stomaco al lupo

 12歳の時、父親の浮気が発覚した。
 正確にはそれ以前にも浮気はあったのだが、その時露見した相手が最悪だった。よりによって母がイタリアで一番親しくしていた近所の女性だったのだ。
 思い立ったら即行動の母は「イタリア男なんて最低」と吐き捨てて即離婚、即梨音の手を引いて日本に帰国した。本音を言えば最低な父と一緒でいいからイタリアに残りたかったが、そんなことを言ったら「あんたも所詮イタリア人なのね」と泣かれることが目に見えていた。
 それまで日本は梨音にとっては年に一回程度行く旅行先だった。母方の祖父母と会話やメールのやりとりができるくらいの日本語は教わっていたので言語の壁はそう高くはなかったが、なまじ喋れて日本語名を使っていた分、通い出した公立中学ではイントネーションが変だの目の色が変だのといじめられ、元々内気だった性格は急速に増長した。
 徐々に不登校になった自分に対して母は取り立てて頓着せず、「高校くらいは出なさいよ」と呑気に構えていた。良くも悪くもマイペースな人なのだ。せめて一片でもこの奔放な性格が似てくれたら良かったのにと思う。母は日本人にしては色素は薄いが黒目だ。青い目は劣性遺伝だと理科の勉強をしていて知ったので聞いてみたら、亡くなった母の祖父が金髪碧眼のアメリカ人だったらしい。彼女にはアメリカ人の豪胆さが遺伝しているのかもしれない。アメリカの事はよく知らないが。
 引きこもって何をしていたかというと、母に与えられた通信学習を真面目にこなしつつ、空いた時間には全てネットで買った漫画を夢中で読んでいた。イタリアにいた頃から日本の漫画やアニメは好んで見ていたが、どちらかというとサッカーの中継を観る方が好きだった。こちらに来てからのめりこむようにハマったのは、まあ自分でも解っているが現実逃避だろう。ややこしくない、頭を空っぽにして読める爽快な冒険モノや喧嘩モノや少女漫画が好きだった。
 殆ど足を運ばないまま中学を卒業すると、高校大学一貫の私立高に入学した。三年間日本人といえば母くらいとしか会話しなかったので(イタリアの友人とはちょこちょこスカイプで近況報告をした)日本語は正直さほど上達していない筈だったが、自分を見る周りの目の方は変わっていた。特に女子。
 『イタリア語ペラペラとかカッコイイ』らしい。
 『時々日本語出てこないのがかわいい』らしい。
 『ハーフ羨ましい』らしい。『イケメン』らしい。『青い目きれい』らしい。
 知るかよ、Stronzo(クソが)!!
 …とはこの性格で言える筈もなく、やや遠巻きに囁かれる言葉を無視したり曖昧に流し続けて約3年。
 かっこいいとかイケメンっていうのはこういう人のことを言うんだよ、と、運転席に座る希男を見ながらしみじみ思う。漫画の世界から飛び出してきたヒーローみたいだ。
「ここだよなホテル」
 ホテルの目の前につけてドアを開け、後部座席に置いてあったキャリーバッグを手渡してくれる。「ありがとうございました」とあたふた頭を下げてから顔を上げたら、伊達眼鏡が大幅にずれて鼻先に引っかかった。希男がふと笑った。
「あ、お前目ぇ青いんだ。さっき暗かったからよくわかんなかったわ。きれいな」
 覗いた歯は日焼けした肌と対照的に白かった。きゅん、と再度胸が鳴いた。じゃな、とあっさり言って運転席に乗り込む希男に向かって思わず声を上げていた。
「あの! また会ってくれますか!」
 希男は助手席側の窓からこちらを見ながらきょとんとした顔をした。
「べっつにいいけど。毎日酒屋にいるし、来れば」
 決して歓迎している口ぶりではなかったが、拒絶もされなかった。変なヤツと思われたかもしれないが別にいい。「ありがとうございます!」と頭を下げている間にバンは走り去って行った。
 顔を上げて頬を手で包み込む。赤くなっていないか心配だった。

