サニーサイドエフェクト
金曜日の夜というものが嫌いだ。
本当に心底嫌いだ。
ウィルの住むスタジオフラットは地下鉄の駅から歩いて15分の位置にある。一応バスもあるのだが職業がプログラマーで勤務中は座りどおしなので、通勤時くらいしか運動する機会がなく渋々歩いて通っている。風呂トイレキッチンが共同でなく大家や他の住人となるべく顔を合わせなくていいという条件で選んだこじんまりした家で、あてがわれている部屋は地下にあり、初老の男性の大家が犬一匹とその上の1階に住んでいる。建物のシェア相手は以上。玄関は大家とは別で裏庭を通り家に入る構造になっていてなかなか気に入っていた。
しかし利用している駅というのが大学生が多い上柄のいい地区ではなく(代わりに家賃が安いのだが)、その点だけは本当に忌まわしい。朝は早い時間帯に乗れば通学時間とかぶらないので事足りるし平日夜なら通常は空いているのだが、週末の夜だけは飲み会帰りの学生や大人達とぶつかる。それでも終業後は本気で一秒でも早く家に帰り着きたいので電車に乗るのだが、金曜は世間のテンションと比例して死にたい気持ちが増す日だった。
それでもまあ邪魔な場所に固まって騒がしく酒臭くたまに周りも見ずにぶつかってきてすみませーんと馬鹿みたいにでかい声で謝ってくる学生はまだ無害なのだ。ひきつった顔で片手を上げてすり抜ければ済む話だ。問題はいい歳をした成人男性どもだ。
その日、電車を降りがてら首にぐるぐるとマフラーを巻き付けて出口に向かって歩き出したところで、「そこのおにいさん」という声が聞こえた。聞こえないふりをして歩き続けるとひょいひょいと視界に男が割り込んできた。眉根を寄せた時背後で電車が発車する音がした。大人しく乗れよおい。
「無視しないでよおにいさん」
RPGで仲間を呼ぶ雑魚敵よろしくその男に加えて更に2人が寄ってきた。ウィルは目を合わせず徹底無視しその場を離れようとしたが囲まれる形になりたたらを踏む羽目になった。なぜか顔をしげしげと覗き込まれて酒臭さにのけぞる。
「やっぱり俳優だろ? ドラマで観た事ある、マシューなんとか」
「あ! 俺もわかった」
出てねえよ誰だよ。
「人違いです」
かけている黒縁眼鏡に向かって手を伸ばされたのを反射的に払いのけ、強引に離れようとした時、雑魚敵のひとりの膝がちょうどよくヒットして手の中から愛用しているレザーのブリーフケースが吹き飛んだ。3人はそれを気にした風もなく「なんてドラマだっけほら」「とりあえず写真撮ってくれる?」ととんでもない自己中心さで話を進めてきた。あー今すぐ全員塵と化せばいいのに。
なるべく目立たずに生きなるべくひっそりと早めに死にたいというのがウィリアム・ダルグリッシュの物心ついて以来の夢だ。だというのに絡まれる機会が異常に多いのはそういう星の下に生まれたと諦める他ないのだろうか。
「何が何でも人違いです」
横歩きで数歩距離をとって鞄に向かって屈みこんだとき、目の前で違う手がさっとそれを拾い上げた。驚いて顔を上げ――想定の位置より視点を上方修正した。でかい。ウィルも上背はある方なのだがそれ以上、2メートル近くある若い男が軽く汚れを払う仕草をしてから鞄を差し出してきた。ぽかんとしながら受け取ると、一瞬にこっと歯を覗かせて笑った男はその笑顔を口元だけに残して3人に視線を移した。
「まだ彼に何か用が?」
「…いや」
雑魚敵たちは怯んだ様子で男を見上げ、そそくさとホームの奥へと消えて行った。ウィルも間髪入れず「ありがとうございました」と述べてその場を立ち去ろうとしたが、「待って」と声がかかった。
「サインください」
「……………」
「冗談だって、睨まないで。確かに超ハンサムだけど俳優じゃないのはわかるよ」
