恋とクレープ

 クレープの何がいいんだよ、と思っていた。
 何せ生クリームにチョコレートソースをかけてぺらぺらの紙みたいな生地に包んだだけのお手軽料理で350円もボるのだ。信じられない。350円あればマックで小腹を満たせるし、そこそこ良いケーキだって買える。クレープの場合はもしもそんなしょぼい具ではなくそれなりにそそられるチョイスをすれば更に100円200円が平気で加算される。
 しかし時に彼女に付き合わされて繁華街やどこぞのショッピングビルに行くと並んでまでこれを買う女子供の多いこと多いこと。しかしクレープのみならずフルーツの載ったパンケーキだとかチョコレートフォンデュだとかもやたらに高いから、心をくすぐるものに対しては出費を惜しまない女の心理を利用してふんだくる商法なのだと思っていた。ネズミーランドの食べ物が高いのと同じで。
「クレープってほら、注文貰ってから焼くからその間にお客さんと喋れるんだよね」
 生成り色のバンダナを頭に巻いた店員が、生地を鉄板に広げながら言う。何気なく真ん丸を作り上げているが、やってみると意外に難しいんだろうなこれ、というのは予測できる。
「お喋りを楽しみにとか、顔見せにまた来てくれるお客さんもいるよ」
 そらそうでしょうね、お兄さんイケメンだもん。女子っていうのはこういう、無責任に無邪気にキャーキャー言える対象が好きなものだ。すぐに火の通る生地の上にテキパキと載せられたのは、イチゴと生クリームと細切りのチーズケーキ。
「きみみたいに」
 くるくると畳まれたクレープが、はい、と差し出される。受け取りながら、「俺のこと覚えてたんですね」と呟いた。青年は声を立てて笑った。つくづく爽やかな笑い方だ。
「忘れる訳ないじゃん、あんなに公然と修羅場展開してた青年を。ていうかきみこそ本当に来てくれるとはね」
「俺が嘘ついてるって思ったんすか?」
「やだな、そういう意味じゃないよ。後から気まずく思うかなーって」
 あんなシーン見ちゃった訳だし、と首を傾げられて、「ああ、忘れてました」と答えてから、それもどうなのだろうと自分に対して思った。
 駅前でこれみよがしに女にビンタされて別れを告げられて、それをこの青年に慰められてから五日。「絶対来ます」の宣言通り、宮古は大学の帰り道、水曜の夕方に『シャンス・クレープ』を訪れた。
 オススメシールが貼ってあったので頼んだストロベリー&チーズケーキ、450円なり。「値引きしてください」と言ってみたが「あんま利益出てないから勘弁して」と一蹴された。確かに繁華街のクレープ屋と違って列ができているでも物欲しげに覗いていく通行人がいるでもない。繁盛していないのをいいことにクレープにかぶりつきつつ話しを続けさせてもらうことにした。
 クレープの何がいいんだよ、と思っていた、が、こうして作るところを眺めながら会話をして、妙にそそられる見た目の甘味をぱくつくのは、まあ悪くはない。片手で食えるし。
「その後彼女できた?」
「そんなすぐできる訳ないでしょ」
「えーだってきみ大学生でしょ、切れ目なくてもおかしくないよ。じゃあ彼氏は?」
「…あの、前も思ったんすけど、引かないんすか?」
 青年は別に平気な態度を取り繕っている風もなく、「俺中高男子校でさ」と説明した。
「友達が男の先輩と付き合ってた時期あるから」
「お兄さんは経験ないんすか」
「ないね、男にはモテなかったし」
 男には、っていう前置きが嫌味だ。イチゴとチーズケーキが早々になくなってしまって生クリームと生地だけになったクレープを咀嚼しながら(生地なんてないようなものだから安い生クリームを食ってるようなものだ)、自分なりに思い切って尋ねてみた。
「じゃあ今、彼女は?」
「いないよー」
「じゃ、暇なんですか」
「彼女いないイコール暇ではないでしょうよ」
 そうなのかな、と思った。宮古は彼女に呼び出されない限り休日に家を出ることはない。だから彼女いないイコール暇だし、暇を持て余して彼女を作る。大学の友人とはわざわざ休日に会ったりはしないし。
 この人は休みの日に何をするんだろう、やっぱり草野球とかフットサルとかするんだろうか。Tシャツから覗いた腕には薄く筋肉がついているから、何かスポーツをしている気はする。
 今まで付き合ってきた彼女たちは、常に学校が一緒だった。中学、高校、大学。年齢差はあっても2歳までだったし、大概家が近かったし、ある程度経済力も知れていて、価値観や生活形態に大きな差はなかった。興味の範囲も年代が同じゆえにある程度はかぶっていたから話そうと思えばダラダラといつまでも話せた。
 けれど今、名前すら知らない年上の男を前に、何も解らないことに気付く。どういう生まれ育ちなのか、どういう一日を送っているのか、どういうことに金を遣うのか、何を話せばいいのか。何一つちゃんと想像ができない。
 そしてそれを知りたいと、生まれて初めて思っている。本人の口から一つずつ、時間をかけて聞きたい。
「――飯食いに行きません?」
 二の腕を眺めながら、気付いたら口走っていた。一瞬後にハッとして顔を見ると、青年は驚いたように数秒の間を置いてから、にこ、と笑った。
 その瞬間、あ、この人は何もかもお見通しなんだ、と思った。
 それはそうか、イケメンで、日々不特定多数を相手に客商売をしていて、他人から寄せられる好意には鋭敏にもなるだろう。だからきっと上手に、傷つけずに、後腐れなくお断りする言葉をこの人はこれから口にする。はえーよ俺もうフラれるのかよ。こんな短期間に二回もフラれるのは人生初だ。
「19時に、」
 ちらっと車内に視線を走らせたのは、時計を確認しているのか。律儀にこちらに視線を戻してから言葉を続ける。
「店閉めてから家ん近くの駐車場に停めて来るから、そしたら着替えて電車でこの駅に戻ってくる。待っててくれる?」
 何を言っているのか咄嗟にわからなかった。理解した瞬間ぶわっと体中の毛細血管が膨らんだ気がした。
 俄かに緊張しながらクレープの包み紙をくしゃくしゃ丸め、備え付けられたゴミ箱に放り込む。
「待ってますよ。来なくても待ってますからね」
 仮に体よく追い払っておいて、実際には来ないつもりだったとしても。すると青年は悪戯っぽく口角を上げた。
「『絶対来ます』」
 ああちくしょう、かっこいいな。