 翌日も母とは別行動を取った。押し上げで落ち合う時間だけ決めて、荷物は母に持って行ってもらいソラマチの近くの手荷物預かり所に預けて貰うことにした。危うく強奪されそうになった事は心配を掛けそうなので話していない。
 バンに載っていた住所を大体覚えていたし、ネットで検索したら浅草にある佐藤酒店の地図はすぐに出て来た。
 祭りのポスターが貼られた自動ドアが開くと、ティロリンティロリン、と来客を知らせるチャイムらしき音が鳴った。店内はコンビニより少し広いくらいの大きさだった。目につくのは日本酒と思しき瓶(日本酒と焼酎の区別が梨音にはつかない)だが、奥のガラスケースと木棚の中にはワインも多数収まっている。
「らっしゃいませー…あ」
 店の奥から顔を覗かせた希男が、梨音を認めてちょっと眉間に皺を寄せた。
「こんにちは」
 ぺこりと会釈するとぞんざいに片手を挙げる。
「こ、これ、昨日のお礼です。つまらないものですが」
 紙袋を差し出すと、「和菓子かよ。その顔で」と笑われた。からりとした笑い声で、不思議と嫌な気持ちはしない。希男はレジの上に箱を取り出して無造作に包み紙を破いた。
「亀十のどら焼きじゃん。旨えよな。お前あんこ好き?」
「はい、あまり食べませんけど」
「じゃあ食ってけよ。親父ー、店番代わって」
「え、あ、いいんですか」
 レジの奥ののれんをくぐって、奥からのそのそと白髪の男性が出て来た。希男と同じ前掛けをつけている。不機嫌そうな顔つきでじろりと眺められて委縮しつつ頭を下げる。希男が「亀十のどら焼きくれたから後で食べろな」と告げ、手招きをしてのれんをくぐった。肩を縮めつつ後に従う。
 のれんの後ろには二畳の小さなスペースがあって、小さな卓袱台とくたびれた座布団が二つ置いてあり、壁際にはそれだけ場違いに新しい薄型テレビが置いてあった。「靴脱げよ」と言いつつ希男はスニーカーを放り出して畳に上がり、腰の位置より背の低い小さな冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出してコップに注いでくれた。
 箱から素手でどら焼きを取り、向かい合って食べる。お礼だけして帰ろうと思っていたので、想定外の事態にものすごく緊張した。ドラヤキといえばドラえもんが食べているまん丸で真ん中がふっくら盛り上がっているお菓子の印象が強かったが、母が職場への土産にと買っていたので便乗して買ったどら焼きは、ぺたんこで不規則な形をしていた。
 希男は大きな口でどらやきにかぶりついて咀嚼し、呑み込んでから「浅草どうだよ」と口を開いた。
「…あ…あの、僕、母の付き添いで来ていて…浅草は観てないです」
 浅草の住人に言ったら怒られるかな、と思ったが、希男は特に気を悪くした風もなく頷いた。
「まあ観るとこねえしな、別に。景色が綺麗とかならいいけどよ、寺とか興味ねえから飽きもせずに観光客が来んの理解できねえ」
「…はあ…」
「あ、でもあれだぜ、どじょうは旨いぜ。食った事ある? どじょう」
「ドジョウ…」
 ってなんだっけ、というレベルだ。思い出そうとしながらどら焼きを齧っていると、おもむろに眼鏡の縁を掴まれた。耳にひっかけつつ強引にむしりとられ、スチャッと希男がかける。思わず「ほわっ」とかいう声が出そうになった。黒縁眼鏡、か、かっこいい。特にメガネモエゾクセイがある訳ではないが、野性的な希男の雰囲気に理知的なイメージの眼鏡を足すとすごくいい。
「なんだこれ、度入ってねえじゃん。お洒落眼鏡か」
「お洒落な訳じゃ…目の色、目立ちたくないので」
「ああ? 青いから? もったいねえ。でもまあ眼鏡自体は似合ってるからいいんじゃね」
 さらりと褒められて眼鏡を返される。「希男さんこそ似合ってます」と言いたかったが照れてしまって口に出せなかった。掛け直している間じーっと顔を眺められ、顔に血が昇るのを感じた。
「食い行くか?」
「…え?」
 『に』が省略された言葉を一瞬理解できなかった。
「どじょう。そうだな、8時過ぎには上がれっからそれからになるけど」
 行きたい、
 と反射的に思ったが、確か19時半頃の新幹線に乗って帰る予定になっている筈だ。チケットも母が買っておいてくれている。
 時間が許さないので無理だ…と言わなくてはいけなかったが、断る言葉を発したくない。折角誘ってくれているのに、と唇を噛むと、「んだよ」と希男が表情を不機嫌そうに歪めた。そういう顔をすると先ほどすれ違った父親とそっくりだ。
「行きたくねえの」
「い」今度こそ反射的に答えていた。「行きたいです」
「決まりな。幼馴染が料理人やってる店があるからよ、予約しとくわ」
 間髪入れずに宣言されたことによって、やっぱり新幹線が…とは言い出せなくなり、梨音は黙ってこくこくと頷いた。


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