初恋は実らないか

 自覚した時には遅すぎた。遅すぎるという言葉では生ぬるいくらい遅すぎた。なにせあれから5年が経っていたからだ。
 日向太が小五の年の秋から始まった工事は翌年春には終わってしまっていた。冬休みおよび春休みの昼時には日向太は必ず店を覗いたが、紺色の作業着の男がいたとしてもそれは茶髪のお兄さんではなかった。母親曰く普段は作業着の男たちは一人か二人で来るし、茶髪のお兄さんはあの日以外見掛けなかったので、一日だけの手伝いか本社から検査の類に来ていたのだろうということだった。現場を観に行こうとも思ったが、作業着の男たちはいつも会社のロゴの入った軽自動車で店に来ていたので場所が特定できなかった。なにせ道路なんてそこら中に横たわっている。
 次第に日向太はその存在を忘れて行った。そもそも一回だけ会ってごく短時間会話しただけの相手だ。妙に印象的だったとはいえど。
 小中と取り立てて好きな相手はおらず、それを変だとも思わずに男友達とつるみながらすくすく育った日向太は、高1の時に生まれて初めて彼女ができた。同じクラスの可愛い子で、向こうから告白されてなんとなくOKした。
 しかし恋をするという気持ちはよくわからなかった。手を繋いで歩いても、ふたりでカラオケに行っても、別にドキドキもしなかったし、容姿への客観的評価以上の「かわいい」や、ましてや友達の言うような「ヤリたい」という気持ちも湧いてこなかった。一学期の後半から付き合い始めたのだが夏休み中の遠回しな『会いたい』という連絡をのらりくらりとかわしていたらその子とは自然消滅で別れてしまった。
 日頃のオカズは普通に男女モノだ。でも容姿の好みや傾向(人妻とかナースとか女子高生風とか)の好みは特にない。女優だけではなくてふたり(かそれ以上)の絡みがしっかり映ってるのが好きかな、という程度。
 あれ、これ俺女側に感情移入してねーか、と思ったのは彼女と別れた直後のことだった。自分がほそっこいオンナノコを組み敷くのは想像できないのに、しなやかな筋肉のついた大人の男にのしかかられるのは思い浮かべたら興奮した。自覚してAVを見たら初めて以降自分史上最速でヌけた。そして最速で最深の賢者タイムに突入した。
 ああ俺ってそうなんだー、へー、嘘だろまじで?
 その夜は枕に涙を染み込ませた。そしてシーツには口には出せない液体を。その時までは全然思い出さなかったのに、なぜか脳内では完全に、自分の上にいるのは『茶髪のお兄さん』だった。「可愛い子やー」と呟いた声質は思い出せずとも、そのあたたかな口調と自分の中のくすぐったい感情は忘れられなかった。

 会社名を覚えていたのは父親だった。
「ああ、ほりゃ城名建設がやろ。昔っからある地元の会社や。地元いうても会社があるのは隣の市やけどの」
 夕食の席で、その一言で息子の進路が決まるとはちっとも予期していない口調で父親は言った。日向太、高3の春のことである。その2年前に母親が腰を悪くして立ち仕事ができなくなったのをきっかけに定食屋を畳むことになり、父親は洋食屋にシェフとして雇われていた。
 なんとなく大学には進もうと思っていたが、勉強の内容を決めかねていた日向太は、土木工学の方面へ進む事に決めた。初恋の人を追いかけて…といえば聞こえはいいが、本当に何も勉強したいことがなかったので「それでいいや」と流れに身を任せた形だ。建築士なら――稼げるかどうかはともかく――仕事にあぶれることはないだろうし。
 城名建設は中小企業で、従業員は100人にも満たないが業績は安定した会社だった。給料はさして良くなかったが、求人票を見た時日向太は一も二も無く飛びついた。近年は深刻な人手不足(特に若手)らしく、入社するのは難しいことではなかった。
 研修期間の間、日向太はひたすら『茶髪のお兄さん』を目で探した。もう茶髪ではないかもしれないし、30は確実に超えているからお兄さんという歳でもないだろうが、とにかく紺色の作業着の中からあの顔を探した。本社での座学や現場での実地研修で教えてくれた社員の中には少なくともいなかった。
 入社して約一週間後に社内の一番大きい会議室で行われた新入社員歓迎会は、社長も出席する全社的なもので、社員はほぼ全員出揃っているとのことだったが、その中でも探し人を見つけることはできなかった。日向太は仕方なくお酌用の日本酒の瓶を確保し、在籍の長い上司の隣に滑り込んで尋ねてみることにした。11年前に定食屋付近で道路の補修を担当していた茶髪のお兄さんは誰なのかと。
 偶然にもその上司は同工事を担当していたらしく、「え、お前あの定食屋のボンやったんけ」と驚かれてから「それたぶん河埜やが」と言った。
「河埜潤之助ってやつ。懐っこくて犬みたいなやつでよー。お前なんで河埜なん探しとるが? あいつ食い逃げでもしたけ?」
「あー、いやー、実は小学生の頃ハンカチをお借りしまして、それをずっと返そうと持っとって」
「まじで!? 今どきの若者とは思えん義理堅い性格しとるじー」
 壮年の上司は日向太が咄嗟にでっちあげた理由にひとしきり感心してから日本酒をぐびぐび飲み、「でも」と残念そうに続けた。
 「もー辞めてしもて」と。