 * * *

 なんでOKしてくれたんすか、とファミレスで席に案内されるのを待ちながら尋ねたら、面白そうだから、と端的に帰ってきた。
 青年は『トムラ慧』という名前で(苗字の漢字は解らない。下の漢字は「ハレー彗星の年に生まれたからサトシだよ、単純だろ」と名乗られたので解った)、歳は28歳、クレープ屋は元々友人がやっていた仕事を引き継いでやっているらしい。
「元々色々試してみるのが好きでさ。高校卒業してからずっとバイト転々としてるんだ」
 ピリ辛担担麺を啜る合間に慧は言った。
「変な体験できて面白いぜ。一回データ打ち込むバイトで入った会社がなんか違法な事やってたらしくてさ、ガサ入れ来る前に急遽解散になってその場にいた人間に現金山分けされた事あって。かなりの額だったけど持ってたくなかったからその足でシンガポール行ってカジノに全額使ったの。小金持ちになった気がしてたけど、ルーレットに突っ込んだら瞬殺だったなあ」
 その他にも、クレーム処理係をやっていたら電話相手の老人に気に入られて茶に招かれた話、ペットの散歩代行で出会ったアホな犬の話、ピザ屋の配達先でセクシーな熟女に誘われて焦った話、夜間工事と清掃のバイト掛け持ちでみっちり半年働いて稼いだ後、半年海外に滞在してあちこちに登山した話。
 話を聞きながら、宮古は徐々に納得していた。この人から滲み出る魅力というのは顔の造作の良さからだけじゃなくて、経験の豊富さから来ているのだ。なんの紆余曲折もなく生きてきたスポーツマンタイプ、のイメージだったのが塗り替えられていく。今からでは到底追いつけないくらいの人生経験をしているようだ。
「すげー色々やってんですね」
「でも男と寝るってのは経験ないよ」
「うわ、今蒸し返します?」
 明るいファミレスの店内で素面で言われると少々気まずい。衝立を隔てた隣の席には女子高生がいるのだが。まあキャアキャアとはしゃいでいるので到底こちらの話など耳に入っていないだろうが。
 宮古の頼んだチーズインハンバーグは妙に時間がかかっているらしくまだ来ていなくて、テーブルに貼られたサイドメニューの、剥がれかけた角っこを無意識に人差し指でなぞる。と、慧の顔がぐいっと近づいてきた。
「興味本位で聞きたいんだけど、率直に言って男同士って気持ち良かった?」
 声を潜めて尋ねられ、不覚にもドキッとした。
「…率直に言って…」
「うん」
「初体験の次に衝撃的な気持ちよさでした」
 まあそんな快楽よりも親友が親友ではなくなってしまった後悔の方が勝っているが。中学からの友達で、男らしくていいヤツだった。元々ベタベタと付き合っていた訳ではないが、たまに思い立ったように誘われて二人で遊ぶ間柄だった。
 これから遊ぶ相手は誰もいなくなるなあ。かといって新しく親しい相手を作ろうという意気もない自分が自分で悲しい。
「へー、じゃあ向いてたんだ。というか、きみはどっち側だったの?」
 何の邪気もなさそうな目で突っ込まれ、何の話をしているのか感覚が麻痺しそうになる。
「…入れる方です」
「えっ!? そっち!?」
 目を見開いてのけぞる。こっちからしたら今更そんなことで驚かれる方が驚きだ。
「意外です?」
「意外です意外です。え、それで相手は? 気持ちよさそうだった?」
「…じゃないすかねえ…2回イってたし…」
「ちょっと待てよ?」
 箸を手放した慧が腕組みをした。ラーメン屋の看板みたいだな、と思いながらそれを見る。そう、クレープ屋の店員よりもラーメン屋の若店長っぽい。今はジーンズとパーカーというラフな私服姿なのでそうでもないが、バンダナを巻いていると特にそう見える。
「きみの親友、彼女は?」
「は? さあ。あいつとはあんまそういう話しなかったんで」
「二人で旅行って、それまでもしたことあった?」
「何度かありますよ、貧乏旅行なんでいっつもやっすいせっまいホテルですけど」
「それさー…」
 慧はしばらく思案気に首を傾げていたが、唐突に「まあいいや」と眉間の皺をほどいて再び皿に向き直った。
「えっ。なんすか、気になる」
「いや、知らない方がいいこともある」
