サニーサイドエフェクト
結局ダグは家までは来ず、空港に見送りに来て欲しいとも言われず、次の電車に乗ってホテルへ帰って行った。「夏にまた会いにくるから」とぴっかぴかの笑顔で言われて正直ほんとかよとは思った。帰国したら案外あっさりと遠くに暮らす自分のことなんて忘れて地元で恋人をつくるのではないかと。請われるままにPC用メールアドレスと携帯の電話番号を教えて、手を振りながら遠ざかっていくダグをホームで見送り、結局これで終わるのかなと考えていた。それでも毎日暇さえあれば新着メールのチェックはしたしシャワー中に電話が鳴っているような幻聴を何回か聞いて髪も拭かずに携帯に飛びついたことが一度か二度あった。コントロールが利かなかった。それでも仕事でミスは出さなかった自分を褒めたい。
ダグの帰国予定日の三日後、仕事が終わって会社を出てすぐに歩きながら携帯でPCメールをチェックすると、『Hi it's Dug』という件名のメールが入っていた。咄嗟にガードレールに腰掛けてものすごくドキドキしながら開くと、まずどんとダグの写真が出て来た。腕の中から逃れようともがくエリーとの2ショットセルフィーで笑いそうになり、慌ててマフラーで顔を隠しながら一旦メールを読むのは中断して駅に向かって歩き出した。家に帰るまで我慢しよう。
文面は『滞在中はよくしてくれてありがとう、帰って来たよ』で始まり、ロンドンとLAの気候や食べ物の違いに触れてから、『ところでどうしたら話がしやすいか遠距離恋愛中の友達に相談してみたんだけど、スカイプのwebカメラ? の設定したら話してくれる? よくわからないけどウィルが喋ってくれるなら設定を友達に頼んでみる』と書かれていた。
返信を打つ前にAmazonでスカイプ用のカメラを買った。それからざっと文章を打ち、コンビニで買ったサンドイッチをもそもそ食べ、テンションの高い文章になっていないか見返して少し修正してから送信した。
返信がくるまでまた狂ったように新着メールの確認をするんだろうなと思うと自分の事ながら気持ち悪かったし憂鬱でもあったが(食事の習慣が馴染むまではダグのしつこさに鼻白んでいたものだがこうしてみると自分の方がストーカーの素養がある気がする)、それ以上にワクワクしていた。
相談の上、時差を鑑みてこちらが夜で向こうが早朝の時間帯に初めてカメラを通して喋った。映像がディスプレイに映し出された瞬間、ダグはこちらに腕を伸ばしてハグする仕種をした。
『ウィル! 元気だった?』
「…まだ帰ってそんなに経ってないだろ」
『そうだけど、またお腹下したりしてないかなと思って』
ダグの背後に映る部屋の様子につい視線が行く。自分の部屋はパソコンとテレビ以外ろくな私物もなく殺風景なものだが(以前はゲーム機もあったが性格上やり始めると寝食を蔑ろにしてやりこんでしまうので思い切って捨てた)、ダグの部屋にはギターが立ててあったり壁際にぎっしりと帽子やジャケットがかかっていて、ウィルの知らない、想像のつかない生活を思わせた。
日常に戻ってもよく俺のこと忘れなかったな、と改めて思った。
「エリーは?」
『あ、覚えててくれたの? いるよ』
ひょいと足元から掬い上げてカメラの方へ突き出してくる。大人しく抱かれているからにはしばらく留守にした罪はお許しいただけたらしい。アップになった鼻面を見て思わず笑いながら画面に向かって手をのばした。と、その顔の脇からひょこりと、これまたアップになったダグが顔を出す。
『また会えるまでこうやって話してくれる?』
「…うん」
ディスプレイに指先を置くと予想に反してひんやりと冷たかった。素直に頷くと、ダグはぱっと花が咲くようにして笑った。出会ってそう時間が経ったわけではないのに、いつの間に彼の存在がすんなりと自分の中にいるのか。
メールとスカイプのやりとりはコンスタントに続いた。遠距離恋愛――という響きが痒いしこれがそういうものなのか確証がないのだが――は自分向きかもしれない。直に顔を合わせよりも画面や文字を通した方がウィルはずっと素直になれた。
冬が終わり、春になって、最初はいつ終わるかわからないと構えていた関係はすっかり生活の一部として馴染んでいた。飢えたようにメールの返信を待つことこそなくなったけれど、連絡はいつも待ち遠しい。
元々犬猫画像と携帯ゲーム情報とネタの収集に使っていたSNSでロサンゼルスの天気やニュースを発信しているアカウントをフォローし始めた。今日はどんな風に暮らし
てるのかな、と想像して、アメリカ時間の夜に送られてくるメールで答え合わせをする。その日の出来事だけではなくて、子供の頃の思い出や好きな音楽、俳優、本の話なんかもした。ダグに勧められたものは密かにひととおり試してみた。ハマる、までいくものはなかったが、費やす時間は苦痛ではなかった。
「親にはカムアウトしてる?」
『初めて恋人ができた時にしたよ。人生で一番緊張した。話をする何日も前から不安で眠れなくて手ぇぶるぶるさせながら言ったら、父親が「末期がんの告白をされるのかと思った」って安心で泣き出して』
「ダグが深刻な顔するのなんて人生に何回かしかなさそうだからな」
『マジでその通りだよ。母には付き合う相手はちゃんと選びなさいとだけ言われた。ウィルは?』
「うち片親で育って話す前に亡くなったから知らずじまい。姉にはしたよ、『なるほど』ってあっさりしたもん」
『お姉さん美人そう』
「似てるって結構言われる」
『たぶんウィルの方が美人だろうけどね』
『セックスは好きじゃない?』
「…あまり」
『ポルノ観てる方がいい?』
「うん」
『だと思った。どのサイト観てるの? おすすめ教えて』
「別に特殊な性癖とかないし無料サイトで適当に流して観てる」
『ひとりでしてるとこ見たいなー』
「………やだ」
『だよね』
「今日は何食ってるの」
『クロックムッシュ! スカイプ始めてから朝起きるのが得意になっちゃって朝ごはんのレパートリーが増えた。ウィルの夜ご飯は?』
「フライドライス」
『この一か月ずっと中華のテイクアウト食べてない?』
「飽きるまで同じとこで買う主義」
『野菜も食べなさい』
「リジーの店では食べてるよ」
『ごめん寝坊した、今日時間ないからもう行くね!』
「待って寝癖」
『どこ!』
「逆、そっち、もっと後ろの方すごい跳ねてる」
