隣の隣の隣の人の

「かんぱーい」
 ウーロン茶の入ったマグカップをぶつけあう。斉木さんは下戸だというので俺も合わせてノンアルコール。二人の間に挟まれた鍋は、あたたかそうな湯気を盛んに吐き出している。
 クロを介さずに一緒に過ごすのは初めてだった。会社で上司が釣った鱈をもらったのでと晩ご飯に誘ったら快く応じてくれたので、初めて家に招き入れた――といっても数歩で行き来できる距離に住んでいるし間取りも同じな筈なので新鮮味はないと思うが。鱈はもちろんクロにもお裾分けした。魚を与えるのは初めてらしかったが、クロは気に入ってくれたようでぺろりと食べていた。
 友人と飯、となると必ず酒がついてくるので、誰かと純粋にご飯を食べる、というのは随分久しぶりだ。実を言うと俺は素面で自分の家にいる斉木さんと向き合う事に若干の緊張を覚えていた。持ち物が多いタイプではないし週末には掃除をするようにしているので部屋はすっきりと片付いているが、それでも斉木さんにどう思われるだろうとそわそわして落ち着かない。少し前まで付き合っていた彼女を家に呼んだ時もこんなに変な緊張はしなかったのに。
 晩ご飯に誘った時点で断られるんじゃないかと思っていた。いつも三人でつるんでいる友達同士がふと二人だけになると会話がなくなるのと同じように、クロを含めて俺たちの関係が成り立っている気がしていたし、斉木さんはあまり他人と深く関わりたがらないように見えたから。でも実際は斉木さんは少し驚いたような顔をした後に「ありがとう」とだけ言った。ありがとう、でも遠慮させてもらう、と続くのかと思ったらそれきりで言葉が途切れたので、ああ来てくれるんだ、とじわじわと嬉しくなった。
「普段は自炊されてるんですか?」
 斉木さん用の取り皿に鍋の中身を盛りながら尋ねる。斉木さんは「自分でやるよ」とも「すみません」とも言わずに委ねてくれているので、気を遣われるより却って心地良い。
「いや、カップ麺とかレトルトばっかり。一志くんはえらいよ、若いのに」
「俺もほんと簡単なもんしか作りませんよ。はい、どうぞ」
「ありがとう。おいしそう」
 同じ五文字の言葉を、斉木さんは全然違うトーンで言う。その時ふっと、何の前触れもなく、「あいしてるはどういう風にいうんだろう」という考えが俺の中に飛び込んできた。そんな甘い言葉は、目の前のあっさりと素朴な年上の男性の口からは出てきそうもないのに。ウーロン茶を飲んでいる筈なのに俺は顔の火照りを感じて、「少し換気しますね」と断ってベランダに続く窓を細く開けた。
 流れ込んできた外の空気は寂しくなるくらいに冷たかった。クロは斉木さん家のメーターボックスの中に敷かれた毛布の上で、どんな気持ちで丸まってるんだろう。家主の立てる音に耳をそばだてながら眠りに落ちるのかもしれない。
 自分自身は壁を隔てた隣りの部屋の住人の気配を感じる度に落ち着かないくせに、そんな猫の生活を想像した時、きっと幸せなんだろうなと思った。