つい振り向いて凝視したところで男はまたにこにこと人懐っこそうな顔で笑った。何歳か年下だろう、スーツ姿のウィルに対しダウンコートにチノパンというラフな出で立ちで、大型犬めいた雰囲気がある。そのゴールデンレトリーバー(仮)は続けて何を言うかと思えば、
「せっかくだし一緒にご飯食べない?」
と不自然な台詞をあたかも自然な誘いのように口にした。
瞬時に頭に過ぎったのは、これは新手の詐欺なのでは、という事だった。チンピラ役に絡まれているターゲットをヒーロー役が助け出し、気を許したところに怪しい商品を売りつけようとする。あるいはぼったくり飲食店に連れ込む、テロ組織にスカウトする、エトセトラエトセトラ。
口を開かずにいると「カモォオン」といういかにもアメリカ人っぽい強請りが続いた(ウィルはこの図々しい響きおよびそれと大体セットになる大仰な表情が嫌いだ)。一難去ってまた一難とはこのことをいうのだと思う。
「わかった」
断ってもしつこく付きまとわれそうな予感がして苦渋の思いで承諾すると、ゴールデンレトリーバーの表情が一瞬でぱっと明るくなった。慌てて「店は選ばせてくれ」と強い口調で言い足すとあっさり承諾を受けた。
「もちろん。おすすめのお店があるの?」
「いや…、……入ってみたかった店が」
嘘だった。単純に相手に選ばせるのが怖かったので何かあってもすぐに駅に逃げ込めるように地下鉄出口を出てすぐの寂れたカフェとパブの中間のような店に入った。煙草で黄色っぽく煤けたガラス扉のせいで中が窺えずはっきり言って相当入りにくい雰囲気の店で、毎日前を通り過ぎてはいたが入るのは初めてだった。2人がけのテーブル席とカウンター席4つという手狭な店内に先客は皆無、店員は主と思しきカリカリにやせた中年の女性だけで、無愛想を通り越して不機嫌極まりないという態度で奥の席へ通されたが、ダグは気にした風もなく「土地に根付いた店って感じだね」などとコメントした。
メニューは案外美味しそうなラインナップが揃っていた。ウィルはスモークサーモンとスクランブルエッグのベーグルサンドとコーヒーを、ゴールデンレトリーバーはドライトマトとオリーブの乗ったブリオッシュとグリルド・ハルーミと紅茶を頼んで店主が不機嫌そうにキッチンへ引っ込んだところで、ゴールデンレトリーバーはメッセジャーからシンプルな銀色の名刺入れを取り出した。
「ダグだ。名前は?」
差し出された名刺には『ダグラス・A・モブレー』とあった。アメリカに本拠を置く建設会社勤務らしい。ウィルはそれを着たままのコートのポケットにしまった。
「ダルグリッシュ」
「名前だよ」
「…ウィリアム」
「ウィル。よろしく」
苦手だ。とても。
やたら大きな手を軽く握って握手をしたところで、「実はずっと話をしてみたくて」とダグが弾んだ声で話し始めた。
「イギリスには仕事で来てるんだ。ロンドンの会社が橋脚の施工で世界で初めて取り入れる新工法を使ってるからあちこちの会社が勉強に来させてもらってる。初めて地下鉄に乗った日にウィルが同じ車両にいて、それから見掛けるたびに話しかけようかずっと迷ってたんだけど、携帯を集中して見てたから迷惑かもって勇気が出なくて」
正しく迷惑だ。携帯に集中していたのはTwitterのタイムラインかTumblrのダッシュボードを遡っていたのに間違いないので話しかけられて差支えのある作業ではないのだが精神的には大いに差支えがある。電車内でいきなり話しかけたらすぐ別の車両へ逃げただろう。というかずっと目をつけられてたのか? 思ったより事態がやばくないか? 確かにいかにもナード系な見た目をしている自覚はあるがそこまでカモになりそうか?