 土手を往くランドセルの集団を眺めながら、日向太はそれらの出来事を思い出していた。
 就職して以来ずっと、インフルエンザの流行る季節には思い出すのだ。今となっては茶髪のお兄さんを追いかけていた頃のことは甘酸っぱい思い出になりつつある。
 果たして人が誰かを好きになるのは何の作用が大きいのだろう。遺伝子か、それまでの経験か、フェロモンか、前世か、はたまた運命か。どうしてなのかはさっぱりわからないが、とにかく好きになる時には好きになるのだ。
 と、ゴン!と鈍い音が頭頂部から響いて、日向太は反射的に肩を竦めた。ヘルメット越しに殴られたのだ。拡声器を手に振り向くと、紺色の作業着の上に分厚い防寒着を羽織った先輩がいる。
「ひゅー、ぼっとすんなや」
「…はあい。すいません」
「ほら、修正した図面できたで、役所行って来い」
「行きます!」
 飛びつくように答えると、先輩は「変なやつやの」と苦笑した。
 図面ごときメールでもファックスでも送れるのだが、現場事務所から役所までは車で5分程度なので直接出向くのはそう手間ではない。ガソリンは無駄に使っていることになるが、発注者とのコミュニケーションを図るのは大切なことだからと作業所長は許してくれている。
 市役所の中、行政委員会や水道施設課などが集まったフロアはいつも空席が多く閑散と――かつ雑然と――している。日向太は道路公園課の奥の席に目的の顔を見つけた。
「失礼します。城名建設です。河埜さん!」
 受付代わりになっているラテラルキャビネット越しに声を掛けると、スーツを着た河埜はパソコンから顔を上げ、「お」と微笑んで腰を上げた。
 日向太が城名建設に入社した5年も前に、河埜は公務員試験に合格して退社していた。そういう風に転職する社員は少なくないらしい。今はお役所勤め、と聞いて日向太の目の前は暗くなったが、発注者であった場合役所に足を運ぶ機会はものすごく多いのだということを徐々に知った。
 そして入社3年目、日向太が配属された現場の担当が、河埜だったのだ。
 童顔だが河埜は今年で39になるという。日向太の15歳上だ。左手薬指に指輪はない。ちなみにもう髪も染めておらず、黒髪を短く整えている。記憶の中で美化されているのではと危惧していたのだが、河埜はやはり日本犬を思わせる愛くるしい顔立ちをしており、年上ながら可愛かった。
 初めて日向太と顔を合わせた時、河埜は特にリアクションを示さなかった。当然日向太の顔など覚えていない――というか当時の姿を覚えていたとして今の日向太とは結びつかないのだろう。日向太はまだ打ち明けていない。定食屋での邂逅を未だに覚えているということを。
「小野さんはいつも元気ですねぇ」
 ブルーライト対策の眼鏡を外し、河埜がニコニコと日向太を見る。河埜さんに会えるんだからテンションも上がりますって!と言いたい気持ちを抑えて「ほれだけが取り柄なもんで」となるべく大人っぽく見えるように微笑みながら返す。
「河埜さんがいつもあったかく迎えてくださって嬉しいです。あ、これ、変更した図面です、ご確認いただけますか」
「はい、確認させてもらいますね」河埜はクリアファイルを受け取り、そのまま立ち話を続けた。「年末はちゃんと休めそうです?」
「そうですね、施工計画通り進んでますし」
「良かった」
「はい。河埜さんも年末はゆっくりされるんですか。ご旅行とか?」
「実家帰ってゴロゴロするだけです」
 さりげなく探りを入れると眉尻を下げて笑う。うっし!と心の中で全力ガッツポーズ。この分なら彼女はいないだろう。といって発注者と受注者という立場で仕事の関わりがある今、日向太が河埜をデートに誘う訳にはいかないのだが。
「ほれじゃ、何か問題がありましたらご連絡ください。風邪に気をつけてくださいねっ」
 ぺこっと頭を下げた拍子、作業着の胸ポケットに挿していたペン類がぼとぼとと落ちた。慌ててしゃがむと、「あ〜あ〜」と河埜は半笑いでしゃがみこんで一緒に拾ってくれた。すみません、と手を差し出して受け取る。河埜は日向太を見て目を細めた。
「小野さんって、か」
 そこで何故か口をつぐむ。日向太は「なんですか?」と促したが、河埜は何故か慌てた様子で「いえ」と曖昧に濁しただけだった。
「――失礼します」
 今度こそ踵を返してフロアを後にし、1階に降りるためにエレベーターに乗り込んでから、独りきりなのをいいことに日向太は顔を手で覆ってずるずると壁際に座り込んだ。
 今もしかして、「可愛い」って言おうとしなかったか、あの人?
 どうしようどうしよう。仕事中に何こんなに動揺してんだ。あーやばい。幸せ。
「まず、プライベート携帯の番号、ゲットせんなん…」
 どうにかして、と独りごち、日向太はひととき目を閉じて、河埜の慌てた表情の回想に浸ったのだった。








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方言は従兄の使ってるものに俄知識を加えて書いてますので不正確です。該当地域にお住まいの方、見過ごしてやってください、すみません…。

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