好きになってしまった

 個室の和食屋に入って、泉水さんが美味しそうに冷たいほうじ茶を飲み干した時、ビジネスバッグの中で携帯がぶるぶると鳴った。ちらりと液晶を確認した泉水さんは、俺に向かって片手を上げてみせながら飛びつくようにして電話に出た。はい、はい、わかりました、すぐ行きます。湯呑みを舐めながら俺はゆるやかに落胆した。ああ、行っちゃうんだ。会うの三週間ぶりだったのに。
 電話を切ってこちらを見た時、泉水さんの顔つきは父親のそれになっていた。
「ごめん、柊太が熱出したって。保育園まで迎えに行かないと。うちの両親今日は病院行ってるんだ」
「そうですか。心配ですね」
(何でよりによって今なんだよクソガキ)
「大した事はないと思うんだけど」
(じゃあ行くなよ)
「熱出すって子供からしたら心細いじゃないですか。早く行ってあげてください」
 相手に良く思われたい一心の100パーセントの嘘は最近になって覚えた。本気で親切にしたいと思う時はこんな風にすらすら言葉は出てこないのに、演技となるとそれらしいことが言えるのが自分でも不思議だ。
「ありがとう。ごはん、一人で食べてく?」
「ううん。一緒に出ます」
 笑顔で腰を浮かす。ひとりで外でご飯を食べるのは嫌いだ。
 注文前だったので店員に謝りながら店を出た。こういう時本当に申し訳なさそうな顔をするところが好きだ。泉水さんは嘘が下手で、時々ぎょっとするくらい剥き出しの感情をぶつけてくる人で、だからこそこの人の優しさは本物だと思える。たぶん育ちが良くて、周囲から愛されて、物怖じせずに育って来た人だけが持てる人柄。
 好きだという感情を、俺はこの人に出会うまでナメていた。もちろんその頃はそういった自覚すらなく。ふっと会いたくなる恋しさ、一緒に過ごす幸福感、人肌に触れる心地よさ。それを自分が持ちうる好きという感情の全てだと思っていた。
 店を出てから会社に電話をかけ、タクシーのりばの前で泉水さんは眉尻を下げて振り向いた。
「それじゃ、ごめんね。今度はゆっくりご飯食べよう」
「気にしないでください。柊太くん、早く良くなるといいですね」
(そのまま死ねばいいのに)
 泉水さんがタクシーに乗り込み、車の姿が見えなくなるまで見送った。「行かないで」と引き止めたい気持ちをかろうじて押さえ込んでいるのは、泉水さんを困らせたくないという感情と、泉水さんは困りはしても絶対に子供のところへ行ってしまうという確信だ。
 来た時とは逆方面の電車に乗る。空いた電車のドアの脇に陣取って、面白くもなんともない窓外の景色を眺めた。おとなしくUターンするのは虚しすぎるので寄り道でもして帰りたかったが、行く当てがない。こんな時無趣味は良くないなと思う。他に没頭できることがあれば、自分の感情を他人に委ねなくて済むのに。
 洗濯をして、机の上を片付けて、爪を切って――面倒くさい作業ではあるがこなせばそれなりの達成感を得られるから少しだけ楽しみだったスケジュールももう、遂行する気をなくしている。ひとたびカレーを食べたいと思ったら舌がそれしか求めなくなるように、泉水さんに会いたくて、泉水さんにしか会いたくない。
 弱冷房に冷やされた窓ガラスにこつんと額をぶつけながら、本気で思う。子供なんて消えてなくなればいい。あの人が生涯の伴侶に選んだ女とあの人の遺伝子を半々に受け継いで、あの人に似た笑顔をして、あの人の愛情を無条件に受けられる存在なんて。手を繋ぐだけで本当に幸せで、寿命が縮まるんじゃないかと思うくらい鼓動が速くなる、切実に泉水さんのことが欲しい俺に譲れよ。
 俺がこんなに醜い人間だなんて、俺は知らなかった、泉水さん。

 夜中に電話があった。缶ビールのロング缶を二本空けてリビングの床でまどろんでいた俺は、着信音を聞いた瞬間がばっと身体を起こし、その拍子に強烈な吐き気を催してその場で吐いた。固体を口にしていなかったので酒臭いばかりの吐瀉物がカーペットに広がる。着信音は随分長く鳴っていたようだがいつの間にか途絶えていて、俺は汚れた床に突っ伏して「さいあくだ」と呟いた。すさまじく胸焼けがした。
 キッチンで口だけゆすぎ、後始末をそっちのけにしてシンクに凭れながら折り返すと、幸いすぐに出てくれた。
「もしもし、泉水さん、ごめん」
『いや、こちらこそ。もう寝てたんでしょ?』
 泉水さんの声はいつも微笑んでいる。耳から虜にされてしまう。
「ううん。トイレ行ってました」
『そう。柊太、なんでもなかったよ。すぐに熱下がった』
「良かった」
 今度は本音でそう言った。泉水さんの小さな王子様が無事で安堵した。だって柊太くんは泉水さんの息子だから、会ったことはないけど俺にとっても大切な子だ。どっちの感情も本当、だからタチが悪い。
『中途半端に放り出してしまって本当にごめん。再来週の日曜はバイト休みだったよね? 予定は空いてる?』
「うん」
『何がしたい? 行きたいところとか、食べたいものとか、なんでもいいよ』
 じゃあ、抱いてよ、泉水さん。
「大袈裟ですよ。そんなに一生懸命埋め合わせしてもらうようなことじゃないです」
『でも、俺が電話してる時すごく傷ついた顔してたから』
「…してないです」
 気付かないで、と思う。気付けよ、と思う。電話中にさりげなく俺の表情を窺ってくれていたことが嬉しくて、なのに本当に欲しいものは察してくれない――あるいは知らないふりをしている――ところが残酷だと思う。ごんごんと低音が響くように頭が痛む。弱いのに二本も飲むんじゃなかった。熱を出すよりたぶん辛い。
「じゃあ、お願いしてもいいですか」
『もちろん。なに?』
「今日、俺のこと考えながら眠ってください。それで俺の夢見てください、絶対に」
『…わかった、がんばる』
 声を上げて笑ってしまった。いいよ、と安請け合いするのでもなく、ちょっと無理、と笑い飛ばすのでもなく、努力の姿勢を示すところが泉水さんらしい。リビングのものより暗いキッチンの蛍光灯の下で、自分が明るい声を出せたことにほっとした。
「じゃあおやすみなさい」
『おやすみ。電話折り返してくれてありがとう』
「こちらこそ電話ありがとう」
『きみも俺の夢を見てよ』
「…はは。がんばります」
 色っぽい意味なんて少しもないと解っているのに、やらしい台詞に聞こえて困りながら電話を切った。泉水さんが出てきたらたぶん夢精しちゃうよ俺。
 「ははは」ともう一度声を出して笑ったら途端に頭痛が酷くなって泣きたくなった。尻の下にある薄汚れたキッチンマットを握り締めて、再来週の日曜日どこに連れて行ってもらおうか、と考える。大人だから行きたいところになんて自分で行けるのに、泉水さんに連れて行ってもらわないとどこにも行けないような気分でいる。
 もうどうしようもない。俺はあなたを好きになってしまった。

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