脳内でぐるぐると自問が行きかったが、ウィルはそれを表には出さず「そうですか」と無表情に答えるにとどめた。なるべく穏便にこの場を収め早く愛しの我が家に帰りたい。家に帰って新作ゲームの実況動画を観ることだけを楽しみに仕事を終わらせてきたのになんだって初対面のゴールデンレトリーバーとしょっぱい店で夕食を食べる事態になっているのか自分でもさっぱりわからない。
「何の仕事をしてるの?」
「…IT関係」
「ああ、そんな感じする。かっこいいな、俺はPCの前にじっとしてられないから図面引いたり書類作るのが苦手で」
ああ、そんな感じする。
ダグは料理が来るまでも来てからも次々と話題を繰り出してきた。だが土産は何がいいかと聞かれても国外に出たことがないのでアメリカ人にとって何が物珍しいのかぴんとこないし、美味しい飲食店はと聞かれてもせいぜいファーストフード店しかわからない。じゃあ一緒に美味しいお店開拓しようよと当然のような顔をして言われたが、当然のように断った。しょんぼりと眉尻を下げたダグはかと思えばまた勢い込んで次の話題を提示してくる。くるくるとよく表情の変わる男だ。
不幸中の幸いだが、料理とコーヒーは予期していたより格段に美味しかった。あまり外食はしないがまた個人的に来てもいいかもしれない。何が目的で誘われたのかは結局わからないが夕食は何事もなく終わりかけていた。ほっとしてダグがトイレに立った隙に携帯を開いて放置系ゲームをちょこちょこ進め、待ち受け画面に戻したところで、「それ飼い犬?」と明るい声で問いかけられてびくっと肩が跳ねた。トイレから出たのは気付いていたがまだ離れたところにいるから見えないと思ったのに視力が良いらしい。
「…子供の頃飼ってたやつだ。今は死んじゃった」
「残念だ」
席につきながらすとんと声のトーンを落としたダグは、おもむろに自分の携帯を取り出して写真を見せてきた。
「俺も犬を飼ってるんだ。今は実家に預けてるけど、ほら、ウェルシュ・テリア」
赤茶の毛がもじゃもじゃと生えたどこかぬいぐるみっぽい犬がカメラの方を向いて大人しくおすわりしている画像。「かわいいな」と思わず素直な感想を漏らすと、ダグは勢いこんで「じゃあ今度家に会いにおいでよ」と身を乗り出してきた。
「いやそこまでは好きじゃない」
ドン引きしながら答える。そもそも家ってアメリカだろ。珍しくもない犬種に国越えて会いに行く馬鹿がどこにいる。ダグは心底残念そうに唸ったが食い下がることはなく携帯をパンツのポケットにしまった。
自分から誘ったから自分で払う、とダグが言い張るので支払いは任せ(不機嫌な顔をした店主にダグはにこにこと「すごく美味しかったです、また来るよ」と約束していた)、じゃ、とそそくさと帰ろうとしたところで、「あ、送って行こうか」ととんでもない台詞が出た。
「いやいい」
絶対に家なんて知られたくない。若干後退りしながらきっぱり断ると、けれどダグはあっさりと頷いた。
「じゃあここで見送ってる。…最後にお願いがあるんだけど」
あ、出た。ここで怪しい事務所に連れ込まれるかなんらかの会合に出席させられるかノルマがあってこのアクセサリーを売らなきゃとか始まるんだ。
「また一緒にご飯を食べてくれる?」
結構です、と言う気満々で口を開いたが、予想外の言葉に反応が遅れた。代わりに「は?」と返す。じっとこちらの表情を窺っていたダグはふと爪先に視線を落とし、「もしよければ」と小さく言い添えた。
――そうか、こいつイギリス人の友達作って出張先をエンジョイしてる感出したいのか。
結論に達するとしっくりきた。きっと『せっかく来たからには』という意識があるのだ。距離が近くなったら一緒に写真を撮ってFacebookにアップ、という未来が見える。その自己満足のダシに使われるのはまっぴらご免だが、ウィルは「機会があれば」と当たり障りのない返しをしておいた。ダグは嬉しそうに何度も頷いた。
歩き出して随分離れたところでついてこられていないか確認のために振り向くと、別れた時と同じ場所に立ってこちらを見ていたダグが手を振って来た。手を振り返すことはしなかった。名刺は細かく破ってから街角のゴミ箱にすぐ捨てた。
まったく、訳のわからない相手と訳のわからない時間を過ごしてしまった。早くベッドに潜り込みたい。霧雨の降る中をマフラーに顔半分を埋めながら足早に帰った。そろそろ雪が降るだろうか。