『うわー直してる時間ないや行ってくる』
「んー、気を付けて」
『聞いて、今日バーでナンパされた。五十手前の渋い男前に』
「…………」
『俺年上にモテるんだよ。初体験も二十個くらい上の人だった』
「…………」
『なに? 断ったよ』
「……よくあんの」
『よくはないって、ウィルみたいにハンサムな訳じゃないし』
「きみの美意識おかしいよ」
『おかしくないよ!』
「むかついてきた、切る」
『なんで、ごめん、まだ話したいよ、やだ切らないでウィル怒らせたなら二度と言わな』
『ねえ本当に切ることないだろ!!』
「……あのさ、なんで俺のこと好きなの?」
『顔がタイプ、雰囲気が好き』
「聞かなきゃよかった」
『なんで、本当のことだよ。あと冷たくて優しいところと、意外と食べるの下手でボロボロこぼすのが可愛いのと、俺のこと――ウィル、ねえごめんって。切らないで…』
「切ろうとしてない」
『……………』
「切らないよ」
『…………言葉で上手く言えなきゃだめなら考えさせて。頭良くないしそんなに咄嗟に出てこない』
「もういいよ、わかった」
『……………』
「違う。そういう意味じゃなくて本当にダグが俺のこと好きなのはわかったから。ごめん。俺が悪かった」
『ウィル?』
「うん」
『会いたいね』
「……ん」
『約束通り夏になったら休みをとるから短い間だけど会いに行ってもいい? 泊めてもらえると助かるんだけど。金銭的に』
「ああ。いいよ」
『ありがとう!』
そんな話をして数週間してから、そっちに行ける日程が決まったよ、とメールが来た。金・土・日の三日間泊まって月曜の朝に帰るという。空港まで迎えに行くと申し出てみたが『いいよ、人の多いところ苦手でしょ』と言い当てられて最寄り駅集合ということになった。
木曜の夜のうちに念入りに掃除をした。正直言ってまともに掃除なんてしたことがなかったので(何しろ自分以外の人間の出入りが一切ないから)少し頑張っただけで疲れ切ったが、にも関わらず緊張でよく眠れなかった。
終業後寝不足でふらふらしながら駅へ辿り着くと、ダグは既にベンチにいた。長身が目立つのですぐにわかった。その光景が懐かしくて、まだ相手に気付かれていないのをいいことに思わず立ち止まって遠目に眺めた。――初めて会ってからもう半年経ったのか。
リュックを抱えて俯いて座っていたダグが、視線を感じたのかふと顔を上げた。目が合った瞬間笑顔で立ち上がる。その俊敏さを懐かしく思うと共に、しばらく平面でしか見ていなかった存在が目の前にいる生々しさに少したじろいだ。
「ウィル」
軽い足取りで近寄って来たダグが伸ばしてきた腕の中に大人しく収まる。皮のような鉄のようなにおいがした。ほっとする。
「来てくれてありがとう」
これだけは必ず言うと決めていたことを目を見ながら言うと、ダグはうんうんと頷いてから「待っててくれてありがとう」と目を細めた。
夕食はリジーの店で食べた。ダグが帰国して以降もウィルはひとりでしばしばこの店を訪れていた。とはいえ「追いかけたら?」と言われたあの日以来店主とはろくな会話もせず、結局ダグとどうなったのかという報告もしていなかった。相変わらず不機嫌な顔で出迎えた店主は、ダグが「リジー、元気?」とテンションの高い声をかけると心なしか表情を弛めたように見えた。
家までの15分の道のりはふたりで歩くとあっという間だった。地下に住んでいることを話すと「秘密基地みたい」とダグは言い、子供の頃近所の老人の家の使われていないガレージに勝手に基地を作って叱られた話をした。人生経験に乏しいウィルが目眩を覚えるくらいにダグは濃密な29年間を生きてきた男だ。
家に着くとまず自分の定位置、テレビの前のソファにダグを座らせた。脚を持て余し気味に座る存在がいることで一気に我が家が狭く感じる。
「インスタントコーヒーしかないけど、」
「いいから隣り座って」
慣れないながらもてなそうとキッチンに足を向けたのだがやわらかく遮られた。振り返るとダグはぽんぽんとソファの隣を示してみせた。ソファ自体は一応人ふたりが座れる幅はあるが何しろふたりともそれなりの体格なのでどう見ても隙間が狭い。その隙間に大人しくぎゅっと身体を押し込むと、両頬を大きなてのひらで包み込まれる。顔を覗きこまれて戸惑いながら見返すした瞬間ふわっと唇が重なった。
「やっと触れる」
「…………」
笑っていられるダグが心底羨ましかった。本当に目の前にいる、という実感と、初めてのキス、という驚きで心臓がバクバクと音を立てながら暴れていて苦しい。でもそんなこと絶対に悟られたくない。じっと見つめ続けていると、「もっと?」と尋ねられ、微かに頷くとまたキスをされて、再び「もっと?」と聞かれる。問われるたびに夢中で頷いた。それを何回か繰り返しながら、気付いたらソファの上に押し倒されていた。は、と零れ落ちた自分の吐息は熱を帯びていた。ダグの手がするりと頬を滑り、顎に添えられる。
「もっと?」
「―――」
尋ねる声はしっとりと湿っていた。間近で覗き込む目に見とれながら答えようと口を開きかけた時、ふいにダグの身体が離れた。ソファに座り直し、「コーヒー飲みたいな」と平素の口調で言う。
「………?」
「時差ぼけしてるみたい。少しのんびりさせてもらっていい?」
「もちろん」
戸惑いながらソファを抜け出してキッチンに向かった。あのタイミングで止まるとは思わなかった。
コーヒーを飲んでテレビを見ながらだらだらとおしゃべりしているうちにダグは眠ってしまったので、ブランケットをかけて寝かせておいた。なんだか拍子抜けした。
翌日の土曜日は穏やかに時間が過ぎていった。
朝はパンを買って来て軽く済ませ、ぶらぶらと近所を散歩して、公園でアイスクリームを食べ、「午後は映画観ようよ」というダグの提案により、レストランで早めのランチを食べてから映画雑誌を買って家に帰った。家にいる時ダグは相槌のような気軽さでキスしてきて、散歩中も時々さらっと手を繋いだ。
三十を過ぎてこんなことを思うのもなんだが、カップルっぽいことができて素直に楽しい。癒される。幸せだ。
しかし。
なんというか。
ムラムラするんだが。
正直キスしたり触れられるたびに勃起しているのに手を出されないのは生殺しだし誤魔化すためにものすごく挙動不審になる。俺だけか。こんな溜まってるの俺だけか?
