アッチェレランド ヴォルティ・スビト

 高校を選んだ基準は、家からそれなりに近くて手の届く偏差値で行事が盛ん、ということだった。
 家の経済的に私立は視野になかったので候補は県立三校に絞られ、その中から一番運動部が強いところを選んだ。強いとは言ってもせいぜい全国大会出場止まりだったが、青春を注ぎ込んでまで部活に打ち込む気はなかったのでそれくらいがちょうどいいかなと思った。
 しかし滑り止めがないということはすなわち県立に落ちたら進む先がないということだ。通常の受検日程がおわった後定員割れしている高校から二時募集はかかるが、それに頼ると間違いなく偏差値かつ治安の悪い高校行きになってしまう。かっこ悪いと思って親にも友達にも弱音を漏らしはしなかったが、それまで感じたことのないプレッシャーだった。勉強は人並みにしてきたし安全圏の偏差値の学科を選んだものの、入試当日は緊張と不安で痛む腹を抱えながら高校を訪れた。
 投げられたボールを打てたら合格、のような、単純明快な勝敗のシステムだったら開き直れるし、練習を重ねることで自信も持てるのに。校門の前には色々な学習塾や中学から激励に来た先生たちと思しきスーツ姿が佇んでいたが美野里の知っている顔はなかった。様々な制服が校門をくぐる。教室に行けばたぶん、同じ中学の生徒がいる、と言い聞かせながら、見慣れない昇降口でビニール袋に靴を入れてスリッパに履き替えた。
 冬の盛りのことで、その翌々日には雪の予報が出ていた。エアコンで暖められた室内に入ると一気に緊張感が解けて眠気に包まれ、それが焦りを煽った。離れた席に知っている顔を見つけたが話しかけに行ける空気ではない。芯をたくさん補充したシャーペン2本と消しゴムを何回も確認して机に置き直す。高校の机は中学のそれよりも幅広で高かった。
 学校の定期試験で使われる藁半紙とは違う、うすっぺらくてすべすべした紙質の試験用紙は、あらかた埋まったが正解率には自信がなかった。時間が終わる頃には頭がぼうっとして喉がからからだった。教室での飲食は許可されておらず、試験用紙の確認が終わるまで食堂で待機するようにと口頭で道順の説明を受けると、美野里は真っ先に立ち上がって教室を出た。去年文化祭に来たので道は知っている。自販機で紙パックのミルクティーを買おうと思った。
 1階へ降りて昇降口の前を通過した時、そこに一人の小柄な生徒が立っていることに気付いた。ネクタイを締めたこの高校の制服。手伝いの要員なのだろう、美野里の姿を認めると、「おつかれさまです。食堂はこちらです」と、掌を上に向けて指先をきっちり揃え、曲がるべき方向を指し示した。ぺこっと会釈しつつ足早にその前を右折しようとした時、ぽん、と、肩が手に触れた。
「大丈夫だよ、そんなに不安がらないで」
 やわらかく芯をぼやかしたような、『音色』と表現したくなる声。そんなに不安そうな顔をしてたのか、と自分自身に驚きながら、再び無言でぺこっと会釈して今度こそ通り過ぎた。恥ずかしくて先輩の顔は見られなかった。歳は最高でも3つしか違わない筈なのに、学ランを着た自分が一騎に子供っぽく感じられて居心地が悪かった。
 結局美野里はその高校に受かり、ブレザーに袖を通すことになった。
 そして、体育館で開催された新入生歓迎会を見るまでは、自分が運動部に所属することには微塵の迷いもなかった、というより決定事項だった。
 委員会の活動報告と部活紹介と去年度のクラス紹介がいっしょくたになった小冊子が配られ、新入生歓迎会はまず部活紹介から始まった。「めーん!」「どーう!」と気合の声を発しながら打ち合いを見せる剣道部、一年生の列の中にボールを放り込むバレー部、ただただ威勢良く勧誘の文句を叫ぶ野球部など、元気のいい運動部のアピールが終り、文化部に移る。しょっぱながボソボソと原稿を読み上げるだけの書道部だったので、美野里は興味を失ってステージから目を離し、隣の牧田というクラスメイトに「お前何部?」と小声で話しかけた。
「んー、バレーかバスケで迷ってる」
「タッパあるもんな」
「美野里は?」
「俺野球かテニ部で迷ってんだよね」
「打つ系の球技好きなんだ」
「好き好き。ぱこーんって爽快感あるのが好きなんだよね」
「仮入部一緒にひととおり回ってみね?」
『こんにちは。僕たち吹奏楽部は現在、3年生18人、2年生18人で活動しています』
 そうしようぜ、と頷こうとした時、聴覚にいきなり声が割って入った。いや、マイクで喋っている人間は継続してステージ上にいたのだが、ふいに意識に差し込まれたその声に美野里はハッと顔を向けた。
『去年はコンクールの県予選で金賞を頂くことができました。今日は新入生のみなさんの歓迎として、「シング・シング・シング」を演奏したいと思います』
 入試の日に会った先輩だった。制服の首元には黒いストラップをかけている。マイクのスイッチを切ると深々とお辞儀し、自分の席へ駆け戻って行く。いつの間にかステージの上下(ステージ上だけだと人が乗り切らないようだ)には指揮者を囲むように半円形に椅子が並べてあり、先輩は美野里たちから見て二列目の一番右端に座り、床に伏せてあった楽器を構えた。有名な楽器だからわかる。あれはサックスだ。指揮の生徒が腕を振り上げるのを合図として楽器を口にくわえた先輩からは、きりっと研ぎ澄まされた雰囲気が放たれていた。
 後から知ったのだがうちの高校の吹奏楽部は新年度を迎えるとともに部長職、および各楽器のパートリーダーを新二年生に引き継ぐのだそうだ。三年生の引退は秋の定期演奏会を終えた後だが、受験勉強に時間を割けるようにという配慮らしい。その先輩――野萩は新部長の二年生だった。

