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駅の構内に足を踏み入れた瞬間、いつにない混雑具合に嫌な予感はしていた。
改札前まで歩を進めると、案の定、電車の運行情報を表示する電光掲示板が赤く明滅していた。人身事故によるダイヤの乱れ、一部路線は運転見合わせ。毎日のように電車を使って通勤している以上度々遭遇する事態ではあるが、重い溜息を吐かずにはいられなかった。
事故があったのはこの駅とは離れた地下鉄駅だが、その地下鉄路線との直通運転をしている私鉄も煽りを受けて遅延しているらしい。改札を抜けてエスカレーターでホームへ上がると、平常ならとうに来ている筈の急行列車を待って、長い列ができあがっていた。
この様相だと満員電車になるだろう。憂鬱すぎてまた溜息が漏れる。だが、空くのを待って何本か見送れる程には通勤時間に余裕は持っていない。渋々列の最後尾についた。
平原が通勤に利用している電車は通勤時間帯に特別混み合う方面とは逆方面の下りなので、平常なら、座れこそしないが悠々と吊り革を掴めるくらいの乗車率の中で会社の最寄駅まで行ける。電車通勤歴こそ十年に及ぶが、高校は自転車通学、大学は手近な学生寮に住んでいたため徒歩通学だった平原にとって、満員電車は未だに慣れなかった。
ホームには冬の早朝の冷えた風が吹き抜ける。駅までの道を歩く間に温まった身体からぬくもりが奪われていくのが惜しく、平原はマフラーに顎を埋めながら電車の到着を待った。
やがて、何分遅れなのか解らない程にダイヤを無視した車両がホームへ滑り込み、平原と同じように寒さを堪えながら立ち尽くしていた人々が待ちかねたようにドアへと近づいた。車内は既に吊り革や手すりの類は全て埋まっている程度には混んでいて、この駅で減りはしないかと少し期待したのだが、密度が変わる程の人数は降りないままに、ホームからぞろぞろと人が乗車し始める。
電車を待つ間に平原の後ろにも更に列が続いていたようだ。ようやっと車内に足を踏み入れると、身の置き場を探す間もない内に背後から圧迫され、人混みの中へ中へと押し込まれていく。最終的に乗ったドアかとは反対側のドア近くへ追いやられた平原は、前後左右から押しくらまんじゅうのように密着してくる人の隙間からなんとか両手を引っこ抜き、頭上に通っている吊り革の下がった金属パイプへしがみついた。揺れに耐えるために掴まるにしては位置が高く、若干背伸びするような体勢だが、何にも掴まれないよりは良い。近頃は痴漢の冤罪騒ぎも怖いので、両手は人の間に置いておかないに越したことはないと思った。こうしていれば肩掛け鞄がずり落ちてくることもないだろう。
身動きができない程みっちりと乗客を乗せて、電車はのろのろと走り出した。とはいえ冬は必然的に上着を着込む乗客が多く、腕を動かそうものなら誰かの肩や背中にぶつかる上半身に比して足元にはスペースの余裕がある。少しでも安定した姿勢になろうとそろそろと脚を開いた時、平原は、あらぬところに他人の手を感じた。
(…うわ…)
たまたまそこに手が固定されてしまったのだろう。前にいる女性の背中と平原の身体の間に誰かの鞄が挟まっている為に下腹部は見下ろせないが、股間に他人の手の平らしきものが触れている。
横に立っている中年男性の手だろうか…。本人もよもや平原の局部に手を押し付けているという自覚はないだろう。女性ではあるまいし手が当たっているだけで嫌悪感までは抱かないが、気まずい思いで電車が停まるのを待つ。
やがて電車が次の駅のホームへ滑り込むと、先ほどと同じ側――平原とは離れた側の扉が開き、若干数だが乗客が降りるために車内に動きができた。それに乗じてなんとか身体の向きを変えようと、平原が片足を僅かに後退させて腰を捻った時、その腰を抱くようにして誰かの腕が平原の身体を挟んでいる事に気づいた。
黒いコートの下にスーツの袖口を覗かせ、片手にはビジネスバッグを持った男性の手が一瞬見えたが、そこで新たな客の乗車と共に周囲の人間の身体が視界へ割り込んできて、すぐにまた下半身が見通せず身動きもできない状態へ固定された。すると、平原が身動ぎしていた間には確かに離れていた手が、再び元の位置へ戻ってきたのを感じた。
後ろの男に、故意に触られている……?
男性が男性に痴漢をしているというのだろうか。ぞっとしない話だ。偶然だろうと思っていた時にはそれほど気にならなかった手の存在が、途端に気色の悪いものに思えてきたが、身を捩って避けようにも隙間がない。
あいにくこの電車は急行で、次の駅までは10分少々停車しない。いつもなら息苦しい圧迫感に耐えることに必死になる平原だが、今回はこの手の存在にも耐えなければいけないとは、勘弁して欲しかった。

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