stomaco al lupo

 漫画から顔を上げた時、ここどこだっけ、と一瞬戸惑った。
 目の前には電源のついていないデスクトップ。狭苦しい一人掛けのチェア。…ああ、漫画喫茶だ。浅草の。
 唐突に「スカイツリーを観に行きたい」と言い出した母親に付き合って愛知から東京へ出て来たはいいが、土曜の昼の浅草、雷門前は観光客でごったがえしており、一目見ただけでげんなりした。昔はそうでもなかったように思うが、引きこもるようになってからすっかり人混みが苦手になってしまった。
 ホテルのチェックインの時間はまだだったし、漫喫で時間つぶしてる、と告げたら母親は「つまらない子ね」と口を尖らせはしたが、フットワークの軽い彼女は特に文句を言うでもなく「じゃあ荷物預かっておいて」とキャリーバッグを預けて意気揚々と仲見世通りの人の群れの中に突撃して行った。こんな風に一人で気軽に訪れたイタリアで父親と出会ったんだろうな、と思った。
 携帯で時間を確認するともう19時を回っていた。母から『赤ちょうちんで引っかけて帰るから先にチェックインしててね』とホテルの地図がメールで送られて来ていたので、21巻分読み終えた少女漫画を棚に戻して漫画喫茶を出た。今日は浅草観光に充て、明日スカイツリーに登ってから足を伸ばして東京タワーを見て帰る予定になっているらしい。
 駅前を離れ、まずは地図の指示通り浅草寺の方面に歩き出すと、昼間とは打って変わった人気のなさと暗さに驚いた。そうだ、観光地の夜は早いのだ。
 静まり返った街にキャリーバッグのタイヤがガラガラゴロゴロと立てる音だけが響く。この中には親子二人分の着替えとちょっとした荷物が入っている。一泊するだけなのだからリュックに着替えだけ詰めて来てしまえば良かったのだが、移動中や宿で読む用の漫画を持ち歩きたいと思ってしまうのは性分だ。今日は何回も読み返している『ろくでなしBLUES』の1、2巻が収まっている。
 道、こっちで合ってるのかな…ふと不安になって立ち止まって地図を確認し、店じまいした洋服屋や土産物屋の並ぶ景色をきょろきょろと見渡しながら歩いていると、「ハロー!」と背後から声がした。自分ではないだろうと無視して歩き続けていたら、若い二人組が前に回り込んで来た。驚いて立ち止まる。目深にキャップをかぶった男とサングラスをかけた男。にこにこと満面の笑みをたたえている。
「キャナイヘルプユー?」
 カタカナにした英語をそのまま読み上げたようなへたくそな発音で話しかけられ、梨音は当惑しながら首を振った。
「…いらないです」
「おっ、日本語うまいねにーちゃん」
 外国人に見られてるのか…と内心で吐息する。半分イタリアの血が流れているので仕方ないのだが。幼少時は亜麻色だった髪の毛は成長につれてどんどん色が変わって今では黒に近い茶色になり、自分では日本人に近づいたと思っているのだが、顔の造りはやはり南欧に寄っているらしい。灰色に近い青色の目は日本の中学に通うようになって散々いじめられてからコンプレックスになって、伊達眼鏡をかけて少しでも誤魔化すようにしている。
「俺ら、区の青年ボランティアなんだよ。荷物重そうだね。持つよ」
 男はやけに明るい調子で言いながらキャリーバッグを指差した。首を大きく振って固辞する。
「いらないです、持てます」
「いいからいいから」
 片手で握って後ろに回していたキャリーバッグの持ち手を強引に奪われそうになり、慌てて両手で掴み直した。周囲に歩行者はいない。嫌な感じがする。横目で警戒するような視線を向けながら横をすり抜けようとすると、張り付けたような笑顔のまま、キャップの男がポケットに手を入れた。
「いいから貸せって、な? にーちゃん」
 街灯を反射して手元がちらりと光る。ナイフ――。一気に身体が竦み上がった。視線が縫いとめられたように、車道から隠す角度で構えられた武器に釘付けになる。サングラスの男が再度持ち手に手を伸ばした時、
「何やってんだよ」
 横から伸びて来た手がふいにその腕を握った。男二人と同時に梨音もハッと振り向いた。黒髪を短く刈り込んだガタイの良い青年が立っていた。腰に巻いた藍色の前掛けに『佐藤酒店』と染め抜かれているのが見てとれた。キャップの男はナイフをすっと身体の後ろに隠し、強張った笑みを浮かべながら明るい声で応じた。
