アッチェレランド ヴォルティ・スビト

 せめてサックスで良かったのかもしれない。
 野萩が没入したのが優雅に顔の横で構えなければいけないフルートだったり、ばかでかい上に地味な低音を刻むばかりのチューバだったりしたら、さすがに辞めていたと思う。
「おー美野里何ソレ」
 顧問の都合で部活が急遽休みになり、昼休みの間に音楽準備室に楽器を取りに行って教室に置いておいたら、入学当初からつるんでいる牧田が食いついてきた。
「サックスサックス。サクソフォン。かっこいいだろ」
「そういやお前吹部だっけ。え、ちょっと吹かせて」
「ヤダよ。なんでお前と間接キスしなきゃいけねんだよ」
「回し飲みとか普通にしてるじゃんか」
「ダーメ。リコーダーと違うんだからそんな簡単に吹けるかよ」
 サックスは金管楽器に比べたら音を出すこと自体はかなり容易だが、吹奏楽部員には吹奏楽部員のプライドというものがある。素人にほいほい触らせてなるものか。
 学校の近くの公園でちょっと吹いて帰ろうぜ、と持ち帰れるサイズの楽器を担当している一年生を数人誘ったら快くOKしてくれたので、今日の放課後は気楽な演奏会だ。先輩の目がなく好き勝手に吹けるというだけでちょっと楽しい。
 掃除時間が終わって昇降口で待ち合わせ、各々楽器ケースを手にぞろぞろと校門へ向かっていると、サックスパートの2年生4人組に遭遇した。野萩とミク、清田と海野。野萩以外女子なのでちょっとしたハーレムだ。とはいえ小柄で中性的な野萩は混じっていても妙に違和感がない。
「こんにちはー!」
「こんにちは。みんなでこれから練習?」
 リーダーと目されたのか、野萩が美野里を見ながら尋ねてきた。
「はい、公園でちょっとだけ」
「うわーみんなえらいー」
「ウチらせっかくだから今日は息抜きでお茶しに行くんだ」
「1年生、後から合流したら? パフェおごってあげるよー」
 華やいだ女子の声に、古谷が「まじすかっ」といちはやく食いつく。パフェに釣られた訳ではなくミク目当てだろう。美野里は気を利かせて、
「じゃあ終わったら連絡するんでミク先輩番号教えといてもらっていいですか? 古谷、携帯に登録して」
 と淀みなく言った。我ながらナイスパスだったと思う。ちなみに部長の連絡先は部員全員に通達されているので連絡を取ろうと思えば野萩にできるのだが。古谷があたふたと携帯を取り出すのを尻目にちらっと野萩を見ると、全然関係ない方向を見てぼんやりしているようだった。
 その後、公園でひとしきりお遊びの音出しをして、ところどころ主旋律を欠かしつつ課題曲を合奏してから、2年生がドリンクバーで粘りながらおしゃべりしていたファミレスに合流して、それぞれミニパフェをごちそうになった。2年生は1年生の分も合わせて割り勘するつもりだったようだが、会計という段になると「ここはいいよ」とひとこと言って野萩が伝票を手に取った。
「えーっ、さすが部長。いいの?」
「春休み中にバイトしたからね」
「イケメン!」
 ごちそうさまですと口々に言われても得意げな顔をするでもなく、淡々と会計を済ませる野萩を見て、先輩なんだな、と実感した。敵わない。
 駅までの短い道中、隣に寄って行って「まじでごちそうさまです」と改めて告げると、「いいえ」と野萩は笑った。
「美野里は食べっぷりが男子って感じだねえ」
「えぇー汚かったですか?」
「いや、勢いがいい」
 野萩こそ、こんなにゴツゴツしたところがないのに男子なんだと思った。結構モテるのかもしれない。涼やかな横顔を眺めながらふと悲しいような複雑な気持ちになる。自分がそれなりにモテる自負があるから負けた気になったのだろうか。
 野萩と一年生の数人は美野里たちとは逆方向で、乗りこんだ電車内で古谷を女子の方に押しやりながら、早く部活に行きたい、とたぶん初めて思った。誰よりも早く野萩がいて、愛情深く楽器を組み立てる音楽準備室に。動く度にガチャガチャと音を立てる楽器ケースの重みがいとわしかった。

 間もなく高校は夏休みに突入した。
 美野里のクラスは文化祭ではお化け屋敷をやることに決まり、準備日には極力手伝いに来るようにとのお達しがあったが、文化部は部活優先で良いとのことだったのでありがたく練習に明け暮れることになった。自転車で新潟まで行ってスキーして帰ってこよう、と他校の友人からアホみたいなお誘いもあったが泣く泣く断った。
 夏休み明けの文化祭の曲目(J−POPと映画の挿入曲)も既に決まっていて、そちらの練習も並行していたが、それはほとんど気分転換に使われる楽譜で、何と言ってもコンクールの課題曲だ。一日に何回も同じ曲を吹くのは当然として、小節単位で繰り返し繰り返し吹き、一音一音を修正していく。
 音程が合っていること、音楽記号に則っていることの『正解』はあっても、細かい演奏方法・表現方法には正解がない。手探りでこの高校の色をつけていく作業。イライラもするが、それでも、一心不乱に音を出して合奏を構成する一員になっていると、ふっと気持ちが高揚する瞬間がある。一人一人が必死に演奏し、一つの巨大なうねりを作り上げる時の、鳥肌の立つような忘我。
 去年地区大会で金賞を取ったことで、先輩たちはいっそう気合が入っているようだった。金賞とはいっても唯一無二の一位ではない。金賞も銀賞も銅賞も複数校選出されるのだが、それでも賞を獲れることは嬉しくて誇らしいことらしい。今年は全国大会へ、というのが部で掲げられた目標だが、美野里のみならず一年生全体、先輩ほどのバイタリティはない。大会というのは引退していく三年生が主役であるものなのだろう。
 野萩の言っていたとおり、夏休みになったらOB・OGや保護者、時に顧問から頻繁に差し入れが届くようになった。それだけでやる気が盛り返すので人は単純だと思う。みんなでわいわい飲食を分け合っていると八月ド頭の合宿(といっても泊まるのは校内の合宿棟だが)が次第に楽しみになってくる。
 そんな七月の下旬、野萩がマスクをして現れた。
「先輩、夏風邪は馬鹿が引くもんですよ」
「ごめん。熱はないんだけど咳がちょっと出るから今日は吹くのはやめとく」
 お詫びにとサックスパートに持ってきてくれた差し入れはアイスで、7個のハーゲンダッツに加えてなぜか1つガリガリ君梨味が混じっていた。価格差がすごい。
「うわー野萩、これ誰かに対するイジメ?」
 ポニーテールを揺らして振り向きながらミクが朗らかに笑った。野萩はただ苦笑する。
「トマト味のスプーンベジもハズレじゃない?」
「じゃんけんしよーよじゃんけん」
 女子の先輩方がはしゃぐ中、「俺これ頂いていいっすか」とガリガリ君を指すと、「えっ気ぃ遣わなくていいんだよ」「本当にいいの?」と急に心配された。空気的にはじゃんけんに参戦して一盛り上がりした方が良かったのだろうし普段ならそうするのだが、他の人に譲りたくなくてつい確保してしまった。
「俺バニラ系っていうかクリーム系苦手なんで」
 言いながら野萩にちらっと目を遣ると、眼鏡の下の目がふと微笑んだ。

 午前中は個人練習とパート練習、昼休憩を挟んで木管・金管別練習と全体合奏、というのが夏休み中の大体のスケジュールだ。昼休み、音楽室に集まっていつも通り仲のいい同士で輪を作って弁当を食べている時、野萩の姿がないことに気が付いた。普段は副部長二人と一緒に話し合いがてら一緒に食べているようなのだが、今日はその二人は楽器を修理に出しに行くついでに外で食べてくると言っていた。
 風邪を引いていることを思って少し心配になり、美野里は弁当を急いで腹に詰め込むと、ダラダラと床に脱力して休憩を満喫する部員の間をすり抜け、音楽室を出た。廊下はクーラーの効いた室内とは別世界のように暑い。午前中パート練習で使った教室に戻ると、机の上で野萩が伏せていた。
「先輩調子悪いですか」
 慌てて駆け寄ると、一拍置いてのっそりと顔を上げる。眼鏡は畳んで脇に置いてあり、マスクは顎の下にずらしてあった。素顔の目、に加えてうっすらと紅潮した頬に、一瞬ハッとした。
 仮入部期間、各楽器をひととおり体験して回る時、一番最初に回されたパーカスの次がサックスだったのを突然思い出した。リードを水で濡らしてマッピにセットし、「こういう風に」と野萩は説明した。
「下の歯を下唇で覆うかたちにしてくわえます」
 複数人に同時に教えられるように椅子に座った一年生の足元に跪いて、野萩は自分のマッピを咥えてみせ、それから口の形がわかりやすいように人差し指を咥えてみせた。薄い唇の狭間に置かれた指を見て、なんかエロい、とその時思った。勧誘のためにみんなにそう言っているのかもしれないが、教えられるままにドレミの音階を吹いた時「上手だね」と目をみはってくれたのが嬉しかった。
 野萩は寝ぼけたような視線をこちらに向けて来てから、すっとマスクを元の位置へ戻した。
「あ、大丈夫、寝てただけ。あんまり接触してみんなにうつしたら悪いなと思って。ごめんね、心配してくれた?」
「そんなのいいんですけど、ここ音楽室より暑いですよ」
 一般教室はすべて一括で温度管理がされているが、高温下にさらすと良くない楽器もあるので音楽室はそれより低めに設定されている。野萩はうっすら汗ばんでいるようだった。
「風邪引いてるからこっちの方がいいよ」
「それもそうか。…あれ、楽器出したんですか?」
「磨くだけにしようと思ったけど、つい吹きたくなっちゃって」
「俺テナサクって吹いたことないや。吹いてみようかな」
「いいよ。リードもついてるし」
 あっさりと言われたので驚いた。楽器自体は貸与されているものなので他人に触れられたくないという拘りはなくておかしくないが、マウスピースは口が触れるし、リードは舌で舐めて湿らせるからある意味間接キスよりも濃い。自分は回し飲みをしたことがある友人相手にも即座に拒否したのに。驚くほど物事に頓着しない人だし、そもそも間接キスという発想がないのか…と思ったが、「あ、でも風邪がうつるかも」と続いたのでそういう訳でもないらしい。
「食い物じゃないし俺馬鹿なんで平気です、風邪引かないです」
「さっきは夏風邪を引くのは馬鹿だけって言ったよ」
「そうでしたっけー」
 美野里自身にも抵抗はないので、元々首にかけっぱなしになっていたストラップに楽器を接続する。いつもしゃんとしている野萩はやはりだるいのか珍しく机に腕をのせてその上に顎を預けるという脱力したポーズでこちらを見守っている。マスクは正したが眼鏡は放置らしい。部活外の野萩は、もしかしたらこうなのかもしれない。授業中の顔や遊んでいる時の顔をいち後輩の自分は知らない。
 ふと午前中のことを思い出して、美野里は話題を振った。
「ミク先輩ってどんなアイスが好きですか?」
「え? …どうして?」
「なんとなく」
「俺に聞いてもわかんないよ」
 だって。という言葉を飲み込む。今日わざわざみんなが好きなハーゲンダッツに加えてガリガリ君を買って来たのは、差し入れのアイスのチョイスを何回か見ていて、美野里がクリーム系を避けてシャーベット系ばかりを選ぶことに気付いていたのだろう。
 「ミントとか好きそうだけどねえ」と真面目に考え込んでいる野萩を見て、もしかして、という考えが湧いてきた。もしかして、……美野里の好みだけに気付いてくれていたのか?
 急激に身体が熱を持ち出した。感情が喉をせり上がる。誤魔化すように楽器を構え、言葉にならない言葉を吹き込んだ。テナーサックスはアルトよりも吹き応えが重く、普段どおりの力の入れ方ではきちんとした音が出なかった。ぼう、と発車を知らせる汽笛のような音。
 コンクールの課題曲の佳境、アルトサックスに用意された主旋律を、テナーサックスで吹いてみる。重く渋い音を出す楽器は同じメロディーを違う風に響かせた。美野里たちがこの音を吹いている間、テナーサックスは低音のハーモニーに回って下から支えてくれている。
 アッチェレランド――だんだん速く、駆け抜ける。暗譜している音を辿る指先にまで自分の鼓動が伝わっていく。大丈夫だよ、って言ってもらった入試の日から、加速度は始まっていた。
 周囲に関心を払わない野萩が美野里にしてくれたことの意味を、きっと野萩自身も気付いていない。
「楽器は雄弁だね」
 目を閉じて耳を傾けながら、野萩がつぶやいた。
 どこがだよ。何も伝わってない。叩きつけたいような見せつけてやりたいような生々しい気持ちを、大人しい木管楽器の音なんかに乗せられる訳ない。
 あんたが好きでどうしようもないって話をしたい、今すぐ。










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企画提出作品
お題「あんたが好きでどうしようもないって話をしたい、今すぐ」


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