アスチルベの咲く

『カフェ&ダイニングBAR アスチルベ』。
要介の会社の最寄駅から程近い、バス通り沿いのビルの中にあるその店は、看板だけはいつも目にしていたが、入ってみようと思ったことはなかった。なにせ名前が洒落すぎている。けれど今日は、その看板が視界に入った瞬間、ああここにしよう、と自然に足が向いていた。
本当は大衆居酒屋の方が性にも見てくれにも合っていると思うのだが、荒んだ気持ちで独り飲むのには、活気に溢れた飲み屋は辛いものがある。かといって家で独りで飲めば歯止めがきかなくなって悪酔いする気がして嫌だった。
ビルの前にちょこんと佇む立て看板の案内を確認してから、狭い急勾配の階段を2階まで上がり、黒い飾り気のないドアの前に立つ。シンプルなフォントで店名が記されたすぐ上に小さな窓がついているが、曇りガラスなので店内の様子を窺うことはできない。うっすらと話し声が漏れ聞こえてくるので、少なくとも営業はしているのだろう。
スーツ姿の要介が入り易い雰囲気ではなかったが、長い時間逡巡していると気持ちが萎縮してしまいそうなので、長方形の取っ手を掴んで勢いよく引き開けた。ドアに下げられたベルがからんからんと音を立てる。と、

「おっ、兄ちゃん兄ちゃん!」

ドアを開けるなり大声で呼ばわる声が耳に飛び込んできてたたらを踏んだ。声の主を探して視線を動かすと、目の前のカウンター席に座った男性が身体を捻ってこちらを振り向いていた。
目が合うとその男性――40代前半といったところだろうか、細身でぱっちりとした目をした男性は、快活そうな笑顔を浮かべて手招きをした。

「ちょうどよかったちょうどよかった。一人だろ?ここ座んな」

記憶の中をさっと探ったが、要介の知人ではない。念のため一度背後を振り返ってから再度正面に向き直ると、その男性は相も変わらず要介に向かって手招きをしていた。

「え…俺?」
「そうだよ。あ、なに?人と待ち合わせ?」
「いえ、一人ですけど」
「じゃあ座んな座んな。いや話し相手が欲しかったんだよ」

わざわざスツールから立ち上がった男性が、要介の腕を掴んで隣席に誘導する。戸惑いながらも大人しくスツールに腰掛け、要介は店内を見回した。奥に2つある団体用テーブルの周辺は若い女性たちで賑わっていたが、カウンターの後ろ側に並べられたテーブルには客はおらず、10席あるカウンターにも要介とその男性以外に客はいなかった。

「なんか若い姉ちゃん集団がマスター独占状態でさ。色男なもんだから」

無人のカウンター内を示して男性が笑う。なるほどそれで暇をしているということか。要介は苦笑で応じ、とりあえず卓上にあるメニューを手に取った。飲み物のラインナップにさっと目を通し、内心で呻き声を上げる。
飲み会では常に安いチェーン店の飲み放題コース御用達なので、ビールか○○ハイの類しか飲んだことのない要介は、カクテルの名前がずらりと並んだメニューを前にして途方に暮れた。もちろんビールもあるが、あまりに芸が無い気がするし、そもそも居酒屋価格より高いビールをわざわざチョイスして飲むのは躊躇われる。

「あんまりバー来ないんだ?」

左隣に座った男性が一緒にメニューを覗き込んできた。要介は素直に頷いて、「何飲まれてるんですか?」と男性のグラスに目を遣った。

「俺レッドアイ。ビールとトマトジュースな。強くねえしさっぱりして飲みやすいよ」
「あー…じゃあ俺も同じのにしようかな」
「うん。マスター!新しいお客さん!」

男性が団体席に向かって声を張り上げると、「はあい」と返事があって、慌てて若い(要介は25歳だが、同じくらいの年齢に見える)マスターがカウンターへやって来た。確かにスタイルの良い男前だ。申し訳ございませんと丁寧に詫びてくれながらおしぼりとお通しを出してくれる間に、男性はグラスの中身を飲み干して、要介のレッドアイと一緒に耳慣れないカクテルを注文した。
マスターがすぐに出してくれた飲み物を手に、小さく乾杯をする。男性は加瀬と名乗り、要介が「細見です」と名乗ると、「下の名前は?」と尋ねてきた。下の名前を告げると「じゃあ要介な」と頷き、要介が異議を申し立てる隙もなく「いやあのマスターはさ」とマスターの身の上紹介を始める。
独りでしっぽりと飲もうと思っていたのに随分なタイミングで入ってきてしまったものだと思ったが、要介も話し好きの方だ。相槌を打っている内にすっかり楽しくなってきて、加瀬の説明を頼りに飲んだことのないリキュールを色々と試してみた。
知らない相手をとっ捕まえて飲むことに慣れているのか、加瀬は話も上手ければ酒の注文をするタイミングも心得ていて、意識しないままにアルコールがするすると体内に収まっていく。ああ、大人なんだなあ、と思う。すれた雰囲気とその要領の良さが合わさるととてもかっこよく見える。

