海に連れて行ってくれ

何か部屋が騒がしい、と認識して反射的に目を開けた瞬間、河野の視界に飛び込んできたのは職場の先輩のどアップだった。
妙な目力のある双眸と目が合って、脊髄反射で挨拶の言葉を口にしようとしたが、声は喉に貼り付いてごろりと音を立てただけだった。つい数秒前で眠りの中にいたのだ。顔をしかめて先輩越しに自分の家の天井を見る。
えーっと、ここ自分のベッドだよな。昨日は帰ってきて普通に玄関に鍵かけたよな。社員寮のアパートとはいえこの人が鍵を持ってる筈ないよな。
「お前車持ってたな、海に連れて行ってくれ」
状況を把握しようと脳の起動を急かしている河野に構わず、先輩が有無を言わせぬ口調で言った。耳に届いた音が一拍遅れて言葉として脳に届き、「先輩どうやって入ってきたんですか?」という質問の代わりに「海…」という気の抜けた呟きが漏れた。
「…どこの海をご所望ですか?」
上半身を起こしながら問い掛けたのは結局そんな内容だった。生憎ここは海無し県だ、馴染みの海というものはない。
「どこでもいいから海だ海。行くぞ」
「あー待ってください、俺ズボン穿いてない」
ベッドから強引に引きずり出され、そのまま玄関まで河野を引きずって行こうとする先輩にしがみつきながら、ああこの人のこういうノリは久しぶりだなあと河野は思った。

先輩は名前をキザハシという。梯子の梯と書いてキザハシさんだ。
河野が勤める建設会社の2年先輩にあたる梯は、度々担当現場が一緒になることもあり、会社の中では同期を含めても一番仲の良い相手だ。もう10年来の付き合いになる。
「大人しくしてれば男前なのに」と誰もが嘆く端麗な容姿と衒いの無さ過ぎる言動を持ち合わせた彼は、良い意味でも悪い意味でも、どこに行っても目立つ存在である。
入社当初はよく飯に飲みに風俗にと連れて行って貰った――というか仕事終わりや休日に突然誘われて強引に連れ出されていたものだが、4,5年前に梯が今の彼女と付き合いだしてからはめっきりそんなことはなくなっていた。口を開けば惚気話を聞かせてこようとするので河野が敬遠した面もある。
梯の突発的な行動に巻き込まれることにほとほと迷惑してはいたが、それがなくなればなくなったで寂しいものであり、河野は久し振りの誘いに密かに心を弾ませていた。
河野自身はフットワークの軽い方ではないし、これといった趣味も無いので、今まで梯に付き合うことで世界が広がった部分は大いにあった。自由気ままに新しい扉を開いていく男を呆れ顔で追いかける日常は、悪いものではなかったのだ。
「で、どうやって俺の部屋入ったんですか」
車を走らせながら、助手席にふんぞり返った梯に問う。河野は、脱ぎっぱなしになっていた昨日と同じ服を着て財布と携帯だけ持って、目が覚めて15分で運転席に押し込まれていた。眠気覚ましにと寄越された缶コーヒーは、長袖では汗ばむくらいになってきた気候にそぐわず熱々のホットだったので、口だけ開けてドリンクホルダーに差してある。
「あぁ?鍵開いてたもん」
「嘘だ。締めましたよ」
「開いてた開いてた。まーじで開いてた」
明らかに嘘を吐いている投げやりな口調で梯は言い、カーステレオに繋いだ河野のミュージックプレイヤー端末を弄くる。梯は伸びたTシャツにくたびれたカーゴパンツというだらけた服装、加えて顎には無精ヒゲが生えている。
建設現場の人間は土曜日、場合によっては日曜日も出勤であることが多い。今は梯の現場はちょうど手が空いたところで、日曜であるところの今日は二連休の二日目らしいが、河野にとっては週に一度の休日に、朝の8時からアッシーとして駆り出されている状態である。
「で、なんで海ですか」
質問を替えてみたが、梯はさらりと無視して「うーん、これでいいや」と車内にサザンオールスターズを流し始めた。
どうやら機嫌が良くないようだなと河野は悟った。梯の機嫌は表情からは解りづらいが、流石に長年の付き合いだ。
いきなりやって来て海まで車を出せと指示された上不機嫌な状態で助手席にいられるなんて普通に考えたら堪ったものではないが、そこは慣れというもので、河野はハンドルを切りながら平然と質問を重ねた。
「なんですか?彼女と喧嘩でもしました?」
「……んー」
返答は肯定とも否定ともつなかいトーンの呻き声だけだったが、もしもこれが見当違いな質問だったら「冗談言うな、俺と幸那の仲だぞ」とでも言われてどつかれていただろうから、恐らく正解なのだろう。
「へぇ、珍しいっすね」
河野は感心混じりに呟いた。
梯は仕事はできるが何せ我が道を行く横暴な男で、プライベートで付き合うのはなかなか忍耐力を要する。彼のペースに巻き込まれている間、河野はいつも、自分が大型犬のリードを掴んで引きずり回されている気分になる。
そんな梯を手懐け管理下に置いた奇跡的な存在が、今の彼女――梯言うところの『ゆきな』らしい。高校時代の同級生であり梯の高校時代の元カノでもあったという。高校を卒業してから自然に疎遠になって別れたのだが、同窓会で再会してこれまた自然に元の鞘に収まったのだと、梯は聞いてもいないのに自慢げに語ったものだった。
河野はその彼女に会ったことはないが、話に聞く限り温厚で良妻賢母タイプの良くできた彼女のようだ。そもそも母親並の寛大さと愛情深さを持っていなければ、いくら見てくれが良いとはいえこんな男と長年やっていける筈がないと思う。
実際、二人は既に家族のような安定した関係なのだそうだ。簡単な理由で別れてはすぐ別の女性と付き合うということを繰り返していた梯を知る河野には俄には信じられない話だったが、付き合い出した頃からギャンブルも夜遊びもぴたりとやめたところを見ると、『ゆきな』は今までの相手とは別格なのだろう。
暫くじっと腕組みをして黙り込んでいた梯は、やがて絞り出すような声でぽつりと漏らした。
「…まあ、五年…高校時代あわせたら七年付き合ってっからさ」
横目を投げて表情を窺うと、梯は正面に向かって無表情な視線を向けていた。
「いつまでも仲良しこよしって訳にはいかねえんだよな」
今まで聞いたことのないような暗い色を帯びた声に、あまり他人に対し気を遣うということをしない河野も流石に気圧されて黙り込んだ。喧嘩がよほどこたえているのか。浮気でもバレたのかと勘ぐってしまったが、口にはしなかった。
気の早いサマーソングが流れる車内で、二人はそれきり口を閉ざしたまま、国道をひた走った。