翌日と翌々日の土日は仕事が休みで、その次の月曜から木曜までは何事もなく安息の地・自宅へ直帰できた。それでもうすっかりリフレッシュしてゴールデンレトリーバーのことは忘れていた。
金曜日の夜、電車を降りたところで、目の前のベンチにダグが座っていた。見逃すには図体がでかすぎる。驚いて立ち止まるとダグはまさにご主人を見つけた犬よろしくぱっと立ち上がり、「ウィル!」とにこにこしながら寄ってきた。
「今日予定はどう? ご飯食べない?」
「あ……あー……いや、今日はちょっと腹下しててだめだ」
まさか待たれているとは。さりげなく遠ざかりながら適当な嘘をでっちあげると、ダグは「そっか」と眉尻を下げた。
「今日寒いからね。お大事に。タクシーつかまえようか?」
「大丈夫」
「じゃあまた、」
「あの、もう待たないでもらえるかな」
この調子で日常的に待ち伏せされては敵わないと思って早口で遮ると、ダグは「なに?」とやわらかく聞き返し、それから遅れて理解したらしくふっと笑顔が陰った。それを見た瞬間「あ、いや」と反射的に声が出た。子供の夢を壊してしまったような気分になって。心なしか横を行く通行人にも責めるような目を向けられた気がした。
「…寒いし、先に店の中にいてくれていい」
そんなことを言う予定ではなかった。自分の気弱さが嫌になる。もごもごと口にした直後、ダグははにかみながらダウンの前をかきあわせる仕種をした。
「寒いのなんて平気だよ。でもありがとう、そうする。来週の金曜日同じ店で待ってるね、あったかくしておやすみ」
小さく手を振ったダグはどこへ行くのかと思えばホームのベンチに戻っていった。電車を待つらしい。てっきりここが滞在先の最寄駅なのかと思ったが違うのか。ということは先週は車内からウィルが酔っ払いに絡まれているのを見てわざわざ降りて来たらしい。
動機はともかく、害はなさそうだ。歩いて帰る間じっくり考えてそう結論を出した。もう1度くらいなら付き合ってやってもいいか。……どうせ他に遊ぶ相手もいない。
約束の日、前と同じ店に足を向けた。よく見ると表に『禁煙』とパリパリに日焼けした張り紙が掲示してあったが店内が明らかにヤニ焼けしているのはなんなのだろう。ドアを押し開けて入ると相変わらず不機嫌そうな女店主に無言で出迎えられた。ダグは前と同じ席でクリスピーベーコンと一緒にビールを飲んでいた。目が合うと相変わらずにこーっと顔全体で笑う。
「ここビールも置いてあった。ウィルはお酒飲むの?」
「ジャックコークとかなら」
「ウイスキーは置いてないな。ビールは? 1杯だけ飲まない?」
「……いいよ」
追加で酒を頼もうとしたら断固拒否しようという決意の上で承諾した。ダグは「ウィルが来るまでにマスターのおすすめ聞いといたから少し食べよう」と言ってマッシュルームのフライとグリーンビーンズ&ブロッコリーの小皿も頼んだ。本当だろうか、今のところ一言たりとも店主が喋ったのを聞いたことがないのだが。
ビールが到着するとふたりで乾杯をした。ごくたまに会社のメンバーでの飲み会を断りきれず仕事後に寄るパブくらいでしか酒は飲まないが、久々に飲むとおいしく感じるものだ。
「この時期は仕事忙しいの?」
「いや、繁忙期なんて発注者次第だから特にこの時期っていうのはない」
「じゃあ明日どこかに出掛けない?」
「冗談だろ」
光の速さで断った。休日に外に出掛けたくなんてない。できれば平日だって家から一歩も出たくないというのに。加えてよく知りもしない相手と『どこかに』なんていうふんわりした約束で肯定できるわけがない。ダグは「ロンドンの名所案内して」と食い下がった。
「仕事仲間が大方案内してくれたんじゃ?」
「それはそうだけどウィルのおすすめが知りたいんだよ」
「ない。そもそもメジャーな観光名所も行ったことない」
「え、じゃあ逆に俺案内しようか。すごく上手に受け売りできる自信あるよ」
「…あの、失礼だけどきみ、異常に暇なの? 恋人に連絡とかしなくていいの」
ダグは数回ばさばさと睫毛を上下させて拗ねたように唇をひんまげた。
「恋人がいるのに気になる男性に声をかけるやつだと思われてる?」
しばらく無言で見つめ合ってしまった。
待て。俺はずっとナンパされてたのか?