ダグは日頃どう処理してるんだろうというのを未だに聞けずにいた。アメリカ人は同時期に何人もの気になる相手とデートしてふるいにかけるとかなんとか聞くし、たとえ決まった恋人がいても同性の友人との付き合いの中にセックスを含むタイプのゲイが一定数いることは知識として知っている。だがウィルの感覚ではそんな奔放な生活は信じがたい。しかしダグに聞いたらあっさり「普通にセフレいるよ」という答えが返ってきそうで怖かった。悪い訳じゃない、が、ものすごく嫌だ。遠距離で会うことが滅多にできないとしても自分以外の人間に目を向けてほしくない。
「このシリーズって観てる? 6月公開だったんだよね、なんだかんだ見逃してた」
短すぎる滞在が終わって帰ったらまた当分会えないというのに、恋人の態度は呑気なものだった。映画雑誌を開きながら話しかけてくるダグの手の中から思い切って雑誌を抜き取ると、ダグはきょとんとしてこちらを見た。
「ダグ」
「うん?」
「映画もいいんだけど」
「家にいたい? いいよ」
「…じゃなくて」
口に出して言わなきゃいけないのか、こういうの。しばらく雑誌を手の中で弄びながら迷った末、腰を浮かせて隣に座るダグの太腿を跨いで座ると、恋人は戸惑ったように上目遣いの視線を揺らしてから笑った。
「この角度で見るウィルめちゃくちゃきれい」
「……ダグも」
首に腕を回し、おそるおそる顔を近づけていくとすぐに向こうから距離を詰めてくれる。密着度が高いせいで体中に一気に熱が回る。それは相手も同様のようで、腰を支えられると同時に初めて舌が入ってきた。背筋にぞくっと震えが走る。もっと。もっと。舌で唇でねだる。
と、唐突にダグの手が顎にかかって引き剥がされた。驚いて目を開くと、紅潮した顔で「ごめん、どいて」と言ったダグが押し退けて立ち上がろうとする。咄嗟にソファの肘掛を掴んで抵抗した。
「なんで」
「なんでって…、……これ以上したら押し倒しちゃいそうだから」
「…いや、だから…何が問題?」
焦れて尋ねるとダグはなぜかぽかんと口を開け、それから眉間に皺を寄せた。
「だって前にスカイプで話した時乗り気じゃなかったし、仕事でロンドンにいた頃俺の事警戒してたし、時間が必要かなって」
「あれから半年も経ったのに?」
「今朝寝室見せてって言ったときも嫌な顔したし」
「寝て起きたまんま片付けてなかったから」
「別にそんなの気にしなくていいよ!」
「わかったよ入れよ!」
やけくそになって寝室のドアを開け放ちダグを招き入れた。ベッドの上の布団は結局寝乱れたままだ。こういうあからさまな生活感を恥ずかしく思うのは自分だけなのだろうか。「満足か」と振り向いて尋ねようとした時、タックルするようにしてベッドの上に倒された。ふたりぶんの体重を受けてベッドが大きく揺れる。覆いかぶさったダグの目には見た事のないぎらぎらした光が宿っていた。
「いいの?」
頷くとダグは喉の奥で言葉にならない声を出して唸り、ウィルの着たシャツのボタンをゆっくり外して行きながら半ば泣きそうなトーンで囁いた。
「すごーく我慢してた。半年も何もなしだよ、禁欲しすぎて死ぬかと思った。やっと会えるーと思ったら飛行機の中で興奮して危なかったし、昨日は夜中に目が覚めて寝室に突入したいの必死に我慢したし人の家のソファで抜くのもアレだし。あんまりウィルのこと見ないようにしてたの気付いてた?」
「―――」
気付いてなかったし俺はベッドで独りで抜いてた、とは口が裂けても言えない。申し訳ないという気持ちを込めてウィルほどには癖のきつくない天然パーマの髪を撫でると、にーっと口角を上げたダグが犬みたいに頬ずりしてきた。
なんでこんな可愛いのが俺のこと好きなのかな。
ダグに手や唇や舌で触れられることは衝撃的な体験だった。自分の首が、脇が、乳首が、太腿が、足の指が、こんなに感じるなんて思いもしなかった。
それに他人の汗のにおいや体臭をいい香りだと思うことがありえることも知らなかった。香水のように人工的な香りではなく、ダグの肌からいいにおいがした。脇に鼻先を押し当てて延々嗅いでいると「くすぐったい」と嫌がられたが。
ダグのリュックの中からちゃっかり潤滑剤とコンドームが出てきて思わず笑うと、「なんだよ、備えはしとくもんだろ」とダグも笑った。
「前も確認したけどクリーンだよね?」
「うん」
「オーケー、俺も。どっちにしろコンドームはつけるけど」
一度だけボトムでしたことがあるという事と特に良いと思わなかったという感想はメールで話していて、その時の反応は『相手が雑だったんだね』というあっさりしたものだった。その意見は正しかったのだと思う。挿入に至るまでに「無理、無理無理」「待って、まだ出しちゃだめ」「じゃあ早く入れろよ…!」という会話を何回繰り返したか記憶にないが、とにかく何もかも、不安や羞恥心や痛みを遥かに凌駕して気持ち良かった。散々慣らされてから入ってきた時にはほとんど息も絶え絶えの状態で、奥まで満たされた瞬間、やっと終わった、という気分になってしまった。隙間なく埋められて、自分が完成した気持ち。
しかしぐったり寝そべるウィルに反してウィルの両脚を肩にかけたダグは「あー」「うー」としんどそうに唸った。
「すっごい狭い」
「…ごめん…?」
「いや、ウィルが辛くないならいいんだけど。ゆっくり動くよ」
見上げながら何度か頷くとぐっと少しだけ腰が引かれ、また戻って来た。それを本当にゆっくり――動画で見慣れている半分くらいのペースで繰り返されているうち、びくっと無意識に自分の脚が跳ねた。
「ん……っ?」
見上げた先でダグが舌で唇を湿らせた、その直後に反射的に顔を仰のかせた。中のすごくいいところに当たっているらしい、ということを数秒遅れで理解する。ダグのペースは変わらなかったし特にスポットを狙っている風でもないのだが、ゆるやかに前後されるたびにどんどん体内の快楽の圧のようなものが高まって行く。