「怖え!」
 そこでタイミングが良いのか悪いのか宮古が頼んでいた料理が到着して、会話がなんとなく流れてしまった。気になりつつもナイフとフォークを使うことに集中する。子供の頃からカトラリーを使うのが下手で、気を抜くと汁を飛び散らかしたりおかずを落としたりしてしまうので危険だ。
 先に食べ終えた慧は何を喋りかけて来るでもなくぼんやりとその不器用な手つきを見ている。あまり見られると緊張するので、宮古は「携帯とかいじっていいですよ」と告げた。すると予想外な答えが返ってくる。
「持ってない」
「…まじすか? 今どき?」
「仕事で必要な時は契約するけど、今は持ってないよ」
「俺の想像を超えてエキセントリックっす」
「なにそれ」
 白い歯を見せて笑う。ふと思い至って宮古は尋ねた。
「クレープ屋は、いつまでやるんですか?」
「んー? 後継者が見つかるまで」
「ふーん…辞めたら女の子が泣きそうすね」
「そんなに人気のある店じゃないよ」
「じゃなくて…」
 わかるだろうに。口を尖らせると、「俺だって別に、そんなに人気ないよ」と首を傾げられた。
「飯に誘われたのもきみが初めてだもん。だからテンション上がってる、俺」
 そんな台詞と共に満面の笑みを向けられて、ちょうどライスを口に入れたところだったので噎せかけた。頬杖をついて悠然と、慧は続ける。
「きみがモテるのはわかるなぁ」
「…嫌味ですか?」
「なんで。一般人より玄人の女の子にモテそう。ほっとけないっていうかさ、捕まえてみたくなるタイプなんだろうね」
「言われたことないっすよ…」
「――じゃあ俺だけがそう思うのかな」
 再び、ドキッと心臓が疼いだ。僅かにトーンの落ちた、独り言のような問い掛けのような呟き。まっすぐに突き刺さってくる視線をとてもではないが正面切って受け止められない。相手にはそんな気はないのにひとりで緊張して馬鹿みたいだとは思うが、解っていてもどうしようもなく緊張する。
 グリーンピースを掬い上げようとしたフォークがかたっと震えて、ミックスベジタブルが数粒、テーブルの上に零れ落ちた。慌ててフォークと指を使って鉄板の上に戻すと、テーブルについたソースの汚れを、伸びてきた手が紙ナプキンで拭った。
「すいません」
 いたたまれなさに身体が縮こまる。謝罪の言葉に反応はなく、そろそろと顔を上げると、慧は真顔だった。
「名前、聞いてなかった」
「…ああ。宮古夕です」
「ユウってどういう字?」
「カタカナのタみたいな」
「………ああ、夕方の夕ね」
 普通そっちで説明しない? と呆れられて、そうかな、と思った。普通とか常識とか、それに背徳とか、そういう感覚が自分には足りないのかもしれない。
「じゃ、夕が週に一回クレープ食いに来てくれる限り、今の仕事続けようかな」
 使用済みの紙ナプキンをクレープみたいな細長い三角形に折りながら、慧は呟いた。
 それってからかってるんすか。それとも商売の一環なんすか。
 その質問をぶつけることができない。駆け引きもできずに直截的に尋ねるのは子どもっぽい気がして。
「………行きますよ、まじで」
「お。今度は『絶対』じゃないのか」
「肉体労働のバイト始めないと…」
「そんなに金ないの?」
「違います、週一であんなカロリーと砂糖の塊みたいなもん食うなら運動しないとまずいでしょ。日頃粗食なんで」
 稼げば一石二鳥、とVサインを突き出すと、「別に無理して来なくてもいいのに」と目を細められた。本当に慧にとってはいつまで店をやるかなんてどうでもいいのだろう。むしろ次の未体験を試してみたくてうずうずしているのかもしれない。
 でも、もう行く以外の選択肢がないんだ、どうしようもないんだ。
 完璧な完成品であるこの人を丁寧にほどいて開いて、中にどんなものがあるのか見てみたくなっている。

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[ ][→#]
[mokuji]



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