沈黙をどう捉えたのか、「わかったよ、案内はいいよ」とダグは肩を竦めてビールを呷った。
「また金曜日に待ってる」
待たれても困る、と言えなかった。その日は本当に1杯だけ飲んで終わり、会計はまたダグが持った。
黙々と15分の帰途を歩きながら、ダグラスという男の情報を脳内で反芻した。大概の男が見上げる羽目になる長身、金髪、人形みたいにぱっちりした青い目、尖った犬歯の覗く笑顔、屈託の無い振る舞い。きっとモテない方ではないと思う。いるだけで場を華やかにする容姿だし内面は輪が掛かって陽気。そして一方の自分はといえばブラシが全然通らないので整えることを諦めている癖の強い黒髪に没個性黒縁眼鏡(と自分で呼んでいる)のステルスタイプだ。引き立て役にすらならないと思う。並んだ画を想像すると外気以外の要因で寒気がする。
何か興味を引く要素があったのだろうかと考えこみ、そういえば初対面で「超ハンサム」って言われたな、と唐突に思い出した。冗談だと思って聞き流したがあれは本気だったのか。つまり、たまたまこの顔がタイプなのか。
もしかしてゲイかなとはうっすら思っていたが(ウィル自身がそうなので)、恋愛対象として見られているとは思っていなかった。フラットに帰って洗面所の鏡でつまらなさそうな表情をした自分と見つめあってみたが、必要以上に彫りが深いな、以外に特に感じることはなかった。すぐに見飽きる顔だ。
仮に上手くいったところで、アメリカに帰るときには捨てる気でいるんだろうな、当然。想像して何段階かテンションが下がり、その時初めて自分がそれまでテンションが上がっていたことに気付いた。
次の金曜日も、一応店には足を運んだ。その次も、その次も。毎回毎回ダグは鬱陶しいくらい喜んで出迎えた。もしもウィルが来なければ見えないしっぽをしょんぼりと垂らして待ち続けるんだろうなと思うと会わない訳にはいかない気がしてくる。
金曜日の夜が徐々に息抜きの時間になりつつあった。ひとりだったらコンビニで適当に食べられるものを買って動画を観てゲームをしてシャワーも浴びずに12時間睡眠に突入するところを、代わりに美味しいものを食べながら人と話して過ごすのはなんだか健康的に感じられたし新鮮だった。やたらペラペラと舌が回るダグにつられて反応するウィルも少しずつ口数が多くなり、話がずいぶん長く続くようになった。ダグの物の見方というのはウィルとは正反対に徹底して楽天的で、会話のキャッチボールの中で意地悪な返しをしてもきちんとキャッチしてぽーんと明るい球を返してくれるのが気持ち良い。
もっと長い時間ここにいられたらいいのに、と思うようになってから会計は割り勘にした。自分自身が楽しみにするようになると週末にはしゃぐ周りの人間にも寛容な気持ちになれるから不思議だ(相変わらず嫌いではあるが)。
しかし距離が縮んでも外出の誘いはことごとく断り続けた。今の居心地の良さは狭い店内でふたりで向き合っているからこそ生まれるもので、ふとした拍子に自分の面白みのなさやどんくささが露呈してがっかりされることが目に見えていたから。それでもめげずにあれこれと提案し続けていたダグは、ある時テーブルの上に身を乗り出して「ねえ、俺がどういう気持ちでウィルと一緒にいるかわかってる?」と弱り切った声を作って尋ねてきた。
「さあ、」
はっきりさせたくなくてさりげなく話題を逸らそうとしたがダグはそれを許さなかった。真剣な表情で目を覗きこまれて言葉が喉の奥で詰まる。
「彼氏になってほしい」
言われなくてもわかっていたが、はっきりと言葉にされると心臓が縮むような感覚がした。来月末には帰国するという話なのによく真面目にそんな事が言える。旅先での短期間の恋はダグにとっては刺激的だろうが、終わった後に残されたこちらは確実に惨めになるだけだ。
