嫌うのならばお早めに

屋上に上がれば何かがあると思った。
学園ドラマやマンガの類の主人公は屋上へ上がるのが好きだ。そこで友人と語らったり自分を見つめ直したりしながら物語は進む。
だからそこへ行けば何かがあると思った。少なくとも、何かしら、青春のようなものを実感できると思った。
生徒に開放されてはいない屋上の扉の鍵は、職員室の鍵置き場の一番端に掛けられていた。通常、体育館や特別教室などの鍵を使用する際には、教員に声を掛けた上で『持ち出しノート』というノートに名前と持ち出した鍵を記録する決まりだが、高良は部室の鍵を借りるついでに屋上の鍵を無断で拝借した。密かに緊張しながらの行動だったが、実行し終えてみるとなんということもなくて拍子抜けした。
高良は高校では将棋部に所属していた。帰宅部が第一志望だったが、校則により部活動への所属は強制だったのだ。将棋部はそのような校則を疎ましく思う生徒の巣窟で、つまり幽霊部員で構成されている部活だった。月に1度の活動日には一応部室は開けるが(部室の鍵を開ける担当者は持ち回り制である)、勿論部員全員が集まることなんてないし、将棋の駒に触れることすらなく駄弁に花を咲かせて活動を終える。
そんな部活で青春を実感する瞬間がある筈もない。かといって高良は学校行事の類は嫌いだ。クラスメイトには溶け込めないし勉強もできない。バイトもしていない。家族とは喋らない。高校生という職業が自分にはつくづく向いていないのだと思う。
ただ、屋上に行けば、何かが起こると思った。
でも実際は何も無かった。
せいぜいフェンスに囲まれた給水塔しかなかった。
寝そべってみたら湿気を含んだコンクリートは冷たくて硬くて背中が痛いし、今日は曇りなので見上げた空はそれ程綺麗じゃないし、頼み込んで一緒に屋上に連れて来た同じ将棋部の相田は、渡り廊下で繋がっている隣の棟を眺めながらとてもつまらなそうな顔をしていた。

「ああ、マジで」

視界一杯に広がる曇り空を眺めながら呟く。

「死にてー」

最近、上手くいかないことがあるとそう呟くのが高良の口癖になっていた。

「じゃあ死にゃいいだろ」

そんな口癖に聞き飽きたのか、相田は即座に切り返してきた。首を持ち上げて相田のいる方を見ると、高良の方を見もせずに、無表情で相田は吐き捨てていた。黒縁眼鏡をかけた横顔がいやに冷酷に見える。

「こっから飛び降りたら死ねんじゃねーの」
「うわ、ひで」

高良はニヤリと笑って、首を持ち上げているのが疲れたので再び脱力した。勢いよくコンクリートの上に落ちたので後頭部がごつっと音を立てた。いて。高良は目を閉じて、屋上にある何か特別なものを感じ取ろうとしながら、問い掛けた。

「ねーねー、本気でそう思う?」
「うるせーな。下らないこと言ってんな。もう戻るぞ」

かしゃん、とフェンスが揺れる音がした後に、相田の声と足音が遠ざかり、出入り口に向かっているのだということが解る。神経質そうなその表情まで目に浮かぶようだった。

「先戻っててー」

目は閉じたまま、腕を持ち上げてひらひらと振る。これ以上屋上にいても何も無いことは頭では解っていたが、それでも潔く見切りをつけられないのが高良だった。

死にてー。と思うことに特に理由がある訳ではない。ただふと気持ちが弛んだ拍子に、その心の隙間に「死にてー」という考えが入り込んできて、その「死にてー」は見る間に高良の中に増殖して膨れ上がって意識を支配する。自分では止めることができない。
人生に何か劇的な変化が起こって欲しいと願う。けれど何が変わって欲しいのかがわからないし、変えようという努力をする気も無い。実際に自殺に踏み切る気なんて毛頭ない。
高良の言う「死にてー」は、中身なんて何にも無くて、幼くて下らなかった。その下らないという事実にまた死にたくなる。

「あー死にてー、死にてー死にてー死にてーっ」

突発的に大声を出したら喉に痰が絡んで途中でゴロッと声が篭り、中途半端な声量の叫びになった。苛つく。死にたい。ひらひらと意味もなく泳がせ続けていた手指を握り拳にして、そのまま真横に振り降ろして思いっきりコンクリートを殴った。どんっと鈍い音がして、肘から先に鈍い痛みが広がる。だがそれだけ。あああああ。つまらない何も起こらない。血すら出やしない。
その時、そういえば屋上の扉が開閉する音を聞いていないなと気付いた。何気なく目を明けて上半身を持ち上げると、相田はドアノブに手を掛けながら首を捻ってこちらを見つめていた。濃灰色の扉の前で、白い制服のシャツが浮いて見える。

「相田?」

名前を呼ぶと相田の眉間にきゅっと皺が寄った。ぷいと視線を逸らし、けれど校舎内に戻ろうとはしない。毒舌の相田が、何も言わずにそんな風な態度を取るのは珍しい。
高良はぼんやりとその立ち姿を眺めていてから、ふと思い至って尋ねてみた。

「もしかして俺が本当に飛び降りるんじゃないかって心配してる?」

相田は無言だ。肯定も否定もしない。上履きのつま先が落ち着かない気持ちを表現するかのようにコンクリートを小刻みに叩いている。
高良はまた上半身をばたりとコンクリートの上に延べ、曇り空を見上げた。

「相田クンのそういうとこ好きだわ」

へへへへ、と笑ってから、口元に両手をあてて、空に向かって思いっ切り叫ぶ。今度の声は空まで伸びやかに届いた。

「すっげーぇ、好きだわー!」
「うるせーなっ」

校舎内にまで聞こえることを危惧したか、スタスタスタと近寄ってきた相田が高良の脇腹に蹴りを入れた。大して力は入っていなかったので痛いというよりくすぐったい感じがして、高良は身を捩って笑った。コンクリートに頬が触れると痛い。人工物の匂いがした。
コンクリートに横向きで寝そべると、視界に伸びた白いシャツの袖が黒っぽく汚れているのが見えた。屋上に出てみた成果はこんな程度か。どうせならもっと汚してしまえと身体をごろりと反転させたら、相田の足にぶつかりそうになった。

「自分を好きになれなきゃ他人を好きになれないなんて嘘だと思うんだよね、俺」

呟きながら戯れに手を伸ばし、目の前にある相田の足首を掴む。相田は鬱陶しそうに足を動かして振り払った。めげずにもう一度掴む。今度は逃げなかった。
オモチャを手に入れた子供のように満足しながら、上履きから生えている相田の足を揺さぶってみる。両脚に全体重をかけて床を踏みしめている相田の足は、寝そべっている高良が軽く動かそうとしたところで微動だにしなかった。

「だって俺、俺みたいなクズに優しくしてくれる相田の事すげー好きなんだもん」

相田が自分の事をどう思っているかは、怖すぎて確かめられないけれど。
同じクラスで、同じ将棋部。それだけでなんとなくつるむようになった相手。いつも不機嫌で神経質そうな表情をしている癖に、高良のことを突き放せない相田。そんな相田に甘えている自覚はあった。けれど寄生するみたいなやり方でしか他人のそばにいる方法が解らない。
相田はつくづく優しかった。冷たい言葉を吐いた後にはいつも後悔していることが高良にはわかる。けれどその優しさがどこまで高良を許してくれるのかが不安で、心配することに疲れて、かえって心は不安定になった。
どちらに転ぶか解らない未来が怖い。明るくないことだけは想像できる将来が怖い。何にもなれない今が怖い。
行き止まりへ向かって突き進んでいくような日常の、何かが少しでも変わらないかと願って屋上に上がった。何も変わる訳がない。自分は学園ドラマやマンガの主人公みたいに選ばれた人間ではない。

「高良」

相田の足にかけた手が再度振り払われた。と思ったら、屈みこんだ相田にその手を掴まれた。戸惑う高良をよそに、相田はその手に力を込めて引っ張り、上半身を起こさせた。地面と並行になった視界の中に、ストンとしゃがみこんだ相田の顔が入ってくる。
と思ったら、すぐに何も見えなくなった。ぷ、と咄嗟に間抜けな声が出る。どうやら顔を相田の胸に抱き寄せられたらしかった。

「死にてーとか言うなって」

人の胸に顔を押し付けながら話を聞くのは、記憶にある限りでは初めてだった。胸は呼吸に合わせて微かに上下する。心臓の音が間近に聞こえる。声は真上から降ってくるようでいて、肌を通して触れている部分から直接響いてくるようにも聞こえた。

「俺優しくなんかないし。お前はクズなんかじゃねぇし。何で目ぇ逸らしちゃうんだよ」
「いや、だって」
「うるせーな」
「相田」
「うるせー」
「相田」
「解ったから」

まるで高良の言う「相田」が「死にたい」と聞こえるかのように、相田は痛いのを堪えるかのような声を出して答えた。
そう思うと、自分は今まで相田の名前を呼んでいたのかもしれないと思う。中身なんて何にも無くて、幼くて下らないラブコール。それを無視しきれなかった相田。目の前のものに縋ることしかできない高良に、なんでこんなに優しいのか。
なあ、俺って人に優しくされる権利あるのかな。

「ひっ」

泣きそうだということを意識する前に、唐突に涙が出てきた。
確かに目から溢れ出すのを感じた熱い滴は、そのまま相田の制服のシャツに吸い込まれて、頬を伝うことはなかった。捏ね回していた理屈も何も溶けていく。本当は何もかも全部、変わらないでいて欲しかった。願わくばこのまま一緒に、行き止まりまで行ってくれないか。

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