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名作クラシックが鳴り響いている。
これはなんという曲だったか――そうだ、ヴィヴァルディの『春』だ。
誰もが一度も耳にしたことのある流麗なメロディは、しかしチープな電子音に変換されることによって決して耳に心地よくは響かない。生野竜はベッドの上で身動ぐと、枕に片耳を押し付けてその不快な騒音をやりすごし、先ほどまで浸かっていた眠りの世界に舞い戻ろうとした。
が、10秒、20秒待ってもその音はやむことがない。
やがて竜は目を開けた。
「…ッるせぇぞ小椋!」
枕元にあった文庫本を引っ掴み、右手の方角に放り投げる。
竜の寝床はロフトにあり、転落防止と目隠しを兼ねた背の低い壁に沿うようにベッドが置かれている。その壁から身を乗り出すとちょうど真下に見える位置にソファベッドがあり、同居人の小椋春次がそこで眠っている。
ロフトから投げつけた文庫本がヒットしたのか、階下から「ふがっ」と間抜けな声がして、少しの間を置いて小椋の携帯アラームの音が止んだ。やっと騒音が止んだ――とほっと一息吐いてベッドの上で二度寝の体勢に入るが、一回しっかりと浮上してしまった意識はなかなか沈み込むことができない。
結局竜はしばらくうんうん唸った後、諦めて体を起こした。
いつも通りの土日の風景である。
「なぁ小椋、お前何回言ったらわかんだよ」
ぐしゃぐしゃと頭をかきむしりながら梯子で階下へ降り、狭いキッチンに立ってせかせかと手を動かしている小椋の背中に向かって吐き捨てると、小椋は振り返る事もなく「はいぃ?」と眠そうな声で応えた。
「休みの日に朝7時にバカでかいアラーム鳴らすな。鳴らすならすぐ起きて止めろ」
「あ、はーいすいません。竜さんコーヒー飲みますよね」
「てめぇ聞き流すんじゃねえよ。飲む」
言い残して竜は顎を振って小椋をどかせ、トイレに入る。
竜の住んでいるアパートは決して広くはない。というかかなり狭い。1Kロフト付きのアパートは完全に単身者向けで、独りで暮らすにも狭いのに、男二人で住んでいるとそれはもう息が詰まりそうになるほど狭い。
一人がキッチンに立っていれば玄関に行くのに後ろを苦労してすり抜けなくてはならないし、リビングは小椋の私物や雑誌類で溢れているので(ロフトはロフトで竜の私物で雑然としている)二人同時にテレビを見るにはソファに仲良く並んで腰掛けないといけない。ちなみにこのソファは小椋の寝床を兼ねているので掛け布団が端でぐちゃっと丸まっている。
小椋は仮にも居候なのでもう少し肩身が狭そうにしていても良いものだが、これがなかなかに神経が太いので参る。
「はい、朝ご飯です」
声をかけられて読んでいた新聞をロウテーブルからどけると、先に淹れされていたコーヒーのカップの横に、トーストとサラダとスクランブルエッグの皿が並べられた。食欲を誘うバターの香りに、うむ、と頷いて、すぐにフォークを手に取る。
この寝起きの悪い生意気な居候を家に置いている最大の利点は、小椋が家事が好きなことだ。特に料理は助かる。そう手の込んだものを作る訳ではないが、それなりに旨く、栄養がある。男の一人暮らしは出来合いのものに頼りがちなので、毎日手料理で腹を満たせるのは率直にありがたかった。

小椋と知り合ったのは仕事先でだった。建設会社に勤める竜が監理する現場の下請けの人間で、高校を卒業すると同時に就職したそうだ。勤め始めて3年になると話していたが、一緒に昼食を食べている時に、「向いていないので辞めようと思っている」と相談された。
3年目あたりで辞めて行く人間は自社にも多かった。やる気が無いなら辞めた方がいいだろうと竜は答えた。問題は、寮住まいの小椋は会社を辞めてしまえば家がなくなるということだった。安い給料ではろくな貯金もできておらず、部屋を借りても家賃を払っていける自信がないという。なので、収入が安定して部屋を見つけるまでは自分の家に居候すれば良いと提案した。
まだ若くて頼りないところはあるが真面目な青年だったし、同じ現場で働く内にそれなりに気心は知れていたので、まあ一次の寝る場所くらい提供してやろうと合い鍵を渡して――以来、小椋が別の仕事を見つけた後も、何故か居つかれっぱなしでいる。私物もすっかり増えたものである。
家賃・生活費はきっちり半分を支払っているし、家事は率先してやってくれるので、まあそのうち出て行って貰やぁいいかと思っている内に、ずるずると1年が過ぎていた。
1年も経つと、もうすっかり二人で暮らすことに慣れてしまった。40目前の男と20代前半の青年というなんとも奇妙でとにかく手狭な二人暮らしではあるが、それなりに上手く回ってはいる。