「ン…んん…ひっ…ぁ、あ…?」
腹や背中に衝撃を受けた時に肺から酸素が飛び出て行くのと同じように、不可抗力で声が漏れ出て行く。ゆっくり揺さぶられているだけなのにひたすら快楽が身体中を巡って、意味もなくダグの肩を叩き背中に爪を立てると宥めるように額を撫でられ口づけられる。
「は、はぁ、あ、あ、」
止めてくれと訴える余裕さえなかった。おもむろに性器に触れられて何回かこすられただけで訳がわからないまま射精した。ひきつった呼吸が収まるまで一旦動きを止めていたダグは、「きもちいい?」と再び性器を探りながら囁いた。
「まだ硬いね。続けてできる? 休憩する?」
「さ、さっきのとこ…」
「うん」
「ン……それ、きもちいい、」
また同じペースで動きだし、解放したばかりなのにすぐに身体が高ぶり出す。意思で制御できない後ろがきゅっと絞り上げるたびにダグも吐息交じりの声を漏らした。喘ぐ合間に「まだ狭い?」と尋ねると、余裕のなさそうな表情で首を横に振った。さっきもたっぷり垂らした潤滑剤のボトルに手を伸ばしてそれを結合部に足してから、屈んで唇を塞いでくる。舌を絡めながらしばらくキスに没頭していると、ふいに顔を離したダグが目を覗き込んできた。
「ちょっと激しくするよ。痛かったら言って」
表情と同じく余裕のない口調での宣言ののちにぐっと強く押し付けられた。それがずるっと一気に引き抜かれ、完全に出て行く直前にまた閉じかけた道を押し広げながら奥に戻ってくる。視界が揺れるくらいのスピードでそれを繰り返されるとすぐに訳がわからなくなった。身体の中も外も熱く濡れて脈打っている。
「あ……ッ! あ、あっ、ひっ、ヒィ、んッ」
声がみっともなくひっくり返る。シーツを握っていた手を伸ばすとダグの長い指が自分の指と絡み、再びシーツへ戻されて縫い留められた。もっと敏感で深い場所で繋がっているのに、その触れあいに興奮する。
「あー、…ッは、…うぃる、」
甘ったるい声で名前を呼んで眉間に皺を寄せたダグがぎゅっと強く目を閉じるのを快感に霞んだ視界で見上げていると、数回一際強く突き入れられて動きが止まった。一拍置いてはっ、はっ、と荒い呼吸をしながらゆるゆると前後する動きに、射精したらしいことを知る。ずるりと抜き取ったダグはまた唇にキスを落とし、「しんどくなかった?」と尋ねた。
「大丈夫」
「ん、よかった」
どこか気だるげに笑ったダグは覆いかぶさった身体をそのまま下にずらし、おもむろに下腹部に向かって屈みこんだ。何をされるのか予期する間もなくそこをぱくりと咥えこまれ、「え?」と慌てた声を上げた直後に舌がまとわりついていた。あたたかい感触にやんわりと全体を締め付けられる。ダグが長い睫毛を伏せながら自分のものをしゃぶっている光景を見たら一瞬で忍耐力がゼロになった。
「あ、あ、あっ、待って、出――」
まだ絶頂が近い自覚さえなかったのに、数回頭を上下されただけであっさり限界を迎えた。認識が身体についていけなくてクラクラする。口の中に出してしまった精液をダグは何の抵抗もなさそうに飲みこみ、「おいしい」とわざとらしく眉を上げて言ってのけた。ウィルは何を言う気にもなれず、顔を手で覆って「ファック」と呻いた。ダグはいたって無邪気に「どうだった?」と尋ねながら隣りに寝そべって来た。
「…だめ…許容量超えた」
「そう? 許容量増やしていくの楽しそう」
本気とも冗談ともつかない口調で言ってくすくすと笑ったダグが、続いて「あ、まだ時間あるけど映画どうする?」と言うので「行かないに決まってるだろ」と食い気味に即答した。その選択肢があるとすら思わなかった――到底動く気になれない。
ベッドを軋ませてダグが離れて行くのを顔を覆ったまま気配で感じていると、しばらくして帰ってきたダグに手を剥がされた。んふー、と満足げに笑った恋人が掴んだままの両手首に交互にキスし、「口ゆすいできたから」と申し出た上で唇に唇が押し付けられる。
ダグが帰ってしまったら必ず寂しくなる、と思った。別れを思うと早くも胸が苦しかった。ひとりきりで満員だった家がきっとこれからは空っぽに感じる。
「最近表情が明るくなったな」
と声をかけられ、一瞬自分のことだとはわからずにデスクの脇に立った上司Aをぼーっと見上げてしまった。上司A、本名は覚えているが特に呼ぶこともないのでAで事足りる。
「…そうですか」
「そうだよ、前はPCに向かってる時は呪詛を打ち込んでるような顔してたのに」
「はは」
我ながら乾いた笑い。それで会話を打ち切ってモニターに向き直ろうとしたが、上司Aは「どう、金曜の夜に飲みにでも」と忌まわしい誘いの言葉を続けた。
「いえ。予定が」
「なんだやっぱり彼女ができたのか」
「いや……」
「彼氏? どっちでもいいけど次回の社員バーベキューに連れておいでよ」
絶対やだよ。
バーベキューなんてダグのためにあるようなイベントだ。奇跡的に滞在と時期がかぶって参加したとして彼なら勤続8年のウィルがまともに会話したことのない同僚ともすぐに打ち解けるだろうし、社員の奥様勢には「若い! ハンサム!」と誉めそやされるだろう。想像しただけで爪が掌に食い込む。たぶん心の中で社員および関係者一同を呪い殺す羽目になる。
「そうだ。有休とります、11月の最後の水木金で」
ふと思い出しついでに話題を逸らすと、上司Aは珍しいと言いたげに眉を上げた。これまで有休消化を促されて目的もなくとるばかりだったので、今回が初めての能動的な有休取得ということになる。
とはいえ楽しい休暇になるかはまったくもって定かではなかった。