「――悪いけどヤリたいだけなら他をあたってくれ」
ぼそぼそと口にした直後に、まずかった、と思った。ダグの目に驚きと共にはっきりと傷ついた色が浮かんだからだ。今までのお願いごとを断って来た時の落胆とは確実に違っていて、それは越えてはいけないラインだったことを示していた。しかしすぐにダグは笑顔になり、「わかった」と軽く応じてカップに口をつけた。にこにこしながらウィルと目を合わせようとはしなかった。
失敗した。その後はずっと胸にその思いがつかえたまま、けれど何事もなかったかのように振る舞うダグを相手に謝りそびれて、その日は別れた。駅からとぼとぼと歩きながら、失敗した、と何回も心の中でつぶやいた。失敗した。本当にしくじった。
その晩はベッドに入っても全く寝付けず、携帯でゲームをしながら夜を明かしてしまった。連絡先を一度も交換していないので電話やメールで何か言おうにも言えなかった。死にたい。
次の金曜日、店にダグの姿はなく、しばらく待っても姿を見せる事はなかった。
その次の金曜日、駅のベンチで何本か電車が通り過ぎるのを眺めて車内に長身の姿を探した後、いつもの店に行ってみたが、やはり来なかった。
取り返しのつかないことをした。紅茶だけ頼み、空っぽの向かいの席を眺めながら思った。あんなに悲しそうな顔をさせたのに咄嗟に謝れなかった自分がクズすぎて吐き気がした。
不機嫌な店主に迎えられては飲み物だけ飲んで帰る間に、客は何組か出たり入ったりした。カップルのこともあった。その会話内容にぼんやり耳を傾けながら、恋愛ってなんなんだろう、と思春期の少年のようなことを考えた。
ウィルはそもそも他人にさして興味を持って生きてこなかった。学生自体に淡い想いを抱いた相手は何人かいたが行動を起こす訳でもなく、ぼんやりと大学を出て就職してからはずっと同じ会社に勤め、一度だけ上司にソーホーのゲイクラブに連れて行かれて、そこで会った相手になんとなくその手の浴場に連れて行かれなんとなくセックスしたがそれですっかり飽きた。動画を観ながら自分の手で処理した方が30倍は楽で気持ちいい。他人が関わってくると気を遣うし面倒なことが多すぎる。人付き合いは激しく苦手だし、入れ込んだ結果傷つく羽目になるのも怖い。
会えなくなって4度目の金曜日、会計の時に初めて店主に話しかけてみた。
「あの背の高い人、最近来ますか」
店主はやや間をおいて「いや」と一言だけ答えた。ウィルは無言で頷いて店を後にした。今まで人とどうやって会話してたっけ、と思った。
5度目の金曜日、もはや諦めながら店に入り、店主に案内されるまでもなく自動的に足がいつもの席に向かったところで、先客がいることに気付いた。ダグは目が合った瞬間驚いた顔をして、すぐに遠慮がちに微笑んだ。
「ハイ」
小さく手を上げて挨拶したダグをじっと見つめてから向かいに座る。幻覚ではなさそうだ。いざ再会すると言葉が出て来ない。ダグの前にはメニューにはないアップルパイが食べかけの状態で置いてあった。「あ、これサービスでもらった。感動してたところだったんだけどすごくおいしいよ、ひとくち食べる?」とダグは新しいフォークを使ってひとくちぶんを切り分けそのフォークを差し出してきた。そういえばいつの間にか当たり前のように頼んだ料理をシェアするようになっていた。ウィルはフォークは受け取ったが手はつけなかった。
「この店通い続けてたんだ。よかったね、おいしいお店が見つかって。あれから一段と寒くなったけど元気にしてた?」
「………」
「俺は最近残務処理の方が忙しくて来れなくてさ。帰国の予定が少し早まって今週でアメリカに帰ることになった」