「荷物持ってあげようとしてたんだよ」
 なあ? と同意を求めるようにこちらを見る。違う、絶対に違う、と思うのだが声が出せず、ただキャリーバッグを抱え持って恐る恐る距離をとった。酒屋の前掛けをつけた青年はそんな梨音をちらりと見、眉間に皺を寄せてサングラスの男の胸倉を掴んだ。
「嘘吐け。観光客狙いの窃盗犯だろ」
「…チッ」
 焦ったような舌打ちをして、キャップが片手を持ち上げてナイフを向けた。青年はそれを見て顔色も変えずに二、三歩退き、唐突に前掛けのポケットに手を突っ込むと何かをキャップの顔面に投げつけた。「わっ」とキャップが怯んだ隙に青年は踏み切って飛び蹴りを入れた。地面にちゃりんちゃりんと音を立てて散ったのは小銭だ。
 仰向けに地面に倒れたキャップが手放したナイフを蹴って遠ざけ、脇腹に3発ほど蹴りを入れると、キャップは身体をくの字に追って咳き込んだ後動かなくなった。振り返った姿からは静かな殺気が立ち昇っていた。ごくりと息を呑んだサングラスがもたもたと懐に手を入れた時には顔面に拳が入っており、成人男性の身体が派手に吹っ飛んだ。股間に踵を落とすと「ぐばぁっ」のような声にならない悲鳴が上がり、股間を押さえてのたうちまわる。
 男二人が起き上がる気配がないのを確認してから青年はナイフに歩み寄って拾い上げ、顔をしかめて放り出した。
「んだよオモチャかよクソチンピラが。今度見かけたら半殺しにすっからな」
 梨音はその一部始終を見終えて、思わずほうっと溜息をついた。
 か、かっこいい。
 見惚れていてからハッとして「け、警察!」と携帯を取り出すと、青年は小銭を拾い集めながら「いいよ面倒くせえ」と顔をしかめた。
「調書とかですんげー時間とられるぞ?」
「でも」
「二人がかりでナイフちらつかせてしょぼい盗みやるような輩だぜ。これで懲りんだろ。お前無事だろ?」
「はい、僕はもちろん。あの、おかげさまで」
 たどたどしく付け足すと青年はまじまじと顔を覗き込んできて、ふいに頭をぐしゃぐしゃと撫でられた。
「なんだ、まだガキじゃん。怖かったな」
 子供をあやすように言われて、反射的に泣きそうになりながら首を振る。あなたが助けに来てくれたから、全然。
 青年は「どっかにホテル取ってんの? 送ってやる」と傍に停めたバンを顎で示した。正直言ってこれ以上一人で夜道を歩くのが怖かったので、有難く乗せて貰う事にした。キャリーバッグを抱えたまま歩いて行こうとすると何も言わずに腕が伸びてきて取り上げられ、軽々と運んでくれた。白いシャツから伸びた、筋肉のついた腕にきゅんとする。バンには前掛けと同じく『佐藤酒店』という文字が入っていた。配達の途中に通り掛かったのだという。
「お前ナニ人?」
 携帯でホテルまでの地図を確認してから走り出し、青年はぞんざいな口調で聞いてきた。ハンドルを握る横顔をチラチラ盗み見る。ゴツゴツした輪郭がかっこいい。二十代前半だろうか、ぱっと見強面だが子犬みたいな黒目がちの目をしている。
「国籍は、日本とイタリアです。今は愛知に住んでます」
「何それ。国籍って二つもとれんのかよ」
「母が日本人で、父がイタリア人で…12歳までイタリアにいましたけど、中学から日本です」
 いずれにしろ22歳までの間に国籍はどちらかを選択しなければならない。母親を一人日本に残す訳にはいかないし、日本人として生きて行くことになるだろう。
「へー。名前は?」
「えー…神戸梨音です」
 日本名はあまり気に入っていない。12年間イタリア名だったので高校3年生になった今でも違和感があるし、何より字面が女子みたいだとずっとからかわれてきた。
「へー。かっけえ名前」
「…本当はLionelloです。日本名は、Lionの部分に漢字を当てただけです」
「りおねっろ」
 舌がもつれたような発音で青年は復唱し、「言いにきぃ。リオンの方がいいな」とあっさり断じた。
「俺は佐藤希男な」
「Leo?」
「そこで切るんじゃねえよ、さとう・まれお」
 なんだ、と思った。レオという名前はとても彼にしっくりくる気がしたのに。弱っちい自分よりもよほど、『ライオン』を表す名が。

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