ウィルは今までの人生でイギリス国外へ出たことが一度もない。
そもそも国外に興味なぞさらさらない。ロンドンに雨が多かろうがどうでもいい。スペインで陽に当たるくらいならジャンクフードを食べつつ家でパソコンの光を浴びていたい。
アメリカに行く事なんて想像もしたくなかった。理由は単純。飛行機が怖いからだ。あんなクソ重たい鉄の塊が空を飛んでいるのに安穏としていられるはずがない。墜落の可能性がどんなに低かろうが自分の運の悪さを考慮すれば落ちる。絶対落ちる。
『それじゃ待ってるね!』
ニコニコ笑顔の顔文字がくっついたダグからのメールを眺め、スーツケースを見下ろし、もう何度目かになる溜息を吐く。
ロンサンゼルス国際空港までのフライト時間は11時間。それだけ墜落の可能性と戦わなければいけないのだ。長すぎる。せめて飛行中にパニックにならないで済むようネットで睡眠導入剤を入手はしたが、それでも怖いものは怖かった。さらに溜息の回数を重ねたところでウィルは唐突に天啓めいたものを受けた。
そうだ、俺はいつ死んでもまあいいかと思ってたはずじゃないか。寝てる間に飛行機が落ちて死ぬのはなかなかいいプランといえる。周りの乗客も大量に死ぬから痛ましい事故とはいえいちいち個人名が報道されることもないだろう。逆にこれほど目立たず死ねる機会もそうないのではないか。
「よし」
飛行機に乗る勇気が湧いてきた。勢いづいて立ち上がったところでふと、訃報が入ったらダグは干からびるほど泣くだろうな、ということに思い至った。ましてやアメリカに招いたのが彼だから。簡単に想像がつく、毎日毎日飽きもせず食事すら摂らずに泣きそうだ。矛盾するがそんな事態は死んでも避けたかった。ならもうアメリカなんか行かなきゃいいだろという何回も反芻した考えが頭をもたげもするが、今回はちょっと、頑張らないといけないのだ。
またも溜息を吐きながら携帯のロック画面(昔飼っていた犬)に指を滑らせ、パスコードを打って待ち受けを表示させる。そこにはこっそり撮ったダグの横顔がいて、会いたいな、とその瞬間何の不安も邪念もなく思った。死ぬ気で飛んで行けば会える。
当然といえば当然なのだが、ウィルの心配をよそに飛行機は特に揺れることもなく無事アメリカへ到着した。
ヒースロー空港を発ったのは午前中で、体感としては夜になる時間に到着したのだが、ロサンゼルスはまだ昼間で明るかった。感謝祭というイベントのせいもあるのだろう、空港はものすごい人出で(念じたら半径3メートル以内から人が消え失せる能力が欲しい)、人酔いと時差ボケとフライトの疲れで吐き気を堪えながら入国審査を終え指定された出口に向かうと、出迎えの群れに混じってダグがいた。こういう時にすぐ見つけられるので長身は便利だ。
「ウィル! 会えて嬉しい! 髪切ったの? すごく似合ってる」
ぱあっといつもの明るい笑顔で出迎えられ、抱擁を受ける。知らない土地で嗅ぐ馴染んだ匂いにほっとした。背中にしがみついて顔を押し付け深呼吸をする間、ダグは黙ってされるがままにしていてくれた。
感謝祭の時に家族とご飯を食べるからおいで、いい機会だから紹介する、と誘われての渡米だった。そもそもが他人となるべく関わり合いになりたくないのに恋人の家族と会って食事をするというなかなか心の準備が要るイベントは飛行機の次に憂鬱だった。なるべく考えないようにしていたが、ダグの運転する車の助手席に乗り込むといよいよもって嫌すぎて具合が悪くなってきた。七面鳥なんて腹に入る気がしない。あれこれと話しかけてくるダグに対し呻き声で答えていると、赤信号で止まったタイミングで「オッケー、今日は俺の家で過ごそう」と言われた。
「実家に直行するつもりだったけど体調悪そうだし」
「…いや、」
「っていうのは建前でふたりきりになりたい」
「…………」
それがどこまで本音でどこまでが気遣いなのかよくわからなかったが、嬉しかったので素直に頷いて窓の外に視線を転じた。人の多い街だ。ひとりで歩いていたらすぐ道に迷うだろう。赤信号で停車したタイミングで襟足に触れられた感触がして振り返ると、ダグがにこにこしていた。
「今日のために切ってきてくれたの?」
「…うねりがあまりに手に負えなかったから」
「もさもさしてるのも好きだよ。でも短いのもすごくいい」
「……ん」
ダグと接していると段々些末なことなんてなにもかもどうでもよくなってきてしまう。世界は今日も正しく回っている、と、何の根拠もなく信じ込ませることができる男だと思う。
実家ではダグとよく似た笑顔の母親とよく似たテンションの父親に歓迎された。両親ともに平均的身長なのにどうしてダグだけにょきにょき伸びたのか不思議だ(本人いわく「オレオをいっぱい食べた」らしいがたぶん関係ない)。道中でダグに店に寄ってもらって買った手土産の花を渡すと喜んでくれた。それに、先んじてお泊まりしていたエリーもしっぽを振って出迎えてくれた。
「家族水入らずという時にお邪魔してしまって」
「いやいや、とても嬉しいよ。今年は人が少ないから」
例年なら近くに住んでいる弟夫婦とその子供もやってくるそうだが、今回は第二子の出産を控えているということで来ないことに決めたそうだ。挨拶が終わるとダグは「じゃあ俺と父さんは準備があるから、適当にしてて」と告げ、きょとんとしているウィルを置いてキッチンに消えて行った。母親が「我が家では感謝祭のディナーは男性陣が作る決まりなの」と補足する。
「じゃあ俺も…」
「いいの、お客さんなんだから。それよりコーヒーでも飲みながら昔のダグラスの写真を見ない?」
「あ、見たいです」
お言葉に甘えてマグカップを手に2階へ上がる。昔はダグの自室だったという部屋に通され、学習机にアルバムを広げてもらって並んで座った。母親も久しぶりに見るそうで、懐かしみながら解説を交えてページをめくってくれる。
