※9巻37話沿い




″勿論、私はお前の事も信じている″


脳内で回り続ける言葉は、幾ら酒を飲み干しても一向に消え失せる気配がない。嗚呼如何して、あの社長に、信じているなんて言葉を頂戴したのに、微塵も喜ぶ事が出来無いのか。…否、その理由は、頭をちらつくあの男の所為だ。


「やあやあ、お嬢さん」
「……今日はもう帰ったのかと」
「所用があってね、今来たところだよ。そんな事より、折角鏡花ちゃんの歓迎会なのに、こんな所で一人酒かな。ご一緒しても?」
「いいえ、何処か他所へ行って」
「それじゃあ、お隣失礼」


太宰めが人の話を聞かないのは今に始まった事じゃないが、それでも毎度不快にさせられるのは果たしてわたしに問題があるのだろうか。そもそもわたしはお嬢さん、なんて呼ばれるような齢ではないし、この男と酒を酌み交わすような仲では断じてない。


「良い夜だね。美女と呑むには最高だ」


忌まわしくもこんな男に、わたしは劣等感なんぞを抱いている。





「何故太宰を信用するか、と?」


社長の問い掛けに目で頷き返すと、鋭い眼光がわたしを捕えた。気迫あるその瞳からは顔を逸らしたくなるけれど、今日はわたしも譲れない。答えを聞かなくてはならないのだ。如何しても。


「自分の部下を信用するのに理由など要らない」
「…ですが、」
「勿論、私はお前のことも信じている。お前も私の部下なのだから当然だ。それでは不服か?」
「……いえ。詰まらないことを申し上げました。失礼します」


わかっていたくせに。社長はいつも真っ直ぐな人なのだ。過去でなく、今と、未来を信じる方なのだ。組織の人間だった、なんて過去は信頼を邪魔する障害になぞならず、わたしは社長のそんな人徳を尊敬していた。筈だった。


「(……なのに何だ、この胸のわだかまりは)」





そしてわたしは気付いてしまったのだ。社長が部下であるわたしを、わたしたちを信じているのはわかっていた。じゃあこの気持ちは?何とも云えぬ仄暗い感情は?


「…困ったな、泣く程私と呑むのが厭かい」


知らない方がいい事もある。知ってからでは手遅れだけれど。嗚呼いっそ、酒に酔い潰れて気付かなければ良かったのに。


「……わたしは、わたしはお前が羨ましい」
「うん?」
「泣く程だ、死にたくなる程だ。……悔しい。悔しい悔しい悔しい!!」
「ちょ、ちょっと落ち着こう。酔ってる?」
「酔えるか!!このッ…素っ頓狂!!」
「現状、君の方が頓狂だと思うけど」


社長は太宰を信用している。けれどそれだけじゃない。太宰のことを認めている。頼っている。それがわたしは如何しようもなく悔しくて、苦しくて、妬ましくて。只の妬み嫉みじゃない。何故なら、わたしも。


「…下らない異能を持っているくせに。裏切り者のくせに…」
「あはは、返す言葉もないね」
「それなのにわたしは、お前には一生、いや生まれ変わっても敵わないと思っている…!!不愉快だ、最悪だ…」


わたし自身がこの男の才を認めてしまっている。本当にもう、如何しようもない。激しく頭を振った所為か脳が蕩けそうだ。吐き気は酔いが回った為か、この感情がそうさせるのか。どっちにしろ不快だ。気持ちが悪い。


「言っておくがな、わたしはお前なんて世界一、いや宇宙一嫌いだ。常にお前への雑言を二千はストックしている。聞かせてやろうか、先ずお前は「はいはい、ストップ」


静止なんて知った事かと口を開こうとも、如何したものか上手く動かない。それどころか口の中に何か入って来た。生温くて気色の悪いそれは、…それ、は?


「……ッ止めろ!!」
「おっと」
「貴、さまッ……!」
「ほら、暴れるから気分が悪くなるんだよ」


嗚呼、本当に今日はとんだ厄日だ。こんなに屈辱的な事もそう無いだろう。大嫌いな男に唇を奪われただけでなく、言う事を聞かない躰を預けてしまっている。目蓋が重い。何もかも忘れこのまま眠ってしまいたい。


「……離せ、胸糞が悪い…」


だが、こんな男の胸で意識を手放すなど、それこそ末代迄の恥だ。わたしを抱きすくめていた腕は、わたしが拒むといとも容易く力を弱めた。逃げ出すように壁に手をつき騒がしい事務所内へ足を向ける。…否、このままでは完全に負け犬じゃないのか。それはわたしの自尊心が許さない。


「…太宰!!」
「何かな」
「覚えていろ、この借りは倍にして返してやる…いつかお前を跪かせてやるぞ」
「それ位、私は君がして欲しいなら何時でもするよ」
「黙れ。…今日は非道く酔った、帰って寝る」
「送ろうか?」
「結構」


いつか必ず、あの間抜け面を歪ませてやる。眠気と吐き気で飛びそうな意識の中、それだけは強く誓ったのだった。





「"常にお前への雑言を二千はストックしている"、ねえ…」


とどのつまり、それは常に私の事を考えている、とも云えるのだよ。実に光栄な事だ。今夜は酒が美味い。


「…良い顔をしていたなぁ」


彼女の口内を這わせた舌に、混乱する瞳。大きな声を出しながらも私の胸に倒れ込んだ、酒の所為で色付く薄紅色の頬。そのどれもが美しく、艶やかで。


「(君が望むなら、私は私の尊厳なんてものは一切棄てられるのに)」


重ねたあの感触を恋うように下唇を舐めて、残っていた少量の酒を流し込んだ。多少酔ったところであの表情は忘れられそうにもない。君は深く考えもしないんだろう。けれどそれでいい。いつか必ず私のものにしてみせよう。


「(次に口付けを交わすなら、素面の時が良いかもしれない)」


君の新しい表情を、反応を、声を、もっともっと知りたい。その後で幾らでも、罵詈雑言を吐いてくれて構わないから。


「太宰さん。こんなところに居たんですね」
「…おや、何だい敦君」
「社長がいいお酒を開けるからと…何かありました?」
「いや、別に何も?如何してだい」
「何だか凄く嬉しそうと云うか…新しい玩具を買ってもらった子供みたいな顔をしてる気がして」


その言葉に思わず噴き出すと、敦君は眉を顰めながら首を傾げた。新しい玩具、確かに的を得ているよ。私は今とても愉快だ。けれどね。


「玩具よりもずっと良いもの、だよ」
「?」


酔いが覚めた時、彼女は何処迄覚えているだろうか。凡て忘れてしまうだろうか。その時はまた、その時だ。


「(またその唇を頂いて仕舞えば良いだけのこと)」


何かを誓うには、良い夜だ。




宣戦布告
(あんな男にだけは負けん…!!)
(早く私のものに成ってくれ給えよ)


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