さらりと告げられて無意識に唾を飲む。目が合わせられない。ダグは構わずにひとりで喋りつづけた。
「LAが恋しいよ。エリーにも長いこと会ってないし。あ、エリーって前に写真見せた犬のことね。怒られるだろうな。旅行なんかで人に預けるといつもそうなんだ、わたしを置いてどこに行ってたの、あんたなんかもう知らないって顔されてしばらく許してもらえない。噛まれた傷痕がどこかにあるんだよ…もう消えたかな」
両手をくるくると裏返して傷を探していたダグはやがて飽きたように口をつぐみ、しばらく沈黙が落ちた。ウィルは心の中でゆっくりと3秒数え、押し出すようにして「この間のことごめん」とようやく声に出した。
「…ああ。気にしてくれてたの? いいよ。そんな風に思ってたならもっと早く言ってくれてよかったのに」
ちくりと心が痛む。俯いた視界の隅で長い指が落ち着かなげにテーブルを叩き、それからぎゅっと握り込まれた。
「最後に会えたから言っておこうと思うんだけど、俺はウィルが好きだ。でもウィルが同じ気持ちじゃないのはわかった。だから………」
珍しくダグは言葉に詰まり、結局シンプルに「それじゃ」と告げ、いつも通りの明るい笑顔を浮かべて立ち上がった。
「またいつか」
一度だけ肩にやさしく触れて、ダグは財布から紙幣を数枚抜いてテーブルに置き、続いて店主に「元気でね、リジー」と声をかけて握手を求めた。店主は何も言わなかったが頷いて応じた。振り返らないダグがいかにも運動神経の良さそうな身のこなしで店を出ていく。それを映画を観ているような現実感の伴わない気持ちで眺めた。
そういえばさっきが初めてのボディタッチだった。勢い込んで喋りながら身を乗り出す時も、少しの間並んで歩きながら顔を覗きこんでくる時も、「彼氏になってほしい」と言われた時でも、ダグに手さえ触れられたことはなかった。
またいつかなんて来ない。ミドルスクールの頃遠くへ越して行った友人ともそんな約束を交わしたが、結局二度と会う事はなかった。その年のクリスマスカードを交換してそれっきり。人間関係なんて双方向からの努力がなければあっさり消え失せる。現にそうしてウィルは今ひとりだ。
「お客の事情に口を出したくはないんだけど」
自分に話しかけられているのだと気付くまでに数秒かかった。はっと顔を向けると、ダグにリジーと呼ばれていた店主がひとくち残ったアップルパイの皿を下げながらいつもの不機嫌顔でこちらを見ていた。
「追いかけたら?」
ふい、と背中を向けられた瞬間勢いよく立ち上がっていた。鞄を引っ掴み、ちょうど店に入ってきたところだったくたびれた初老男性を突き飛ばす勢いで外へ出て地下鉄の階段へ飛び込む。転びそうになりながら駆け下りると周囲の人間が一斉にこちらを見た。改札を抜けてホームに入る。人の量から見てダグが店を出てからまだ電車は来ていない。左右に視線を巡らせてから長身を探して駆け出す。
だがそう広くはない駅を駆けずり回ってもあの目立つ姿は見当たらなかった。とするとまだ駅に入っていないのか――もう一度階段を駆け上がり、夜の路上に立った刹那、どうしたらいいのかわからなくなった。闇雲に少し走り、不審そうに眺めてくる通行人の顔を見ていたら、遅かった、という絶望感が足元からじわじわと這い上がって来て次第に歩みが遅くなった。
荒い呼吸を繰り返しながら壁に手をついて地下鉄の階段を降りた。悲しいかなこの程度の運動で喉の奥から血の味がする。みっともなく暴れる心臓を吐き出してやりたい。
なんで俺はあのとき名刺を捨てた。時間を巻き戻せるものなら巻き戻したい。巻き戻してちゃんと謝って――それでどうする? オッケー付き合おう、と答えて帰国の日に空港まで見送りに行く?