ぱっと見ただけでやんちゃな子だなというのが伝わって来る写真ばかりだった。バースデーケーキを前にピースサインを突き出している写真、自転車でこけて大泣きしている写真、弟とすっぽんぽんでじゃれ合っている写真、泣き出すのを堪えたしかめ面で擦りむいた膝を手当てしてもらっている写真。明るい家庭で健やかにすくすく育ったのだろう。勉強はまるでだめだったと以前自分で言っていたが、そのぶん太陽の光を一杯に浴びて生きてきました、という雰囲気に溢れている。
ウィルの家庭は姉は歳が離れているし母は働いていたので家で賑やかに過ごした記憶がない。ひねた子供だったのでアルバムを見ても大概冷めた顔をしている。思い返しても可愛げのない幼少期だった。
「恋人を連れて来てくれたのは初めてなの。だから本当にうれしい」
明るく弾んだ声に顔を上げると、ダグと同じ色合いのブルーの目と目が合った。唐突に、ダグラス・モブレーは親とその親とそのまた親と、延々と連なる先祖たちの遺伝子を受け継いでできてるんだな、という実感が胸に滑り込んできた。自分たちはその遺伝子のアンカーだ。少しだけ寂しい事実。
「あの子すごくシャイだから、」
「はい?」
失礼ながら目をひん剥いて聞き返してしまった。まさかその形容詞が出てくるとは思わなかった。母親は気を悪くした風もなくくすくすと笑う。
「そうは見えないでしょうけど、昔から好きな人にほど遠慮しちゃって近づけなくなる性格なの。だから自分から声をかけたなんて聞いてびっくり」
「……そんな、言い方が変かもしれませんが、頑張ってる風には見えませんでした」
「会ったのが外国じゃなかったら見てるだけで終わったんじゃないかと思う。それがいつものパターンなのよ。でもすぐ踏み出さないと二度と会えなくなるのがわかってたから勇気を出したんだと思う。あなたの話をするときの彼の顔、子供の頃に戻ったみたい」
細い指がなぞる先、アイスを頬張って口の周りをべどべとに汚している無邪気な少年の写真を見下ろしながら、一緒にご飯食べない? と初めて誘われた時のことをウィルは思い出していた。人懐っこい顔でにこにこしていた。彼氏になってとはっきり言われてウィルが事実上振った時も、何もなかったみたいな顔で笑っていた。最初の時、駅で待っていたダグに言った断り文句が嘘だったことがいなんとなく言い出せず、いまだに彼はウィルが腹を下しやすいと思っていて肌寒い日には心配される。
マグカップを置いて衝動的に立ち上がった。
「ちょっとごめんなさい、抱き締めてきていいですか」
「どうぞ」
微笑ましげに笑ってもらえて幸いだった。居ても立ってもいられずに大急ぎで階下へ行くと、ダグはリビングのテーブルに花を飾っているところだった。足音に気付いて「どうしたの?」と顔を上げた恋人に飛びつくようにして抱きつくと、「なに?」と耳元で声が笑う。
「なんでもない。来てよかった」
「それ言うのはまだ早いよ、これから我が家に代々伝わるおいしいケーキ焼くからね」
歌うような抑揚で言ったダグの手がぽんぽんと背中を叩く。その時初めてはっきりと、確信的に、ずっと一緒にいたい、と思った。
逆にダグをウィルの家族に紹介するのはその年のクリスマスになった。
ウィルは母子家庭に育ってその母を二十代前半のうちに病気で亡くした。以来クリスマス休暇は唯一のきょうだいである姉夫婦の家(まだ小さい甥っ子がいる)の家に行くのが毎年恒例だ。本来ならホリデーはダグも家族で過ごす時間だが、なにせ会える機会が少ないので今年はまるまるイギリスに滞在しウィルと行動を共にするということで話がまとまった。電話で恋人を連れて行くと伝えると姉は「本当に?」といっそ怪訝な声で聞き返してきた。そういえば随分前におまえは一生独身だって予言されたな。
それが当たり前なのかもしれないがダグは微塵も緊張した様子はなく、むしろウィルの方がぎこちなく姉にダグを紹介した。
「こんにちは、お会いできて嬉しいです」
「遠い所からようこそ。この時期は飛行機代が高いでしょう?」
「ええ、でも行き来する時の旅費はふたりで半分ずつ負担する約束なので。それに最近はウィルに会いに来るために働いているようなものですから」
自分の家族とダグが笑い合っている光景はなんともむずむずした。馴染んでいる筈の自分の方が会話に上手く入れず、疲れ切った状態でゲストルームに引っ込んでふたりきりになるとようやく一息つけた。ベッドに俯せに寝そべってSNSをチェックしていると、荷物をごそごそ引っ掻き回していたダグがひょいと腰を跨いで上に座った。
「重い…」
「まだ当日じゃないけどクリスマスプレゼント」
「ありがとう」
「開けて開けて」
視界に割り込むようにして差し出された薄っぺらい四角い包みを受け取ってすぐべりべりと破って開けると(ラッピングを眺めて喜ぶ習慣がない)、出てきたのはパンツだった。しかも真っ赤の、ビキニタイプの布面積が少ないやつ。なおウィルは普段もっぱら黒かグレーのボクサーズブリーフを穿いている。無言で目の前に掲げて眺めてから首を捻ってダグを見上げると、「今穿いてほしいなー」ときらきらした笑顔で言われた。
「ありえない」
自分にとってはジョークグッズの域だ。
「えー、じゃあいつかサプライズで穿いてて」
「なにサプライズって」
「ズボン脱がした時にしれっと穿いててくれたら興奮する」
「はいはい」
たぶん箪笥の肥やしになるな、と思いながら枕元に放り出した。ダグの趣味には時々ついていけない。逆もしかりなのだが。