海へは2時間弱のドライブで到着した。
5月の初旬、夏を思わせる日差しが降る日は次第に増えてきたが、流石にまだ泳いでいる人間はいなかった。
堤防に車を停めると、梯は礼を言うでもなくシートベルトを外してさっさと車を降りた。河野は車を降りてから運転で疲れた身体を伸ばし、のんびりと梯の後を追う。潮の匂いが鼻をついた。
中身はだらしない癖に、相変わらずすらりとした綺麗な後姿だ。容姿に恵まれた人間の性格が欠陥だらけだと、言っては何だが同性としてなんだか安心する。これで梯が優しくて気の利く男だったら仲良くなれていなかっただろう。
波は静かで、快晴の日差しを受けて眩しく煌いていた。スニーカーで砂浜をすたすたと横切った梯は、波打ち際に立つと徐にカーゴパンツのポケットに手を突っ込んだ。煙草でも吸うのかと思いながら後ろから近づいていくと、梯はポケットから取り出したものを手の中に握り、海に向かってゆっくりと振りかぶった。野球選手ばりの動作の大きな投球フォームで、梯が投擲する。
小さな何かが一瞬太陽光を反射して、3メートルほど先の波間に落ちた。
「うわあ」
気の抜けた声を上げて、振り返った梯は満面の笑みだった。今日初めて見る笑顔だった。海に来てはしゃぐなんて子供みたいだと、いい年をした年上の男を相手にしながら河野は思った。
「飛ばねえ。全然飛ばなかった!」
「何投げたんすか?パチンコ玉?」
楽しげな様子につられて微笑みつつ、河野は隣に立って水の中を覗き込んだ。既に、煌めいていた小さなその姿は見当たらない。
「婚約指輪!」
弾んだ声で梯が答える。

