※8巻31話沿い




「中也!!」


傷だらけの躰で横たわったその姿を見つけた時、如何しようもなく最悪な結末が脳裏に浮かんだ。一秒でも早く中也の元へ。その為なら息が切れることなんて些末な事だった。


「……中也」


走って走って漸く辿り着いた時、無意識に口から漏れたその名前を呼ばれようと、躰は微動だにしなかった。気付けば膝が地面についていた。


「…中也、中也!!」


胸倉を掴み躰を揺する。されるがままに動く細身。躰から血の気が引いて、指先が震えながらも揺する手は止まらない。すると突然、腕が何かに掴まれた。


「……うるせえ、聞こえてる」


虫の居所が悪そうに眉を顰めながら、わたしの腕から手を離して力無く腕を広げた。力が抜けた躰が中也の胸に倒れ込むと、鼓動の波打つ音が聞こえる。それが何れ程愛おしいものだと云う事か、この仕事をしていると分かる気がする。


「…太宰治から連絡があったの」
「チッ…あの野郎、次会ったら殺す…」
「……首領が、中也を此処に向かわせたと聞いた時から、そんな気はしてた」


組合を堕とす為、探偵社との一時的な停戦と同盟。それを確実なものにする為に、首領は先に探偵社へ損を払った。その為に中也は此処に来た。


「…彼奴と組むなんざ、俺はもう御免だ」


わたしがこの仕事を始めた時、既にその男は組織の中には居なかった。けれど厭でも耳にする。太宰治。嘗て中也と共に敵対組織をたった一晩で壊滅させた男。組織の拠点であった建物は灰すら残らなかったと云う。二人は何時しか双黒と呼ばれ、裏社会にその名を轟かせたのだ。


「……非道い躰ね、帰ったら直ぐに診てもらわないと」
「寝れば治る」
「駄目…沢山血が出てる」


双黒と呼ばれた二人が最も恐れられた理由。それは中也の持つ異能の形態の一つ、汚濁。けれどそれは、中也自身の意思も理性もまるで関係ない、躰が動かなくなるまで全てを破壊する異能。太宰治と組んだのは、その男の異能が『異能を無効化する』ものであり、中也の暴走を止められる唯一の存在であったから。

初めてその話を聞いた時、わたしは非道く安心したのだ。中也の命を犠牲にするような、そんな恐ろしい異能をもう使わせなくて済むのだと。けれど、組織は必要になれば中也に力を使えと命ずるだろう。ならばわたしが、そんなものに頼らずともいいように強くなればいいのだ。中也を守れる程、傍で強く有れば。それなのに。


「…何だその顔。俺が死んだとでも思ったのかよ」


曇った視界にわたしを見下ろす中也の嘲った顔が映る。だって知らなかった。話を聞いて理解はしていても、こんなに残酷な異能だなんて、わたしは想像していなかったのだ。


「……帰るか」
「…肩を貸すわ」
「ああ」


肩に乗せられた腕は弱々しくて、わたしが手を回した腰はとても細くて。歩を進める度に地面に模様を付ける血の滴を、中也の足が引き摺っていく。堪えた筈の泪も零れていく。


「ッたく、こんな事で泣いてんじゃねえよ」
「…守るから」
「あァ?」


それでもわたしは、組織の人間だ。中也もそう。なら答えはもう一つしかない。端から小難しい道理なんてものは要らない。それは明快過ぎる程、あっさりと導き出せた。力強く拭った目蓋が僅かに熱を持った。


「もう絶対に、貴方から離れない。わたしが中也を守ってみせるから、」


だから、お願い。死なないで。
言い終える前に唇に何かが噛み付いた。良く知る感触だった。大好きな、甘い痛みだった。


「言われるまでもねえんだよ。手前が泣き喚いて頼もうが、手足が無くなろうが手放してやる気はねえ」


それが中也の答えなのだと悟った。それでいい。それ以上の言葉なんて必要だろうか。唇に残された痛みと、強く硬く繋がれた手。それさえあれば、きっとわたしは生きてゆける。



その手を離すくらいなら、
(わたしなんて死んで仕舞えばいい)
(いっそ手前の手で殺してくれよ)


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