罪の味

 通りの端にある喫茶店には初めて入った。
 暗めの照明に重厚な内装、BGMにはジャズがかかり、カウンターには柄の違うコーヒーカップがずらりと並んでいるタイプの、歴史の長そうな『ザ・喫茶店』だ。満員になることなどそもそもなさそうな雰囲気だが、日曜だからというのも相まって先客は一人もいなかった。千枝子は入り口からもカウンターからも一番遠い4人掛けの席を選んだ。斜め向かいに腰を下ろし、立てられた薄っぺらいメニューを開くと、太麺のナポリタンと薄焼き卵のオムライスの写真が載っていた。
「俺、洋食屋でバイトしてるんで、オムライス作れるんすけど」
 硬く張りつめた空気を少しでもほぐそうと、芯太郎はどうでもいい話をした。
「お子様用の旗刺してやると喜ぶんすよ、美秋。あいつそういうところだけガキみたいですよね」
 千枝子はちらりとも笑わず、「コーヒーでいいですか?」と確認すると、マスターにオリジナルブレンドを2つ頼んだ。コーヒーは本当は好きではないのだが、そんなことを言ったらそれこそガキみたいに思われる気がして黙っていた。
 コーヒーが到着するまで5分ほどかかったが、その間千枝子は黙りこくっていた。芯太郎はぼうっと美秋のことを考えていた。今頃家で夕飯を作っているだろう。時計を見ながら、今日は日曜だけど定時より早くは終わらなかったんだなあと、想像を巡らせているだろう。
 形の違うコーヒーカップが2つ、磨かれた木製のテーブルに並び、マスターがカウンターの向こうへ引っ込むと、千枝子はやっと本題を切り出した。
「率直に申し上げます。美秋と別れて頂けませんか?」
 厳めしい顔をしていればいいものを、微笑を無理矢理浮かべているせいで彼女の顔はかえって強張っていて、悠然とした態度の裏に緊張と怯えを収めていることを如実に伝えてきた。芯太郎は黙って続きを待つ。
「あの子は小さい頃から優しくて繊細な子でした。あなたが前科を持っていることを知ったら傷つくと思います。ましてや同性でしょう。これ以上長く一緒にいてお互い良い事はないと思います」
 興信所、という言葉が浮かんだ。いかにも目の前の女性に似合う言葉だ。結婚適齢期で役所勤めで女には不自由しないタイプの一人息子が彼女の一人も紹介しないことに焦れたのか、それとも母親の勘が働いたのか。
 こんな日がくるかもしれないとは思っていた。だから切り出された言葉は予想通りで、落ち着いて答えた。
「わかりました。ひとつ聞かせてください」
「どうぞ」
「俺が美秋を騙して一緒にいるって思ってますか?」
「違いますか?」
 目つきが鋭くなる。言いくるめられまいとしている気配が伝わってくる。
 ああ、あいつ母親に愛されてるんだな、と思って、場違いに泣きたくなった。この人は俺を怖がっているのに勇気を振り絞って東京まで直接会いに来た。美秋が季節ごとに帰省していた実家は長崎だ。テーブルに隠れた膝の上できつく手を握りしめているのが、肩の力の入り具合で窺い知れる。
「…あまりご自分の息子さんを見くびらない方がいいですよ」
 口の中が乾いてきたが、カップに指を添えるとまだ熱そうだったので、お冷を飲み干した。
 自分の父親の後頭部を酒瓶で殴った時の感触を今でも覚えている。父親に殴られて血塗れの顔をしていた母親が言い放った『人殺し』という悲鳴を忘れない。
「俺はあいつと付き合い始める前に美秋に言いました。昔、人を殺しかけたことがあるって。美秋は言いました。『もう二度としない?』って。しないって言ったら、『じゃあいいじゃん。どうでもいい』って言いました。……あいつは」
 原野美秋は。あの日、電車の中で、俺がバッグにつけていた洋画のグッズのストラップを見て声を掛けてきた大学生は。
 芯太郎って男らしくていい名前だねと言い、自分の上品な名前が嫌だといい、でもこの名前をつけてくれて育ててくれた母親には感謝してると笑った恋人は。
「あいつは優しい奴ですよ。原野さんが知ってるよりずっと優しい奴です。おふくろさんのこともすごく大切に思ってます」
「あなたに教えられる筋合いは」
「別れます」
 言葉を遮ってきっぱりと言い切った。
「今日あいつが寝たら荷物まとめて出てくんで。…他に、何か、ありますか?」 
 千枝子はじっと目を覗き込んできた。その表情に戸惑いが浮かんでいるのを見つけて芯太郎は薄く笑った。
「もしかして手切れ金とか言って茶封筒用意してくれてました? 交換条件とか提示するつもりないですよ。俺、前科はあるけど法律犯していいと思ってる訳でも根っからの悪人って訳でもないんで。親父を本気で殺そうとしたことは確かですけど」
 人を殺せる人間が、じゃあ平然と物を盗めるか、動物を殺せるか、詐欺を働けるかといったら、それは全く別問題だ。
 あの環境をぶち壊すには自分が酒瓶を振り上げるしかなかった。そうしなかったら自分か母親が死んでいた。結果たくさんの人に迷惑をかけたことは後悔しているし、今では父親が一命を取り留めたことを心から良かったと思うが、14歳だったあの時、他に自分にできることがあったとは今でも思えない。
 それでも――美秋の父親、自身の夫を事故で亡くして、息子を女手一つで育ててきた千枝子にその事情を納得できるかどうかも、全く別問題だ。頭で理解はできても感情で受け入れることはできないだろう。20代後半ともなれば普通は結婚という行動を意識する歳だ。息子が同性で前科持ちの恋人と同棲していると知って半狂乱で責めてこないだけ立派だと思う。
「原野さんにどう見えてるのかわからないけど、俺は美秋に幸せになって欲しいし、美秋がおふくろさんを泣かせるのとか絶対に絶対に嫌だし、原野さんみたいなおふくろさんがいる美秋が羨ましいです」
 それだけ告げて伝票を取り上げて立ち上がると、千枝子は素早く手を伸ばして「ここはわたしが」と伝票を押さえた。芯太郎はその手の中から無理やり伝票を引っこ抜いてレジに向かった。千枝子は追っては来なかった。
 コーヒーには結局口をつけられないまま、もう二度と来ることのない喫茶店を後にした。美秋が紅茶党なのは母親の影響じゃなかったのかな、とぼんやり思った。

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