ある日曜日。
竜はベッドの中で目を覚まし、まだ早朝か…と思いつつ携帯で時間を確認して驚いた。もう正午に近い時間だ。
土日は小椋のアラームに叩き起こされるのが常である。小椋はいつもつられて目を覚ました竜の分の朝食を用意するとジョギングに出掛けて行く。身体を動かすのが趣味なのだそうだ。
寝起きの悪い小椋がなかなかアラームを止めないおかげで竜がアラーム代わりに小椋を起こす事も多いのだが、今回はすっかり寝入ってしまっていたようだ。現在担当している現場が工期に間に合うか危ういところで、連日深夜まで仕事をしているのに加え土曜もフルタイムで出勤した翌日なので、疲れが出たのだろう。
ロフトを降りると、小椋はどこかに出掛けているらしく、家は静かなものだった。竜はぼりぼりと頭を掻きつつキッチンに向かう。
「あー…寝すぎた。だり」
腰の高さまでの小型冷蔵庫を開けると、小椋が作っておいてくれたらしいラップのかかったチャーハンの横に、栄養ドリンクの瓶が一つあった。食欲はないしちょうどいい。それを手に取って冷蔵庫を閉めた。小椋のものだろうが、あとで代わりの物を買えば良い。
キャップを開けて一息に飲み干し、さてとりあえず本でも読んでダラダラするかと、読みかけの本を取りにロフトに戻る。アルミパイプの梯子をよじ登って枕元の本を手に取った時、身体がぽかぽかとあたたかくなってきたことに気付いた。
ロフトには熱気が溜まるので下より暑いことは暑いが、今日は7月上旬にしては涼しい日だと思う。しかし、脇にうっすらと汗が滲んでいるのがわかる。寝起きで体温が上がっているという感覚でもない。
と同時に、下半身に違和感を覚えた。
具体的に言うと、勃起していた。
(俺そんな溜まってたっけ…?)
まあ忙しくて処理をしていなかったのは確かだが…と思いつつ、スウェットに手を突っ込んでギョッとした。
なんでこんなギンギン?
嘆かわしいことだが、30半ばを過ぎてから元気になるのに時間がかかるようになった我が息子だ。血気盛んな10代の頃ならまだしも、何もしていないのにこんな状態になるなんて通常では考えられない。目が覚めた時点ではこんな事になっていなかったので朝勃ちという訳でもない。
ともあれ、悪い気はしない。使い物になるのは男として喜ばしいことである。
そろそろと下着越しに握ってみると、甘い感覚がぞわっと一気に広がった。そのままベッドに脚を開いて座り、自分の手で慰め出す。
久々だからなのか、自分の手が与えている快楽とは思えないほどにそれは気持ち良かった。普通画像なり動画なりのオカズがないと抜けないものだが、この調子ならこのまま達せるのではないかとすら思う。
スウェットは穿いたまま下着をずり降ろして締め付けから解放し、滲んで来た先走りを指先で掬いとって、ぬめりを借りながら扱く。
ああ、なんだろう、本当に気持ちいい。自然に息が上がってはふはふと間抜けな呼気が漏れる。
と、その時、
「ちょっと竜さん!」
「ぬぉっ!!」
突然の呼び掛けと共にすさまじい勢いで小椋が梯子を登って来た。すんでのところでスウェットから手を引っこ抜き掛け布団をひっかぶる。
「勝手に上がってくんじゃねぇっ」
いや玄関が開く音に気付かないほど夢中になっていた自分も自分だが。完全に意識が飛んでいる状態だったので急に引き戻されて心臓がバクバクいっている。
「竜さんコレ!飲んだんすか!?」
竜の怒声に構わず、小椋はぐいと眼前に空きビンを突きつけてきた。先ほどの栄養ドリンクだ。胸元まで布団を引き上げた状態で竜が「お?おぉ」と頷くと、小椋は瓶を持ったまましばし絶句し、その後、力が抜けたように溜息を吐きながら視線を落とした。
「…そんなに高い栄養ドリンクだったのか、それ」
罪悪感を覚えて尋ねると、小椋はゆるゆると首を振った。
「これ、栄養ドリンクじゃありません」
「え、えっ。もしかして身体に害のあるモンか!?」
だからこんなに体温が上がっているのか。
「いえ、そういう作用はありません。あー、なんていうのかな」
小椋の視線が、斜め下を見たまま動揺したようにふらふらと揺れる。
「強力な強壮剤というか……媚薬…というか…」
「……………」
小椋が視線を注いでいるのが自分の股間あたりだと気付いた刹那、竜が動く前に伸びてきた小椋の手が布団を剥ぎ取った。
「ちょ、寄んな!寄んな寄んな寄んな触んな!!」
「声でかいから!」
むぎゅっと口を押さえられて、どうにか掴み寄せた掛け布団も再度剥ぎ取られる。スウェットの柔らかい生地の下、竜の状態は丸解りだ。
「あー…やっぱり。手伝いますよ、責任とって」
「はッ?要らねぇよ介護じゃねえんだから…っ」
「だって竜さん、これ自分でしても納まりつかないよ…実証済みだから言うけど」
おずおずと小椋の右手が下肢に触れる。くっきりと形を成しているものをスウェット越しに掴まれた瞬間、びくんと腰が跳ねた。「ちょっ」声を上げて小椋の手を掴み遠ざけようとするが、逆に小椋に腕を捕えられ、強引に横を向かされた。
背中に抱きつくようにして、小椋の手が背後から前へ回る。再び掴まれ、うわずった声の混じった吐息が漏れた。
情けなくも、握られた瞬間一気に身体の力が抜けた。
そればかりか、形をなぞって撫で上げられる度に身体が過剰に跳ねる。あなおそろしや薬の力。
こいつはこの機に乗じて俺で遊びたいだけだろう。そう思うと悔しいが、しかし頭の片隅では、「まあ確かに気持ちいいし減るもんでもねーし任せちまえよ」と囁く自堕落な自分の声がする。
そういえば他人の手なんてどれだけぶりだ――。他人に触られるのと自分で触るのでは雲泥の差がある。指の動きや力の入れ具合がいちいち自分のものとは違って、なまじ同じ男の手であるだけに差を意識させられる。

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