姉夫婦の家からお暇する頃には甥っ子がすっかりダグに懐いていて、まだ遊びたいとわあわあ泣かれて大変だった。「また来るからね」と笑って抱き上げた甥っ子をくるくる回して宥めるダグを見ながら、姉が小声で「奇跡」とシンプルな感想を述べた。家族だからわかる、最大の賛辞であり戒めであり祝福だ。
「知ってる」
奇跡だよ。
気付いたらふたりが出会った時からそれなりの時間が経った。
基本の通信手段はスカイプとメールだったが、三か月に一回くらい早朝に突然電話がかかってくることがあった。出ないと何度でもかけてくるので仕方なく眠い目を擦りながらベッドの中で応じる。
「また電話料金が馬鹿みたいに高くなるぞ」
電話をとるなりそう告げてやったが、ダグは気にした風も無く『ハイ、スウィートハート』と甘ったるく呼び掛けてくる。また飲みすぎているらしい。この恋人には仕事でストレスが溜まると深酒をする悪癖がある。
『あのね、だいすき』
舌っ足らずな口調で告げられる言葉に目を閉じて耳を傾ける。目を開けたら目の前にいたらいいのに。
「ありがと」
『だいすきだよ』
「俺もだよ」
『ほんと?』
「だから会いに来て。今すぐ飛行機乗って来て。会いたい」
『わかった、いく。すぐだよ』
ベロベロになって電話をかけてくる時、決まってダグは喋っている途中で寝てしまって、翌日にはもう会話の内容を忘れている。だからウィルもこっそりと素面の彼には言えない本音を吐露する。
「会えなくても俺以外の男と寝たりしないで。ダグ。俺よりもタイプな相手に誘われても絶対ついて行かないで」
『ウィル以上にホットなやつがこの地球上にいるの? びっくり、こんど探してみるね。まって、パスポートがねー、どこいったかな。まってて、すぐそっちいく』
どちらにしろ実現しないことは知っている、知っているが、「俺も会いたいよ」で終わらせずにいつだって「行くよ」と断言してくれるダグが好きだった。やがて無音になった電話の向こう側に少しの間耳を澄ましていてから通話を切る。携帯を枕元に投げ出して溜息を吐いた。
次に会える日を指折り数えて待つ生活は、時を経るごとに辛くなっていった。
「もしも将来プロポーズしたら結婚してくれる?」
という質問を、ふとしたタイミングで何度かダグからされた。答えは常にイエスだった。迷う余地などない。
出会ってからの5年間で、喧嘩をして別れかけたことは何度かあった。キャリアアップのために資格取得を目指している最中にダグから「俺は仕事が忙しくても必ずまめに連絡するのにウィルはなんで自分が忙しくなると平気で無視するの」と怒られて嫌になったこともあったし、デート中に少しウィルが離れた隙にダグがひとりで観光している青年に声をかけておしゃべりしているのを見て口論になったこともあったし、なかなか会えないもどかしさが不満や嫉妬に転化することはお互いによくあった。離れると圧倒的に寂しくなるくせにウィルは意地で自分から折れることができず、そういうことがあった後に連絡をとるのは必ずダグからだった。「俺はウィル以外との未来は思い描けない」ときっぱり言ってくれた。
自分がダグに相応しいのかは未だによくわからない。たぶん確信を持てることなんて一生ない。
ある日、ちょっと買い物に出て帰宅したら、フラットの前をうろちょろしている長身の男と目が合った。一瞬我が目を疑ったが見紛うはずもない。紙袋を抱えて呆然として立ち尽くすウィルをよそに手ぶらのダグは嬉しそうに駆け寄ってきた。
「きちゃった」
それつまらないドラマの中でトラブル引き起こす頭ん中スカスカの噛ませ犬キャラの台詞だろ。
二日後の昼ごろに来る予定だったはずだ。それを前提に動いていた。反応が芳しくなかったからかダグはふと笑みを収め、「長く休みがとれて、驚かせようと思って」とどこかしゅんとして説明した。ウィルは無意識にぐしゃぐしゃと髪をかきまぜた。
「あー…今ちょっと大掃除してて家の中には入れられないんだ」
そうなんだ、そんなことより久しぶりに会えたんだから嬉しそうな顔してよ、とダグはいつもならにこにこと言っていただろう。しかしウィルの言葉から嘘の気配を感じたらしく、少しの間を置いてただ「そっか」と妙に平べったい口調で答えた。
「荷物貸して。玄関まで運ぶよ」
「…………」
仕方なく抱えた紙袋をひとつ渡した。玄関までなら大丈夫だろう、と思ったのだが、鍵を差し込んでドアを開けた瞬間バターとガーリックの匂いが鼻をついてウィルは小さく溜息を吐いた。ウィルが自炊をしない上、できあいの品を買って来ても面倒がってレンジにかけさえしないことを恋人はよく知っている。案の定ダグは何かを悟ったようにぴたりと足を止めた。
「……誰か来てるの?」
表情にみるみる悲しみが満ちて行くのを絶望的な気持ちで見上げた。こんな予定じゃなかったのに。
「家に料理を作りにきてくれる人がいるの? 俺に隠すような人?」
「ダグ…ちょっと説明しづらいんだ」
「わかった、考えを整理してからでいいよ、出直す。後でちゃんと説明して」
「待って」
動揺しながらも引き下がろうとしたダグの手を取って止めた。こうなったらもう仕方ない。
「入っていいよ」
促すと唇を引き結んだダグは何も言わずに従う。
キッチンのシンクとリビングのテーブルは物で溢れ返っていた。調理器具、まだ未使用の食器、食材、作りかけの料理、レシピ本。改めて見るとひどい散らかりようだ。惨状を目にして眉をひそめたダグに渋々「明後日のディナーを作る練習をしてたんだ」と説明しながらソファに放り出されていたにじゃがいもをどける。
「ディナー?」
初めて聞いた単語だというように復唱したダグは、ソファに座りながらまだ状況がわかりかねている顔で首を傾げた。
「何かの記念日だっけ?」
「いや。でもたまにはいいだろ。それこそ驚かせたかったんだけど」
まさかサプライズの計画がかぶるとは。ダグの表情はみるみる情けないものに変わった。
