傷心とクレープ

「――死ねっ」

 ぱんっ、と耳元で炸裂音がした。続いてじいんと頬が熱くなる。
 振りかぶった大きさからして彼女なりに全力で殴ったのだろうが、お陰で「あ、殴られるな」という覚悟ができてしまったので、それは大したダメージにはならなかった。音に振り向いた通行人が不思議そうな顔をして通り過ぎて行く。
 わざわざこちらの最寄りの駅前でビンタをかましたのは恥をかかせる意図もあったのだろうか、夕がよろめきもしなかったことに腹が立ったのか、彼女は「…チッ」とガラの悪い舌打ちを残し、くるりと身体を反転させて猛然と立ち去った。ショートのデニムパンツに包まれた尻をぷりぷりと振る歩き方以上に、ヒールの足音が攻撃的だ。カツンッカツンッというあの音はどうも聞く人間を萎縮させる。身長の低い夕は女子に追いつかれかねないという理由からもヒールが好きではなく、そう正直に伝えたことがあったのだが彼女は履くのをやめてくれなかった。
 あの唇が、だーいすき、とか、夕ちゃんがいない世界なんて考えらんない、とか、甘い言葉を紡いでいた頃もあったのに。死ね、だって。人の気持ちとはこんなにも移り気なものなんですかね。こんな風に手のひら返す日が来るんなら言わない方がマシだよな、睦言なんて。空々しくて哀しい。恋とか愛情なんて全部幻想みたいに思っちゃうじゃん。
 あーあ、痛いって思える自分なら良かったのに。

「お兄さーん」

 彼女の去った方向をぼんやりと眺めながら突っ立っていると、どこかから声がした。

「そこのフラれたお兄さーん」

 きょろきょろ視線を巡らせると、物珍しげにこちらを伺っていた通行人や人待ち中らしき人々が一斉に目を逸らす。続いた「こっちこっち」の声を頼りに振り向くと、路上に停めた移動販売車から若い男が身を乗り出していた。やたらラブリーなピンク色に塗装された車には、『シャンス・クレープ』とある。

「派手にフラれてたねー」

 車の外見とは反して、黒髪短髪に生成り色のバンダナを巻いた精悍な店員だった。趣味:草野球、好きな酒:生ビールとハイボール、という感じだ、勝手なイメージ。近寄るとニヤニヤとからかうような笑みを浮かべて話しかけられたが、顔立ちが爽やかだから厭らしさがない。遠巻きに見られるより直接突っ込んでくれる人間がいる方がほっとした。客が来なくて暇なだけだろうけど。

「はあ、まあ、派手にフラれましたね」
「あら。人ごとみたいな反応。堪えてないんだね」
「原因作ったの俺なんで」
「あ。さては浮気?」

 笑みを湛えながら青年は手元に視線を落とし、鉄板に油を広げ始めた。車内はクーラーが効いているのだろうが夏の盛りに火を使っていてそれだけでは足りないのだろう、額に汗が浮いている。

「当たりっす」
「へー。で、浮気相手とくっつくコースなの? そっちにも捨てられるコースなの?」
「捨てられるも何も付き合ってないですもん」
「ひどいねー」
「でも俺自分から正直に彼女に申告したんですよ、浮気したって」
「珍しい。どうして?」
「すごく聞いて欲しくなっちゃって。俺友達あんまいないから、ぶっちゃけた話できるの彼女くらいだったから」

 顔の高さにあるカウンターに組んだ腕を載せ、高い位置にある青年の顔を見上げる。天井に二房も吊るされているバナナが間抜けだ。下手くそな南国演出、じゃないよな、実用バナナだよな。

「そんなことある? 嫉妬させたかったとかじゃなく?」
「珍しい体験だったんで。親友とね、セックスしちゃったんです、男の」
「あー、お兄さんそっちのひとー」

 リアクションまでに変な間はなかった。クレープの生地を丹念に薄く広げる手の動きも一夕たりとも止まったりしなかった。戸惑いを軽い態度で誤魔化したわけじゃない、本当に何も抵抗を感じていないのがわかって、お、と思う。つるっと口にしてしまった後、あ、引かれるよなこんな話、と反射的に思ったから。

