好きになってしまった

 風呂上がりに下着姿で髪を乾かしていたら携帯が鳴った。着信音で誰だかわかる。そこら辺に放り出してあったシャツとジーンズを素早く身につけて、家の鍵とICカードだけ引っ掴んで玄関に向かいながら電話に出た。
「もしもし、泉水さん」
『もしもし。これからちょっと会える?』
「うん。どこに行けばいい?」
『ありがとう。成城学園前に』
「わかった、じゃあ10分くらい」
 話しながら鍵を締めて、アパートの階段を一段飛ばしで駆け降りた。うっすらと湿ったTシャツが夏の風にぬるく冷やされて気持ちいい。今日はバイトが休みなので昼前まで爆睡して、起きてから贅沢に1時間くらいかけて風呂に入ったところだった。これからしようと決めていた細々としたこと――溜まった洗濯をする、机の上を片づける、爪を切る、ドラマを見る、洗濯物をたたむ――が綺麗に頭の中から飛んで行って、代わりに泉水さんでいっぱいになる。

 泉水さんとは、カフェでのバイト中にご飯に誘われたのがきっかけでたまに会うようになった。
 下北沢のごみごみとした、統一感は無いが清潔感はそれなりにある通りの一角のビルの2階にあるカフェは、大勢で囲める丸テーブルや2人用のテーブル席があると思えば小上がりの座敷席があり、レジの奥には雑多なジャンルの本・雑誌・CDを販売していたりする。お洒落に傾倒しきらずアットホームにもなりきれていないような和洋折衷の中途半端な雰囲気で、その捉えどころのないところを気に入って働き始めた。サブカルの聖地と言われる土地柄もあってか、お客もなんとなく捉えどころのない人が多い。泉水さんもまた、不思議な人だった。いつも柔らかい笑顔を湛えていて、限りなくユニセックスな雰囲気。
 近くの会社の営業マンか何かなのか、泉水さんは平日のランチタイムに週1、2回スーツ姿で一人で来店した。服も持ち物もさして高そうではなく、でも見惚れてしまうほど姿勢が良くて所作の丁寧な人だった。初めて見た日、「姿勢が綺麗ですね」としみじみ話しかけたら、「ありがとう。学生時代剣道をやっていて」と歯切れのいい喋り方で答えてくれた。
 ある日、ランチのタコライスを食べ終えた泉水さんが鞄を持って席を立ったのでレジに向かうと、おもむろに名刺を渡された。
「よかったら今度ごはんを食べに行こう」
「はい」
 一瞬も躊躇わずに頷いたら泉水さんは笑った。
 隣駅の住所の会社名が入った名刺には、泉水俊哉という名前の下に、プライベート携帯の電話番号が美しい字で記されていた。

 泉水さんと俺は恋人ではない。
 あれから何度も食事をし、お酒を飲み、たまに土曜日に水族館や美術館に連れて行ってもらうことがあるが、恋人ではない。
 泉水さんには子供がいる。今年5歳になる柊太くん。左手薬指の指輪には最初から気付いていたけれど、奥さんは随分前に亡くなったのだそうだ。今は泉水さんはご両親と一緒に住んでいて、柊太くんから見たおばあちゃんに柊太くんの面倒を見てもらっているという。溌剌とした気持ちの若い人で、柊太くんを色んな所へ連れて行ってくれると言っていた。
 泉水さんは柊太くんをとても可愛がっているようだったが、たぶん四六時中一緒にいるのは窮屈なのだろう。月に二、三回は俺に電話をかけてきて、泉水さんの仕事が終わった後に大体は小田急線沿い――下北沢だったり新宿だったり――で落ち合った。泉水さんは俺に財布を出させようとしない。帰りは必ずタクシー代をくれる。彼女みたいな扱い。
 二人きりの時、たまに泉水さんの方から手を繋ぐが、キスはしない。肉体関係だってないから身体目当てでないのは確かで、じゃあこの関係はなんなんだろう。
 疑問に思いはしても直接質問をぶつけはしない。くっきりとした境界線を引いてはいけないものなのだ。曖昧でぼやけて溶け合って、誰でも受け入れてくれるからいいのだ。バイト先のカフェみたいに。今まで関係を持ってきた恋人もどきたちみたいに。
 今までと一つ違うところは、と改札を通り抜けながら思う。
 俺が本気で泉水さんを好きというところだ。

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