ホームに辿り着くとすっかり人が捌けて閑散としていた。電車が行ったばかりらしい。壁に沿って設置されたベンチにずるずると座り込み、ずり落ちるギリギリまで脚を投げ出して湾曲した天井を見上げた。肺が痛い。消えてなくなりたい。いっそ三十数年巻き戻して人生をなかったことにしたい。
どれだけそうしていたのか、完全に放心していたのでよくわからない。
「――具合が悪いの?」
躊躇うような声に反射的に肩がびくっと跳ねてその拍子にベンチから落ちそうになった。足元の方から話しかけられたので姿は見えないが、眉尻を下げた表情をはっきりと思い描けた。静まり返っていた心臓がまたスイッチを入れられたかのようにバクバクと高鳴って自己主張をしだす。
「…ごめん、しつこいな。しんどかったらちゃんと周りに助け求めて。じゃあね」
離れる気配を察して、はっと顔をそちらに向けて「待って」と言った。だが声が掠れてまともな音にならなかった。ダグの耳には届かなかったようでホームの奥へとずんずん進んで行ってしまうので慌てて立ち上がり、小走りに追いついてもう一度「待って」と言おうとして見上げたところで、びっくりした。
「なんで泣いてるんだ」
我ながら馬鹿みたいに無神経な質問だったが、咄嗟に聞いてしまった。
「……すごく好きな人にフラれたから?」
大股に歩き続けながら、ダグは横顔に見た事のない自嘲するような笑みを浮かべた。
「一目惚れしてきっかけがあって話せるようになって何度もご飯行って、俺がくだらない話してもちゃんと頷きながら聞いてくれたしたまに笑ってくれるのが最高に可愛くて俺はすごく楽しかったしどんどん好きになったけど、その相手には身体目当てのクソ野郎だと思われて迷惑がられてた」
「違う」
「いいんだ、付き合わせた俺が悪かった。俺なんかタイプじゃないだろうしそれに実際セックスだってしたい。いいんだ。トイレで散々泣いてスッキリしたから俺は大丈夫、もう行ってくれ。体調悪いんだろ」
「嫌だ」
「あんたはノーばっかりだ!」
唐突に声のトーンが跳ね上がった。立ち止まってこちらに向き直ったダグは涙からなのか怒りからなのか鼻も目も頬も真っ赤になっていた。続いた言葉は絞り出すように小さかった。
「もう聞きたくないよ」
きりきりと胃が痛みだすのを感じながら、何か言わなきゃ、と必死に頭を回転させた。ここで間違えたら今度こそ終わる。ちゃんと、迷惑だった訳じゃないって示して見せなきゃ。
「……家に、来ないか」
ウィルからすればとてつもなく勇気の要る誘いだった。自宅は自分以外の人間を上げたことのない絶対的にプライベートな空間だからだ。ふたりきりなら腹を割った話もしやすい。けれど肩をいからせ薄い唇を真一文字に引き結んだダグは、こちらをまっすぐに睨み据えながら首を振った。
「言ってる意味わかってないだろ」
「わかってる」
「少なくとも俺の耳にどう響くかわかってない。俺にはこう聞こえるね、『僕のことを好きだっていう相手を泣かせちゃって後味悪いな、恨まれても嫌だしどうせこれで最後だ、一回だけ寝てやるか』」
「…そんな、」
そんな風に悪意が滲む喋り方をされるのは初めてで、反射的に身体が竦んだ。ダグは呆れたように首を振り、再び歩き出した。少しの間立ち竦んでその背中を見つめる。後ろ姿は知らない相手のようだ。通り掛かった老夫婦が訝しげに凝視してきたがもう他人にどう見られるかなんて構う気になれず、追いすがるように歩きながら必死に言葉を探し出した。
「信じてくれ。追いかけようと思ったんだ、さっきまで探してたんだ。み、見つけられなかったけど、もう会えないのが嫌だったんだ、あんなこと言って悪かったって思ってる、ダグ、」
その瞬間ダグが弾かれたように振り向いて突然距離を詰めてきた。あまりの勢いにウィルは咄嗟に後じさりしそうになった。感情の読め取れない表情で数秒間こちらを見下ろしていたダグは、いつも通りの抑揚の過剰な口調で、fuckin' finally、とつぶやいた。
「知ってた? 今初めて俺の名前呼んでくれた。覚えてないかと思ってた」
そう言っておもむろに伸ばされた腕がぎゅっと背中に回される。おそらくウィルは抱き締められていなかったらその場に膝をついてくずおれていたと思う。そんな簡単なことで幸せそうに笑ってくれるなんて、1ミリも予期していなかった。
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[mokuji]