「別にホモじゃないっすよ。ヤッたけど」
「じゃあ何かね、酒の勢いかね」
「や、シラフだったけど、二人で温泉旅行行ったらお互いなんかムラムラきてしちゃった」
「あんな可愛い彼女がいたのに嘆かわしいことですよ」

 てきぱきと円形の生地を畳みながら顔の汗をTシャツの肩で拭う。円グラフの1パートみたいな形ができあがった。
 まあ確かに可愛いのは可愛かったし胸もでかかったから、飲みサーで出会って告白された時に受け入れたのだが、美人は三日で飽きると申しますか、恵まれた顔と体型の良さにかまけて自分を磨かない癖にプライドだけは高いタイプ、だった。そういうところも馬鹿で可愛いと思ってはいたけど。彼女がブチギレたのはやはり、夕を好きだからというよりは自尊心を傷つけられたからだろう。もっとも彼氏が男に手を出したと知ったら大概の女が傷つくだろうが。
 だってかっこよかったんだよなーあいつ。安い宿だったから狭すぎて布団ぴっちりくっつけて寝そべって、俺自分から人を好きになったことないんだよねという話をつらつらとしたら、「可哀想だね」とまっすぐな目をして言われて頭を撫でられた。ぐらっときてもしょうがないじゃん。旅先の非現実感に加えて浴衣姿で至近距離で見つめられながら頭撫でられたらそりゃ致すだろ。

「親友とは冷静になったら気まずくてもう会えないし、彼女にはフラれるし、最悪です、ほんと、マジで」
「慰めてあげようか」
「…え」

 ずっと手元に落ちていた視線がふとこちらを向いた。ガラス越しにでも眺めている気分になっていたのでドキッとした。ふいに生々しい温度を伴って視線がかちあったから。

「はい」

 にかっと白い歯を見せながら何かを差し出され、びくっと必要以上に緊張しながら受け取ってみたらそれはクレープなのだった。そりゃそうだ、考えてみたらオーダーなんて入っていなかったのに何やら作ってたし。健康的な色をした生地の狭間に生クリームと溶けたチョコレートが収まっている。上手に食欲を誘うようにできている。できたてのそれはてのひらにほんのりと温かかった。

「…いくらですか」

 サンプル写真と共に載せられた値段表を目で辿りながら片手で尻ポケットを探ると、「ああいいって、俺からの差し入れだって」とひらひら手を振って拒否された。

「まあ甘い物でも食べて忘れなよ」

 笑うと目尻に皺ができる、その皮膚のクセを好ましいと思った。

「はあ、すんません」
「あ、でも今度見掛けたら買ってよね」
「…毎日ここにいますっけ?」
「この駅にくるのは水金だね」
「覚えとく」
「おう、覚えといて」

 からりとした口調には、商売っ気というか、ガツガツした印象を受けなかった。来ても来なくてもどっちでもいいと思っているような、むしろどうせ来ないだろうことが解っていて社交辞令を受け流しているような。それを何故か悔しいと思ってしまい、「絶対来ます」と無駄に力強い言葉を残して、相手のリアクションは待たずにクレープを手に駅前を離れる。さすがに通行人はもう野次馬の興味を向けては来なかった。
 スクランブル交差点で信号が変わるのを待つ間にぱくりと一口かじる。予想を微塵も裏切られない、安心する甘さだった。この暑いのに生クリームなんて、と思っていたが、食べ始めると止まらなくなってばくばくと頬張る。
 唯一の親友もいなくなったし、彼女もいなくなった。相談する相手はいよいよいない。こんなタイミングで重大な悩みが生じてしまった。
 俺もしかしたら同性愛者かもしんないんだけど。
 きゅっと握ったクレープから生クリームがせり上がり、それを慌てて舐めとりながら、次に会った時にどんな話をしようか考えている。

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