上映開始前に映画鑑賞というギャンブルの話をすると、はっとするような原色のブルーのシャツと黒いパンツ姿の青井は「あー」とつぶやいた。
「ギャンブルかー。俺強いですよ」
「はずれを引いたことない? やたら変なところで笑う客が隣とか」
「なくはないですけど大当たり引いたことあります」
「大当たりなんてあるか? 映画館の席に」
 タイプの客が両側に座ったとか? 青井はコーラを啜りながらただ笑った。
「きみが隣に来たとき嫌な予感がしたんだよ。時間ギリギリだったし」
「まじですか? バイト終わりだったんですよね。靴下屋なんですけど、話好きのお客さんに捕まっちゃってダッシュで来ました」
「そうか」
「『スターゲイザー』本当好きなんです。この間七回目観ちゃいましたよ」
「すごいな」
 その一途さが。
 映画が終わり劇場が明るくなって隣を見ると、青井はまたぼろぼろ泣いていた。菅谷はすぐに席を立つことを諦めた。
「それはなに? どっちで泣いてるの?」
 ビハインドザシーンを思ってなのか、ストレートに作品に感動したのか。
「ストーリーが……主人公があんな答え出すなんて……」
 鼻を赤くしている青井にハンカチを差し出すと、礼を言って頬を拭う。
「あ、そういえばこの間のハンカチ持ってきました、ありがとうございました」
 席を立ちがてらショルダーバックから小さな雑貨屋の紙袋を取り出し、青井が手渡してくる。自然に足は前回と同じカフェに向かった。今回は二人ともビールを頼んだ。「テストお疲れ」とグラスを掲げると、「お仕事お疲れ様です!!」と青井は明るい声を上げてグラスを合わせてくる。
 今さっき観た映画について感想を交換した後(「あのキスシーン要るか?」「要るか要らないかで言ったら要らないでしょうけど俺だったらキスしますよあそこ」「へー」)、LINEでおすすめしあった映画のことも少し話した。
「いつも何で観てるの?」
「ツタヤでDVD借りてますよ、うちんちの駅前でかいのあるんで」
「ここの近所?」
「はい、電車で三駅です」
 聞けば菅谷の自宅からも二駅の距離だった。ビールを飲み干し、ふう、と息を吐いた勢いでなるべく何気無く言う。
「よかったら家、DVDたくさんあるから、今度観に来てもいいよ。機会があったら」
「ほんとですか!?」
 食い気味に反応した青井がテーブルに伏して上目遣いを寄越す。
「今からとか?」
「今から?」
「ちょっと寄るだけ」
「……構わないけど」
 そんな急な展開になるとは思わなかったが、埼玉に住んでいる親が東京に観劇やら音楽ライブやらに来がてらよく泊まって行くので、いつ来客があってもいいように家はいつも綺麗に掃除してある。
 しかし男子大学生をお連れすることになるとは思わなかった。人ん家大好きなんですよー、本棚とかDVD棚とか見るの特に超好きなんですよー、と道中はしゃいでいた青井は、いざ上がる際には「お邪魔します」ときちんと挨拶し、靴を揃えて静かに部屋の中に入った。
 菅谷は気に入った作品は必ずディスクを購入することにしている。新作を観るだけでもいっぱいいっぱいなので観返すことなど結局滅多にないのだが、人に貸すこともあるし持っているだけで満足感がある。一人暮らしのアパートでは収納が足りないのでパッケージを捨てて円盤だけクリアファイルタイプのDVDケースに収納してしまっているものもあるが、それ以外はレンタル屋よろしく五十音順でずらりと棚に並べている。
 菅谷がコーヒーメーカーをセットしネクタイを緩めている間にも青井は目を輝かせながら棚を物色していた。
「あ、『失踪人』だー。これは観ましたよ。俺ジュリアン・ワイルダーめっちゃ好きなんですよ」
「いい俳優だよな」
「いいですよね! 脚本と監督してる作品もあるじゃないですか、あれもすげー好きです。ジュリアンが影響受けた好きな映画って挙げてた映画全部観ましたもん」
「へー」
「そういうのしません?」
「したことない」
「ほんとに!?」
 コーヒーをふたつテーブルに置いてソファに座ると、青井は飛び込むようにして菅谷の隣にどさっと腰を下ろしてきた。
「好きな人の好きなものって好きになりたくないですか?」
「いや……合わないもんはどうしたって合わないからな。合わないっていう自分の感性を大事にした方がいいと思うし」
「俺も別に好きって思い込みたいわけじゃないですよ? いただきます」
 マグカップに手を伸ばし、コーヒーを一口飲む。身動きした拍子に柔軟剤らしき香りがふわっとした。一人暮らしだと言っていたのに色々とまめな子だなと思う。
「でも俺には好きになれるはずだーって思いながら観たいじゃないですか。完璧な映画なんかないし観客は批評家でも審判でもないんだから、欠点は受け入れたいしそれごと好きになりたい」
「うーん……」
「それとか、ちょっと話違いますけど、めっちゃくちゃ気に食わないシーンがあったとして、監督はどう思ってそれ撮ったんだろうって想像したいんですよ。たとえばこのセリフって特定の層を馬鹿にしてね? 主人公なのにいいの? ってむかむかしたとして、監督のインタビュー読んでみたりするでしょ、で、この監督無知なわけでもなさそうだし悪意のある撮り方する人にも見えねーなって思って勉強したり人の感想読んでみて、二回目観てみると全然違う見え方したりするんですよ。型にはまった描き方してるって思い込んでた俺の考え方のほうがガチガチに型にはまってて決めつけて観てたって気づく。どうせ深く考えずに書いた台詞なんだろーとか悪役がこいつだから主人公はクールな正義側として描かれてるはずだーとかね。二回目見て気付けてほんとよかったーと思います。そういうことがあるから俺はなんか、好きになれる可能性を探る努力というか、それを怠りたくない」
 ちょっと間を置いて、青井はふっと照れ臭そうに相好を崩した。
「意味わかんないです?」
「いや。わかるよ」
 菅谷もコーヒーを一口飲む。
「わかるし、きみと知り合いになれてよかったと今思ってる」
「うっそ。こっちの台詞ですよ」
「いや俺の台詞だよ」
「菅谷さんやさしいからな」
 それもこちらの台詞だ。この子と話をしていると心の中のイガイガした部分がまろやかになっていくのがわかる。こうなりたいとは思わないが、この考え方にずっと接していたいと思う。
「DVDどれか借りてっていいですか?」
「いいよ、3本くらい持っていきなよ。どういうのにする?」
「これ全部菅谷さんのお気に入りってことですもんね。適当に選んでみます。これだ!」
 青井はア行の列から『愛が微笑む時』だけを借りて早々に帰っていった。