「ごめん、俺なんてことしちゃったんだろう」
「いいよ」
「今日と明日はホテルとるよ。えっと、楽しみにしてる。そうだ、ケーキ買ってくる? ワインとか?」
「デザートも飲み物も用意してある」
「そっか。本当にごめんね。疑ったりしてごめんね。俺なにやってるんだろう」
「いいって」
そのうち壁に頭を打ち付け始めるんじゃないかという落ち込みように思わず少し笑ってしまった。正面に立つと先生に叱られた生徒みたいに神妙な顔で見上げてきたので、屈みこんでキスをした。額と額をぶつけ、目の前にいる、と確認し合う。
「会いに来てくれてありがとう」
囁くとやっとダグはにこっと笑った。そのまま寝室に連れ込みたいのを堪えて、じゃあ明後日、と改めて約束を交わした。
ディナーはかぼちゃのスープに豆をたっぷり入れたサラダ、トマトとモッツァレラのカプレーゼ、ローストビーフ、マカロニグラタン、ハッシュドポテトという顔ぶれを用意した。どれもダグの好物だ。元々ソファの前に置いてある小さなロウテーブルだけではとても並べきらなかったので新しく組み立て式のテーブルと椅子を二脚買って所狭しと並べたらそれなりに豪華な食事に見えた。
ここ最近毎日練習で同じメニューを作って自分で消費していたので飽き飽きして微塵もおいしいとは感じなかったし緊張でろくに喉を通らなかったが、ダグはおいしいおいしいと嬉しそうに平らげてくれたので出来は悪くなかったらしい。簡単なメニューではあるがじゃがいもの芽をとろうとして親指をざっくり切るところからスタートしたことを思えば自分の成長を大いに誇りたい。
デザートのアップルパイをあたためてアイスクリームを載せて出すと、ダグはウィルの顔と皿とを交互に忙しなく見た。
「これもウィルが作ったの?」
「うん。リジーにレシピを教えてもらった」
「リジーが教えてくれたの!? すごい!」
「いつもの不機嫌顔だったけど丁寧に書いてくれたよ」
元々アップルパイを教わるつもりではなく、報告したいことがあって食事がてら訪れたのだが、話を聞いて何も言わずに店の奥に引っ込んだリジーはレシピを走り書きした紙と包んだアップルパイを持って戻って来て、「裏メニュー。ダグが気に入ってたから」とぞんざいに手渡されたのだった。練習した中で一番うまくいかずてこずったのがこのパイだったが、一口食べたダグはぶんぶんと首を縦に振って無言でおいしいと表現した。
すっかり食べ終えてテーブルの上を片づけたところで、ウィルはそっと寝室に行って念のためベッドの下に隠していたものを取り出した。深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着けてからリビングに戻ると。ダグはソファで寛ぎながら写真に撮った料理の数々を嬉しそうに見返しているところだった。
「お腹いっぱいなのに写真見てるとまた食べたくなってきちゃう」
はしゃいでいるダグの正面に立って見下ろすと、ぱちぱちと瞬きをして見返してきたダグは不安げに携帯をしまって「なに?」と尋ねた。ウィルは意識して何回か唾を飲みこんだ。
「話がある」
「……うん」
「正直もっとスマートに進行する予定だったけど、まあなんというか、俺のことだから上手くいかなくて。本当は旅行先でとか、レストランを予約してとか、するべきなのかもしれないけど」
パーカーのポケットに差し入れた手がかたかたと小さく震える。当惑したダグの目から目を逸らして、指輪の入った箱を取り出した。その場に片膝をつくというかっこいい仕草は恥ずかしくてできず、突っ立ったままてのひらの上で箱を開けた。ダグの母親に相談してそれとなくサイズを聞き出してもらったので入らないということはないはずだ。注文はネットでした――婚約指輪という大事な記念品をオンラインで買うのはどうなのだろうとひとり悩んだのだが、婚約指輪を購入するゲイカップルの多くは店員とややこしい会話をしたくないという理由で店に足を運ぶことを厭うらしく、調べてみたらオンラインのサービスがたくさんあった。ホワイトゴールドのごくシンプルな指輪の内側には名前が刻印してある。
「話し合わなくちゃいけないことは山ほどあると思うんだけど、どうしても俺から言いたかったから。ダグラス、結婚してくれる? 将来的に一緒の家に住んでほしい」
目を合わせられないまま口にして、おそるおそる視線を上げて――ダグの表情は確認できなかった。その前に飛びつかれて床に倒れたから。危うく指輪が手の中から吹っ飛ぶところだったし背中を打ちつけて一瞬呼吸が止まったしかなり痛かったが、ダグは気にする風もなくぎゅうぎゅう抱きついてきた。顔が首筋に埋められているせいで表情はやはり見えない。
「…答えは?」
つんつんする後頭部を撫でながら尋ねると、ダグは「イエス」と大きく頷いた。
「イエスイエスイエスイエス」
掠れた声で繰り返し、ようやっと顔を上げたダグはぼろぼろと涙をこぼしていた。そうして洟を啜りあげながら何を言うかと思えば「でも俺もプロポーズしたかった」と悔しがる。安堵の溜息を吐いてから「して」と促した。「聞きたい」と。
「俺と結婚してください、ウィリアム」
「はい」
「俺を旦那さんにしてください」
「…はい」
「家族になろう」
「何回する気?」
「何パターンも考えてたんだよ。でもウィルほど最高なプロポーズはできなかったと思う」
覆いかぶさったまま泣き笑いするダグに、首を持ち上げてキスをする。自分の手はまだ緊張の名残で震えていて、それを慈しむように包んでくれる大きな手のあたたかさを、『幸福』以外になんと呼んだらいいのかわからなかった。
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