河野は微笑を浮かべたまま固まった。

何もリアクションできないままにぎこちなく梯の表情を窺うと、海面と同様に日差しを受けて目をきらきらさせながら、梯は白い歯を覗かせて笑った。
「やってみたかったんだよ。ドラマでよくいるじゃん、フラれて指輪を川とか海に投げるやつ。意外と飛ばなかったな、軽いからか。やっぱりダイヤつけなきゃダメだったかな」
爽やかに目の上に手をかざし、海を見て目を細める。その頭上に広がるのは、色味の薄い春の青空。河野の視界に映るものは、それこそそのままドラマのワンシーンでもおかしくないような画だった。
何アホなことやってんすか、と笑い飛ばせれば良かったのかもしれないが、河野にはそれができなかった。梯の楽しそうな話し声がフラッシュバックして狼狽える。
河野自身はめっきり女性に縁がないので、梯の惚気を聞かされるのは嫌いだった。それでもそれが失われたとなると、他人事なのに時間を巻き戻したくなる。
立ち尽くす河野の前で、梯はしゃがみこんで水の中に手を入れた。手慰みのようにぱしゃぱしゃと水を跳ねあげながら、普段よりも饒舌に言葉を続ける。
「プロポーズしようと思ったんだよ。でもその直前に、俺とはもう無理だって言われちゃったんだよ。もうペースを合わせきれないし俺との将来は考えられないって」
「…………」
「解ってんだよ、俺、相手のこと考えてねえ自分勝手な人間だって。でもさ、突っ走って、相手がついてきてくれんのか確かめて、そうやって愛情確認しないと不安なんだよなあ」
河野の見て来た梯の姿は、良くも悪くも天真爛漫だった。
自分の在り方に自信のある、疑問なんて抱いていない人だと思っていた。河野のような巻き込まれる側の人間とはまるで別次元にいる、確固とした主人公なのだと。
この人ですら自省して落ち込むなんてことがあるのか。
「幸那ならずーっと一緒にいられるかもって思ったんだけど、ダメだった。でも、七年も付き合って貰えただけラッキーだったよ。…限界の長さだったのかも」
一瞬遠い目をした梯は、ふと思い出したように笑みを作って、河野を見上げて来た。
「こうやって俺の周り、誰もいなくなったりして」
「先輩、俺…」
河野も波打ち際に腰を落として、梯に目線を合わせた。見上げていた時よりも眩しそうな顔をして、梯が河野を見る。こんな弱った顔を見せられるのは初めてだった。
「あんたに十年も振り回されてるんすけど」
目を覗き込みながら言うと、瞬きをした梯は、少し間を置いて苦々しく笑った。
「そうだな」
「でしょ?俺の方が長いんですよ、付き合い」
「そうだ、河野がいたわ」
「そうですよ。しかも俺結構好きなんですよ、先輩のこと」
「へへへ」
眉尻を下げて情けなく笑う。やっと傷心らしい表情をした。うん、と何に対してともつかない頷きをして、梯は立ち上がった。ついでに河野の顔に向かって手を振って指先から水を飛ばしてきたので、腕で押しのけて避けた。
「解ったら飯連れてってください。俺起きてから缶コーヒーしか口に入れてないんすからね」
「あー、そうだっけ。じゃあ行こう。飯食いながら、俺が寝ずに考えてた最高のプロポーズの言葉を渾身の演技付きで聞かせてやる」
「やめてください、周りに誤解されます」
踵を返し車に戻って行く梯の後ろ姿を追いながら、リードを手放さなくて良かったと河野は思った。この綺麗で自分勝手な後ろ姿を見ていたいのだ、自分は。
「スニーカーについてる砂、ちゃんと払って下さいよ」
「うーい」
「あとどうやって俺の部屋入ったんですか」
「だから鍵開いてたっつってんだろ黙って運転しろばーか」
問うたら何故か拳が飛んできて、殴られた頭を押さえながら思わず笑ってしまった。4,5年前までの日常が帰って来た。

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