 DVDとハンカチ返します、と4日後に連絡が入り、仕事終わりに菅谷が帰宅する時間を告げて家まで来てもらった。私服で出迎えて「ついでに近所でご飯でも」と誘うと、青井は喜んでついてきた。
「お酒は強いの?」
「人並みですねー」
「強いやつの返しに聞こえる」
「いや文字通りに。親ふたりとも強いんですけど姉ちゃんも俺もその遺伝子受け継げなかったみたいなんですよね。でもワインとか好きです。菅谷さんは?」
「俺も人並み。ワイン飲めるところ入ろうか」
 カジュアルなイタリア料理屋の半個室で、パスタとピザを分け合いながらワインを飲んだ。体調の問題か青井の顔は二杯目からもう赤くて、それでも美味しい美味しいと飲もうとするので菅谷はグラスを取り上げて水を注文した。
「ずっと前から聞きたかったんですけど」
「うん」
「菅谷さんて下の名前なんて読むんですか? LINEのユーザー名で漢字だけは知ってるんですけど」
「はるふみ」
「ハルフミかー。ヨウジかなって」
「よく読み間違えられるよ」
「俺の下の名前なーんだ」
「みずき」
「なんで知ってるんですか!?」
 パスタをフォークに巻き付けようとしていた手を止めて青井は声を裏返す。ボールが跳ねるようにしてテンションの上がる子だ。
「初対面のときフルネーム名乗ってたぞ」
「や、覚えてると思ってなかったんで……」
 パスタは結局諦めたらしくフォークを置き、水を一気にごくごくと飲んでから、青井は「菅谷さんも俺になんか質問してください」と笑顔を見せた。
「……青井くんは」
「はい」
「好きな人はいますか」
「います!」
 元気のいい返事だった。
「そうか」
 菅谷はワイングラスに手を伸ばす。その時急に眼鏡の汚れが気になって、グラスを置いて鞄の中の眼鏡ケースから眼鏡拭きを取り出し、眼鏡を一旦外して拭き、掛け直して視線を上げると、青井は頬杖をついてこちらを見ていた。黒目がちの目が、アルコールに潤んでいる。
「どんな人か聞いてくれないんですね」
「興味ないよ」
「俺なんかに興味ないですよねー」
「そういうことじゃなく。もうパスタ食べないならもらうよ」
「どうぞ」
 青井が持ち上げた大皿に手を伸ばした瞬間、手をグラスに引っ掛けて倒してしまった。ふたり同時に「あっ」と声を上げた。床に落ちたグラスは運よく割れはしなかったが赤ワインが床にぶちまけられ、店員が急いで寄って来た。片づけてくれる様を謝りながら見守り、新しいグラスが来て少しだけ注ぎ直したところで、なんだか妙に気が抜けた。ワインを飲み終えたら会計をしよう。
「同級生とか?」
 ぼそりと尋ねると椅子の背にかけたショルダーバッグの中を漁っていた青井はきょとんとし、それから「ああ、どういう人かですか?」と笑った。それから頬を膨らませてふーっと息を吐き、目をつぶる。
「あのー、菅谷さん信じるかなー? フィクションみたいな話なんですけど。大好きな映画を観に行ったんですね、それで映画館で俺がわーわー泣いてたら、スーツの似合うサラリーマンのお兄さんがハンカチ貸してくれたんですよ。で、映画の話いっぱい教えてくれました。俺とぜんっぜん違う映画の観方する人でそれが楽しくて」
 ふと目を開いた青井と目が合う。
「一目惚れでした」
 再びワイングラスを落とさなかったのが奇跡だと思う。目の前の青年は眉尻を下げてこちらを見ていて、彼よりずっと年上の自分は何か言わないといけなくて、浴びるように観て生きてきた映画の台詞のうちの一つも浮かばないまま、青井を見つめ返している。

1/1

[ ][ ]
[mokuji]



「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -