アッチェレランド ヴォルティ・スビト

 基礎練習を終えて一回コンクールの課題曲を合わせた後、10分休憩を言い渡された。
「野萩先輩、アイス食いたい」
 挙手して発言したら「夏休み中はアイスの差し入れがいっぱいあるから」と母親みたいな口調で窘められた。教室には28度設定で冷房がついているのだが、腹まで息を吸って楽器に吹き込むという作業は意外なくらい体を暖めて汗が止まらなくなる。仕方なく廊下の端に設置してある冷水機のところまで行って水を飲んでいると、サックスでは唯一の同学年であるテナーの古谷が寄って来て「美野里って野萩先輩に懐いてるよなあ」と呟いた。
「え、変?」
「変じゃないけど、野萩先輩って美野里が仲良くなりそうなタイプに見えないっていうか」
「仲良くないよ、俺が一方的に懐いてるだけだもん」
 野萩とはよく話すが、美野里から振らなければ部活に関係のない会話をする機会はないだろう。真面目な部長はいつも部のことばかり考えている。これと思ったもの以外には一切関心を払えないというか脳の容量を使わないタイプのようで、仮入部で顔を合わせた時に確認してみたら、入試の時に美野里に声をかけてくれたことは覚えていなかった(なお生徒会でもなんでもなく担任教師に名指しで頼まれて入試の手伝いをしていたそうだ)。がっかりしたが、そういう人だからこそ改めて興味を持った。
「そもそも先輩がサックスだからってサックス選んだって言ってたよね? なんで?」
「だって可愛いじゃん」
「かわいいぃ?」
「ちっちゃいのにあんなでかい楽器持ってて」
 古谷が声を裏返して復唱してきたので慌てて言い添えると、古谷は人畜無害そうな丸顔に理解できないという表情を浮かべた。
「そんなこと言ったらミク先輩の方がちっちゃい上にもっとでかいバリサク持ってんじゃんよ。ミク先輩の方が可愛いし」
「お前ミク先輩のこと好きなんだ?」
 バリトンの二年の先輩の顔を思い浮かべながら切り返すと、あっさり絶句した。わかりやすいリアクションにふむふむと頷きつつ教室に向かう。
「ふーん、ミク先輩かわいいもんな、おっぱいでかいし」
「ばっ、お前、聞こえたらどうすんだ、ばーか!」
 古谷は顔を真っ赤にして小声で言い募り、これ以上何かを言われては堪らないという風にばたばたと教室に駆け戻って行った。いくら部内の男子率が低いと言ってもミクは古谷には無理だと思う。全学年で五本指には入る正統派の可愛さだ。加えてバリトンサックスを構えると勇壮さがミックスされて確かにあれはいい。
 教室に戻ると教卓の前でそのミク先輩と野萩が楽譜を覗き込んで話し合っていた。コンクールの課題曲の楽譜はA3サイズ2枚でコピーして配られており、それを各自で厚紙に貼ってテープで貼り合わせて本のように開ける形にしてある。コンクール本番が近付くにつれ書き込みで真っ黒になっていくという楽譜だが、美野里のそれはまだ音階と小節番号を振ってあるだけだ。中学で吹奏楽部だったりピアノ経験者の部員は音階も音楽記号も教わるまでもなく理解して初見で演奏できていたが、五線譜の下の方からド、レ、ミ、と辿って行かないと音符の読めない美野里は、その基礎を呑みこむことに三か月を費やしてきたようなものだ。ポーコ・ア・ポーコだのアンダンテだの、日本語に訳して書いておいてくれよと思う。そう野萩にぶうたれたら「わかるよ、俺も吹奏楽は高校からだから」と笑っていた。
 顔を寄せ合ってぼそぼそ話す間にも、野萩は身体の前に斜めに提げたサックスのキーを指先でぱたぱたと無秩序に押していた。癖なのだろう。全員が揃ったことに気付くと、時計を見上げて「じゃ、再開します」と宣言した。ミクが席に戻り、全員がマウスピースにかぶせたキャップを取る。
「さっきの続きで、21小節の2拍目から」
 ドラムスティックが教卓を子気味いいリズムで叩く。メトロノームを使える場合は使うが、21小節のあたりから徐々にテンポが速くなるので、正確に演奏するには指揮を立てるしかない。ストリンジェンドだ。徐々に速く強く。コッコッコッと教卓の縁を跳ねていたドラムスティックが徐々に叩きつけるような動きをするのを、楽譜と交互に眺める。野萩は腕の力は強めても涼しい表情は変えずに楽譜を視線で追っていた。コンコンコンッ、とストップの合図が鳴る。
「ちょっとここ、アルトにリズム間違えてる人がいるな。32小節、順番に吹いてみて。美野里から」
 普段さりげなくタメ口を織り交ぜて喋っている相手でも、まっすぐに視線を向けられながら演奏しなければならないとなると緊張する。必死に楽譜を見ながら吹くと、「オッケー」と頷いて標的は次に移った。間違ってなくて良かった、とほっと胸を撫でおろす。
 続いて旋律を吹く隣の先輩の音に合わせて指を動かす。野萩――というかサックスパートの足を引っ張ることだけはしたくなかった。大して上手くはなくても、サックスが好きではなくても。

 いよいよ夏休みが近づいて来た7月中旬、合奏の形に並べた席で楽器を分解して掃除していると、
「ちょっと話があるんだけど、いい?」
 と野萩に手招かれた。もしかしてお前はコンクールに出られないという通達かな、と思いながら即座に応じる。定員55名、我が校の部員総数は53名だが、下手くそな者は切り捨てて少数精鋭で勝負、というのは充分にあり得るだろう。
 音楽室に隣接した手狭な部屋――準備室は他にあるし音楽教師が詰めている訳でもないのでただ『小部屋』と呼ばれている――に入ると、エアコンの風が入って来ないそこはむっとする暑気が満ちていた。学校を出たらこの暑さの中帰らなきゃいけないのかと辟易する美野里をよそに、暑がる素振りすら見せない野萩は切り出した。
「秋にアンサンブルコンテストがあるのは知ってるよね」
「入部したての時に聞きました」
 吹奏楽連盟が春に開催する全国規模のものとは違う、県主催の高校生を対象にしたコンテストだという。エントリーは部単位の参加ではなく3人以上8人以下。秋の文化祭の後にあるこのコンテストに、春と併せて毎回一、二組が部内から有志で出場していると聞いた。部単位の活動だけでも離任式、新入生歓迎会、コンクール、体育祭、文化祭、定期演奏会、卒業生送別会と、一年中何かに向けて練習していなければならないのに、わざわざアンサンブルにまで挑むモチベーションは一体どこから湧いてくるのかと配られた年間予定表を見て呆れたものだ。
「今年サックスの三重奏で出たいと思ってる。美野里に一緒に出て貰いたい」
「…俺ですか?」
 自分が選ばれたことに、喜ぶよりも先に当惑した。アルトサックスは専任の部員だけでも他に3人いて、うち2人は野萩と同じ2年生だ。
「清田先輩も海野先輩もいるのになんで俺なんですか」
「美野里が一番熱心だから」
「ウソ、俺一番不真面目ですって、下手だし楽譜白いし」
「真面目と熱心は違うよ。…楽譜白いっていうのはなに?」
 野萩は真顔で尋ねる。
「みんな合奏の時先生に言われたこととかパートリーダーの指示とかすげーメモしてるじゃないですか、あと自分がミスしがちなとことか。女子なんかカラーペン使ってるのに最終的に譜面真っ黒になってるじゃないですか。俺めんどくてそういうの全然やってないです」
 自分の不出来アピールをするのもどうかと思うが、過大評価されることの方が据わりが悪い。野萩はしかしそれを聞いてもパートリーダーとして叱るようなことはせず、ああ、と知っていたかのように頷いた。
「だって覚えてるんでしょう、美野里は」
「…へ」
「一度ミスを注意したら繰り返さないし、ブレスの位置も忘れないし、ここは楽しくスキップしてるイメージで、とかの抽象的な指示も頭に入ってる。凡ミスはあるけどそれは指が追いつかないとかいう単純な問題だから練習を重ねればできるようになるし、できるようになるために練習を重ねることを厭うタイプでもない。毎日すぐ部活に来るもんね」
 珍しく長文を喋る野萩の言葉を聞きながら唖然とした。そんなに見てるのか、と。後輩のことを。8人いるパートのメンバーを、そんなにつぶさに観察し認めてくれているのか。
 ちょっと泣きそうになって狼狽えた。誤魔化すように「でも」と言葉を重ねる。
「先輩たちの方が上手いじゃないですか圧倒的に」
「上手さで選ぶ訳じゃないから。一緒にやりたいと思って美野里に声をかけてるんだよ。…嫌なら断ってくれていい」
 嫌な訳ないだろ、と思った。サックスに惚れてるあんたに見出されて、嫌なやつがいる訳がない。愛着はなくたって褒められれば嬉しい。ましてや野萩に認めて貰えるなんて。
 そこでふと疑問を覚えた。
「三重奏って、あと一人誰ですか?」
「ミクだよ」
「………あ、そうですか」
 何故かふっと、身体が一段下に落ちるような感覚を覚えた。下の名前を呼び捨てることになんだか急にイラッとした。佐藤という苗字が部内に二人いるからみんなが下の名前で呼んでいて、野萩も今までずっとそう呼んでいた筈なのに。それって俺邪魔にならないですか、と、意地悪に聞いてみたくなった。休憩中に顔を寄せ合って喋っていた二人の姿を思い出して。
 古谷が可哀想でこんなにささくれだった気持ちになるんだな。古谷は特に仲が良い訳ではないが数少ない男子の仲間だし。野萩と同じテナーだからきっと三重奏のことを知ったら妬くだろう。
「やります」
 喜ぶ気持ちは半減していたが、きっぱりとそう答えた。野萩の表情がほっとゆるんだ。
「良かった。本格的な練習はコンクールが終わってから文化祭の練習と並行してになるけど、夏休み中に時間を見て曲を決めようと思ってるから、その時はよろしくね」
「…俺よくわからないので二人で決めていいですよ」
「だめ、参加して。三人で吹くんだから」
 やわらかに、かつ有無を言わせずに野萩は言った。そうは言ってもきっと自分だけが置いてけぼりになるだろうと美野里は思う。技術でも経験でも知識でも気概でも――でもたぶん、執念では負けない。
 まだ、サックスを好きになりたいと思い続けている。


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