ビフォアアス

 うわすげえ美人が乗って来た、と初めて地下鉄に乗った日に思った。
 英国滞在中、通勤には会社の金で借りた車を使うことになっていたが、その日は夜に酒を飲む予定があってたまたま地下鉄で現場に向かっていた。混む区間ではないので毎駅数人しかいない乗降客をなんとなく見るともなしに視線で追っていたのだが、その人が乗って来た瞬間に目を引きつけられた。地味なコートに地味なスーツに地味な黒縁眼鏡、という装備の上に顔を隠すようにマフラーに顎を埋めていたが、それでも充分整った顔立ちであることはわかった。
 定位置が決まっているのかその人はまっすぐな足取りでダグの斜め向かいに座り、マフラーを丸めてブリーフケースに突っ込むと代わりに携帯を取り出して熱心に操作し出した。仕事の連絡、だろうか。ダグも携帯を出していじるふりをしながらちらちらと斜め向かいを窺った。その人がいる視界、というのは、そのまま写真として保存して額縁に入れて飾りたいくらいに完璧だった。
 強烈な一目惚れだった。それからダグの通勤手段は地下鉄一択になった。
 初めて声をかけて食事をした日は緊張しすぎて食べたものをすぐ店のトイレで吐いてしまったが、人生最高の日の内のひとつとして忘れないと思う。



 ウィルにフラれた後、動揺したままホテルに帰ってぼんやりと歯磨きをしながら、洗面所の鏡をしばらく眺めていた。うん、まあ確かに軽薄そうな顔してるかもな。イケメンに片っ端から声かけてる常習犯と思われてたんだろうな。もっと真面目そうなふりしてればよかったな。外出の誘いを断られるたびに傷ついていたことも、ウィルはまったく気づいていなかったのだろう。
 遊びで近づいていると思っていたのならなんでもっと早く断ってくれなかったんだと思う。少しは脈があると思い込んでつけ上がった自分が馬鹿みたいだ。
 でもその憤りが自己中心的なのは解っていた。誠意を伝えられなかったのは自分の落ち度だし、好きな気持ちを怒りや憎しみに転化させたくもなかった。
 物静かだけど棘だらけのところに惹かれていた。手先が不器用でキッシュがうまくナイフで切れなくて結局素手で食べていたのが可愛かった。笑った時の顔が堪らなく好きだった。別れ際に俯いてコートの裾をいじくってちょっと別れがたそうにしてくれる仕種も大好きだったけれど、それは盛大な勘違いだったらしい。衝動的に抱き締めたりしなくてよかった。
「いつも来てくれて嬉しかった」
 ベッドに身を投げ出して、自分に言い聞かせるようにしてつぶやいた。きっと来たくなんてなかったのに、律儀に毎週金曜日店に来て、一緒にご飯を食べて、話を聞いてくれた。断りきれなかったのか食事程度なら付き合ってやるかという優しさだったのかはよくわからないが(どちらにしろ今後本当に悪い輩に出会って付け込まれないように気を付けてほしい)、顔を見る度に幸せな気持ちになってまた一週間仕事を頑張れたので、それに関しては素直に感謝したかった。
「嬉しかったなあ」
 感謝のまま終わりにして忘れよう、と思う。ついに一度も名前は呼んでもらえなかった。渡した名刺はたぶん捨てられてしまっているだろう。それでも、嬉しかった。もう会うこともない。



 ウィルが店に来るのを待つ間、店主であるリジーとよくおしゃべりをした。ダグが10喋るのに対しリジーの発言は1程度だったが、店に通う内に徐々に打ち解けて話してくれるようになった。ずいぶん相談をしたものだ。どこに誘ったら一緒に出掛けてくれると思う? イギリスで流行ってるものはなに? こんな言い方で口説いたらうざい?
 工期が早まるのに伴って帰国も早くなることが決定して、最後にお別れのために久々に店を訪れた。本当に美味しい店なのにもう来られないのが寂しい。
「色々相談に乗ってもらったのにうまくいかなくてごめんね」
 おずおずと謝ると、リジーはつまらなそうな顔をして頷いてからキッチンに戻って行った。がっかりさせたかと凹んでいると彼女はややあって頼んでいない料理を手に戻って来た。
「サービスだから食べて」
「……ありがとう」
 熱々のアップルパイにフォークを入れる。やさしい甘さが身体に沁みた。彼女の慰めの気持ちが詰まっているのだろう。しみじみ味わってから「今まで食べて来たデザートの中で一番おいしい」と伝えると、リジーはやはりつまらなさそうな顔で頷いた。気遣って素っ気ない態度をとってくれているのは雰囲気でわかった。
 これで良い思い出を抱えて帰国できるな、と思う反面、もしも今ウィルに会えてアメリカに帰ると伝えたら引き留めてもらえたりしないだろうかと未練たらしく思っていた。
 再会の数十秒前のことだった。

1/3

[ ][→#]
[mokuji]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -