嫌な大人

月に一度の定例会議は、社長の冗舌により長引いた。ここのところ業績が思わしくないから苛立っているのだろう。下の人間としては絶えず最大限の努力を続けているというのに、もっと工夫しろもっと頑張れと抽象的且つ他人事の鼓舞をしてのけるのだから、上の人間は楽なものだ。
重い空気の漂う会議室からやっと解放されると、社員は皆疲れた表情で各々のデスクへと戻っていった。梨木は会議中に配布された資料をデスクの上に放り出し、Yシャツの上に羽織った作業着の胸ポケットを探りながら、重厚な鉄扉を押し開けてオフィスから外階段へ出た。室内へ空気が流れ込むごおおという音が耳元を過ぎていくと共に、秋の冷気を孕んだ風が顔を叩く。澄んだ空気にほっと息を吐いた時、目の前の踊り場で部長が煙草を吸っていることに気付いた。
「あれ、おつかれっす。いらっしゃってたんですか」
部長は現在神奈川の支社に出向中である。辞令が出たのが1年と何ヶ月か前だっただろうか。東京本社には滅多に顔を出さないので、随分と久しぶりに会った気がした。
「おー。届け物があってな。オフィス入る前に一服」
ひょいと煙草を持ち上げて見せ、にかりと笑う。
「相変わらずチェーンスモーカーなんすね」
苦笑しつつ、梨木も隣に立って胸ポケットの煙草を取り出した。
会社の建物内は全面禁煙なので、踊り場のスタンド灰皿の周りには喫煙者が集まる。値上げの煽りで禁煙する社員も増えたが、部長は1時間に1本は吸わないと我慢できないという愛煙家で、死ぬまで吸い続けると豪語している。
2人きりで風に晒されている踊り場で、とんとんと灰を落としながら、おもむろに部長が言った。
「梨木さ」
「はい」
「結婚するんだって」
「あ、はい」
「『あ、はい』ってお前。何で俺に言わない訳」
部長の声は珍しく怒気を含んでいた。冷静で温厚ということで部下から親しまれている上司である。こんなことで怒ってくれるんだな、と梨木は思わず笑みを漏らしながら、口の中に含んだ煙を吐き出した。
「だって、うっかり『攫いに来て』って口滑らせちゃったらコトじゃないすか」
「花嫁が俺に?」
「俺が部長に」
「何で俺がお前攫わなきゃいけないんだよ」
「乗り気じゃねんすよ俺」
階段の手すりに体重を預け、何とはなしに下の景色に目を向けながら梨木は言った。会社の裏口へ繋がる砂利敷の道には今は誰もいない。空気はすっかり冷たくなったが紅葉には少し早く、敷地沿いに植えられた木々は少しだけ褪せた緑色の葉を揺らしている。
「だから部長に祝福していただくのは嫌だなと思って」
「見合いか?」
「そんなようなもんすね。親の仕事先の相手の娘さんで。美人ですよ」
「いいじゃないか」
「でも、恋愛感情はないんで」
「恋愛感情なんていつか醒めるからいいんだよ」
「部長と奥さんみたいに?」
手すりにもたれたまま首を振り向け、梨木は問う。部長は躊躇うような様子を見せてから、「一般論だよ」と明答を避けた。梨木はつまらなそうに目を細め、階段の外に視線を戻した。それから、久しぶりに会った上司にあまり失礼な態度を取るのもどうかと思い、身体を反転させて部長に向き直った。
「本社は変わりないか」
そちらを向いたことでかえって会話しづらくなったのか、微妙に気まずさの滲んだ声で部長が問い掛けてきた。梨木は苦笑して、「業績は報告が行ってる通りです。目標をもっと高く掲げろって上はうるさいすよ」と脱力した声で答えた。うん、と頷いて部長は煙草を灰皿へ押し付けた。
「お前が入社して来た頃が一番上り調子だったな」
「ああ。確かに俺が入ったばかりの頃が一番活気付いてましたね、うちの会社」
「俺のストレスも1番少なかった頃だよ」
「でも当時からチェーンスモーカーでしたよね。すーぐ煙草吸いに外出てっちゃって。俺部長とここで喋る為に煙草覚えたんすよ。銘柄も真似したし」
のんべんだらりと言葉を続けようとしていた部長が、驚いたように目を瞠った。梨木はくつくつと笑う。この男が自分のことで何かしら感情の変化を見せてくれる瞬間が、憧れていた若い頃には好きだった。今はただ、懐かしさを感じさせるものでしかないけれど。
「知らなかったすか」
「…知らなかった」
「俺の事攫いたくなりました?」
梨木は灰皿に視線を落とし、煙草の火を捻り消してから顔を上げた。と同時に、梨木の首元辺りを漂っていた部長の視線が、するりと逸らされた。
梨木はふと、今日締めているネクタイは部長に贈って貰ったものだったということを思い出した。部長の家で渡され、その場ですぐに身に着けて、そして部長の手で解かれた。
今日これを締めてきたのはたまたまだが、偶然とは面白いなと思う。部長が二人の関係を完全に終わったものとして整理しているように、梨木ももう過去についても今の部長についてもフラットな感情しか抱いていないのだが、このネクタイのせいで部長には本気に聞こえたかもしれない。
当たり障りのない事しか言わない、人当たりの良いオトナの外面を破って、あの当時の若くて血気盛んだった自分の気持ちが少しだけ頭を擡げた。
「冗談す」
梨木は笑って、口の中の煙草の匂いを消すように秋の空気を吸って吐いてした後、踊り場を横切り、鉄扉を引き開けた。扉を手で押さえながら振り返ったが、立ち尽くしている部長が続いて入ってくる様子が無かったので、手を離して扉が自重で閉まるに任せる。
完全に閉まりきる刹那、梨木はオフィスの中には聞こえないように低く抑えた声で言い放った。
「いつか俺が不倫でもしたくなったら相手してくださいよ」
ばたあん!と、仰々しい音を立てて重厚な鉄扉は閉ざされた。扉の向こうで部長がどんな表情をしているのか想像してくつくつと笑いつつ、自分も大人になったなと梨木は思った。さて、会議の議事録をまとめるとするか。

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