「んで?」

ひとしきり一方的に喋り倒した加瀬は、小休止とばかりにグラスの中身を飲み干すと、小首を傾げた。

「慣れないバーで仕事帰りに独り飲みっつうのは、なにか?傷心か?」

急にズバリと図星を突かれ、要介は一瞬怯んだが、あっけらかんとした加瀬の雰囲気に乗せられるようにして頷いた。

「…あー…いや…ハイ」
「へえ。男前なのに」
「それが酷いんですよ……」

自分が惨めに思えるので誰にも話すつもりはなかったのだが、今日別れれば2度と会うこともないだろう相手だからと、要介は口を開いた。
要介には5年間付き合った彼女がいた。大学で知り合い、なんとなく気が合うなと思って付き合い始めた、要介にとっては初めての恋人だ。5年の間別れ話が出ることもなく、順調に付き合っていた、と思う。互いに就職してからは会うペースは落ちたが、それでも2人の関係に大きな変化が訪れることはなかった。要介は結婚を視野に入れ始めていたところだった。
しかし、つい昨日のことである。要介は彼女にファミレスへ呼び出され、「別れて欲しい」と言われた。
話を聞くと、先日ナンパされた相手と酔った勢いで関係を持った、浮気してしまったからもう誠実な付き合いはできないと、無表情に彼女は言った。要介は混乱しながらも、反省しているなら自分は水に流すから考え直してくれと話したが、彼女は頑として首を縦に振らない。
席を立とうとする彼女を何度も引き留めて食い下がっていると、やがて彼女は溜め息を吐いて、「あのね、ぶっちゃけて言うと」と口調を切り替えて話し出した。
「その人とは3年前に知り合ってからもう何度も会ってるの。最初は身体の相性が良いてだけの遊び感覚だったけど、段々好きになってきちゃって、付き合うことにしたんだ。そういうことだから、ごめんなさい」
最後のごめんなさい、は詫びているというよりあしらうようなトーンだった。要介がぽかんとして、伝票を手にしてテーブルを離れていく彼女を見送った。
怒涛の展開だった。
3年前って。自分はそんなに長い間気付けていなかったのか。

「あー、それはトラウマもんですなぁ」

煙草をふかしながら、くっくっくっと加瀬は笑った。「笑い事じゃないんですよ」と言う要介は泣き笑いの表情になっている。深刻な空気にしないで笑い飛ばしてくれる加瀬の存在が、今は有難かった。
酔った勢いで行きずりの相手と…というのは、良く聞く話ではある。特にドラマや小説なんかにはありがちな展開だ。だけどそれが自分の身近で起こるとは思っていなかったし、ましてやそれがきっかけで彼女にフラれることになるとは。自分の理解の範疇を超えていて、怒りすら湧いてこなかった。
あまりの仕打ちにもはや彼女への未練などというものは綺麗さっぱり吹き飛んだが、それでもモヤモヤした気持ちが胸の中にわだかまっている。

「可哀相だけど、気持ちが移るのはまあ、自分じゃ止められねえ事だしな」

グラスの水滴でできたテーブルの上の水溜まりをおしぼりで拭きつつ、加瀬は穏やかに呟いた。如何にも恋愛経験豊富そうな男に、要介は窺うような視線を送る。

「…加瀬さんも浮気とかしたことあるんですか」
「んー、二股はしちゃないけど…付き合ってる相手とは別の相手に恋してた事はあるから、浮気って事になんのかな」
「加瀬さんの恋の基準ってどこからです?」
「相手の特別な存在になりたいって思ったら」

即答して笑う横顔に、妙にその台詞かハマっている。ふうんと頷いて、要介もなんとなくおしぼりを手に取りテーブルの上を拭き始めた。上の空のその仕草を見て、加瀬は「どうした」と面白がる声音で言葉を促した。

「いや、俺、中高と野球部で全然女の子に縁とかなくて、結構硬い方で。付き合ってはいましたけどあんまり恋愛自体よく解らないというか。だから成り行きでエッチするとかその相手を好きになるとかいう感覚なんて、尚更わかんないんですよね」
「あー。だから気持ちの整理もつかない?」
「そういうことです」
「じゃ、試してみるか?」

何気ない加瀬の問い掛けに同じく何気なく「はあ」と答えかけて、要介は固まった。きょとんとして「試し…?」と言葉を反復すると、加瀬は「俺で良ければ?」とおどけた風に肩を竦めてみせた。

「この辺ラブホなんか無いからビジネスホテルになるけど。もちろんあんたは突っ込む側な。男相手に勃たなきゃただ寝て帰るだけでもいい」
「え…あ、え?え?俺が加瀬さんとですか?」
「そ。別に男同士でもエッチはできるから。俺経験者」
「そうなんですか?いや、でも……」

ジョークにしては具体的すぎる加瀬の台詞に混乱し、言葉を探して前髪をぐしゃぐしゃとかき回しながら、どんな言葉を探しているのか要介自身にも解らなかった。
普通だったらこんなアブノーマルな誘い、一も二もなく突っ撥ねて良さそうなものだが――酔っているせいか、『男同士』『エッチ』という単語に好奇心のようなものが擡げてくる。加瀬に対してなら嫌悪感も湧かない。それに何より、今は非日常に没頭したい気分でもあった。
そんな要介の態度をどう取ったか、加瀬はふっと笑みを漏らすと席を立った。

「まあ試してみる分にはいいだろ?何事も経験経験」

そうして、相変わらず女性陣に捕まっているマスターを大声で呼ばわり、要介の分の会計もまとめて済ませてしまった。

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