 近所のスーパーでおでんセットが安かった。
 大根はこの間買ったのがあるし、卵もある。あとははんぺんだけ買い足せばいい具合に嵩増しができるだろうと買い物カゴに放り込んで、『蛍の光』が流れる中会計を済ませた。住宅街の入口に位置するスーパーは安いのだが閉店時間が早く、いつもバタバタする羽目になる。
 また斉木さんを誘ってみよう。今日はクロに分けてやれそうな物はないが。斉木さんはどの具が好きなんだろう。ビニール袋をガサガサ言わせながら駐輪場の裏を覗くと、しゃがみこんでいる人影があった。
「こんばんは」
 軽く息を弾ませながら声を掛けると、斉木さんはゆっくりと顔を上げた。それは確かに斉木さんなのだが、一瞬全然知らない人かと思ってドキリとした。じいっとこちらを見つめてくる顔は奇妙に強張って、感情がからっぽになったような目をしていた。
 まさか、と一気に心臓が冷えるような予感が走った。咄嗟に手元を見ると土にまみれたスプーンを握りしめていて、素手も使ったらしく爪の中にまで土が入って指先は真っ黒になっていた。
「今、公園に埋めてきた」
 なにを。とは言われなくてもわかる。
「たぶん毒餌を食べさせられた。傷はなくて泡を吹いて死んでたから…」
 背筋をさっと悪寒が這い上る。俺はビニール袋を手放してしゃがみこんだ。当然そこに丸くて小さな背中はない。
「前から、アパートの中に猫嫌いの人がいて、石を投げられたりしていたみたいで、少しケガをしていたことがあって」
 斉木さんの視線がふらふらと揺れて、俺は引きずられて動揺しそうになるのを必死にこらえた。今は俺が落ち着いてなくちゃいけない。クロとの付き合いが長いのも、そのクロの最期の姿を見つけたのも、埋葬したのも、この人の方なんだから。地面がやわらかかったとしても、スプーンでそれなりの深さを掘るのは相当大変だっただろう。
「確かにここのアパートはペット禁止だけど。でも生まれた命は命だから、死ぬまでは面倒を見てやろうと思って、妊娠しないように手術して、生き残った一匹だけはって…」
 大きな瞳にたたえられていた涙が呆気なく飽和した。最初の一滴が頬を伝うと、同じ筋を辿って次から次へと溢れ出す。こんな風に臆面もなく泣く大人を見るのは初めてだった。笑った時に下がる眉尻は泣くときも同じ角度に下がっていて、だけどこんなにも伝わってくる感情は違うのか。
「…ひどい」
「斉木さん」
「ひどいだろ、こんなのは」
「落ち着いて」
 ボロボロと涙を零してはそれを土のついた指で拭うので、斉木さんの顔はみるみる土に汚れた。俺は斉木さんの手首を握って止めて、背中を支えて立たせた。触れたのはこれが初めてだった。斉木さんの骨ばった身体は小刻みに震えていた。
 ひとりにしておくのが心配だったから、自分の部屋に連れ帰った。
 小さい子供にするように、汚れた手と顔を濡れタオルで拭って、土の付いた服を着替えさせて、あたたかいココアを飲ませて、全てに呆然と従う年上の男性を抱き締めた。それ以外にどうやって慰めたらいいのかわからなかった。慰めようとすること自体がおこがましいのか。可愛がっていた生き物を亡くした喪失感を、簡単に埋められるはずがない。それでも俺が埋めたいと思ってしまった。悪意をもって毒餌を与えた人間の存在を忘れさせてしまいたいと思った。
 変わって欲しくない。この人の心に陰が差すようなことがあって欲しくない。汚すよりも綺麗に保つことの方がずっと難しいという事実がもどかしい。
 ソファーに並んで座ってぎゅうっと抱き締めると、斉木さんはおそるおそる腕を回し返してきた。なんとなく体温の低そうな斉木さんの温かさを感じる。そんなつもりじゃなかったのに、密着しているとドキドキしてきた。あー、すぐ手を出す男の言い訳みたいだ。自分本位だな、人間って。いとおしむ、という言葉に『かわいがる』という意味と『かわいそうに思う』という意味を含ませた昔の人は、きっと今の俺と同じような気持ちだったんだろう。
 剥き出しの首に、頬に、唇を寄せる。肌に口づけても斉木さんは嫌がらなかったので、ついに唇に触れた。かさついた唇に軽く押し付けるだけのキスをして離れると、まだ表面に涙の膜を張ったままの斉木さんの目がきらきらと家の照明の明かりを反射しているのが見えた。
「なんでキスするの」
 何にも他意のない、純粋な疑問のトーンで斉木さんは言った。不思議な気持ちだった。大人がする事を何も知らない筈はないのに、どんなに覗き込んでも欲や狡さを見せない目をしている。
「ごめんなさい。こんな時に言うことじゃないのに。好きです」
 斉木さんは目を伏せて、何も答えずにじっとしていた。そのまま何分か沈黙が続いて、俺がもう一度謝ろうと口を開きかけた時、
「一志くん、クロって名前つけてくれてありがとう」
 囁くように告げられて、俺は言いかけた言葉を飲んで「はい」と答えた。伝えた事に対して何か明確なリアクションを求めていた訳ではなかったし、好きだという気持ちだけで人の心を救えると思うほど子供ではなかったので、その言葉だけで勝手に満たされた。俺がいなければきっと今頃斉木さんは名前の無い猫をひとりで悼んでいた。そうならなかっただけで充分だ。買い溜めてあるのだろうキャットフードを処分する時、メーターボックスの毛布を片づける時、公園で花を手向ける時、傍にいられればいいなと思った。

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