「サックス、パート練行くよー」
 掃除時間が終ってしばらく経ち、全員が音楽準備室から楽器を持って音楽室の定位置に移動してきたのを確認すると、野萩は声を張り上げて立ち上がった。金管は2人3人のパートがザラだが、音量が小さく、かつ細々と担当の分かれている木管は最低でも6人の大所帯だ。サックスパートはアルト4人、ソプラノ兼アルト1人、テナー2人、バリトン2人の計9人。
 折り畳み式の譜面台にA4の楽譜を収めたクリアファイル、吸水ペーパーなどの楽器の手入れ用品一式をまとめた重い手提げを各々が肩に下げ、楽器を持ってぞろぞろと廊下を移動する。パーカッションやコントラバス、ユーフォニウムなど、持ち出しにくい大きな楽器が部室である音楽室と音楽準備室を使うので、その他のパートは放課後の教室か廊下を日によって適当に使い分ける。教室の場合、かぶっていない限りはパートリーダーのクラスを使う。
 2年生の領域に足を踏み入れることは部活以外ではないので、美野里は入る瞬間毎回緊張する。教室というのはことごとく同じ作りなのにひとつひとつがことごとく違う。自分のホームルームじゃない教室で席に着く、そわそわする違和感は、夢の中にいる感覚に似ている。
 各々の音が聞こえる距離を保って適当な席に座る中、パートリーダーである野萩だけは全員に向き合うように教卓の前に座り、昔ながらのメトロノームを置いて針を振る。
 コッチコッチコッチコッチ。
 律儀にリズムを刻むメトロノームに合わせて、毎日毎日同じウォーミングアップをする。
 ドから1オクターブ上のドまで、四分音符、八分音符、三連符、十六分音符。ロングトーン、運指の練習の聞き飽きたメロディー。指を動かす度にタンポがぱこぱこと孔を叩く音がする。無数にある孔を塞いだり開けたりしながら息を吹き込むことで音階を作る木管楽器の仕組みは不思議だ。限られた指や腕の動きに唇の形の変化で音を変える金管楽器は輪をかけて不思議だが。
 サックスの音色はハスキーな歌声のようで、野萩のやわらかい声は、どちらかというとクラリネットを思わせる。
 この部活は文化部の中でも特異だと思う。体育会系の部活のように縦社会で、挨拶が徹底され、腹筋だの外周だの体力作りのようなことをやらされる。コンクールのある夏前には当然土日も招集されるし、夏休みに入れば合宿までして練習漬けだ。ステージに上がれる上限人数は決まっているから部員数が上回っていればレギュラー争いだってある。そのくせスポーツのようにわかりやすい勝ち負けがなく、審査員の裁量で優劣が決まる。演奏はある意味究極のチームプレイとも言えるが、こと人数の多い木管楽器に関しては同じ音を複数人が出すから一人一人の存在感は薄い。
 美野里ははっきり言って吹奏楽が嫌いだ。目立ちたがりの性格だからかもしれないが、何もかもがピンと来ない。一日の活動を終えると疲れはするがそれは身体を動かした後のような明確なものではなく、ぼんやりと身体を包むような倦怠感だ。負担がかかるのは口と右手親指という地味な部位。
 運動部を見学して回ることもせずにこの部活を選んでしまったのは、新入生歓迎会での演奏に心動かされたからではもちろんない。指揮者に食らいつくような目をする野萩を、いいな、と思ったからだ。受験生に親切に声をかけてきた人の好さそうな温和な表情とは違う、楽器という得物を手に戦いを挑むような姿が。
 吹奏楽の何があの先輩を惹きつけてスイッチを入れさせるんだろう、という興味は、美野里を衝き動かした。そういう巡りあわせなんだとも思った。野萩と同じサックスを希望し、汲まれて順当にアルトサックスを与えられた。
 けれどまだ解らない。サックスの魅力も、吹奏楽の魅力も。
 それでもこの部活にしがみついているのは、意地…なんだろうと思う。

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