「…ごめん。佐和とは付き合えない」


そのあと幾ら澤村が慰めの言葉を吐いたとしても、この心情が薄れるわけでも、まして言葉の意味が覆るわけでもない。高まってはちきれそうになった甘酸っぱい感情に違うものが混ざっていく。水の中に墨汁を垂らすように少しずつ、けれど確実に、明白に。


「本当に、ごめん」


最後の言葉だけがまた胸を刺した。空白。ぽっかり穴があいたように呆然として、うまく返事ができない。わたしを気遣うように横目でみながら、澤村は去って行った。それでもわたしはそこから動けなかった。動きたくなかった。どこへも行けない。行きたくない。


「佐和」


控えめに呼んだ声は当然澤村のものじゃないのに、期待して声のする方に視線がいく。


「…菅原」
「今ちょうどそこで大地と会って、それで」
「振られた」
「……」
「まぁ、なんとなくわかってたけど…何回も謝らせちゃった」


自分の爪先をみつめながら、さっきよりよっぽどすらすらと声が出ることに思わず失笑する。謝ってほしかったわけじゃない。じゃあどうしてほしかったんだろう。こうなることは薄々わかっていたのに、一体どうして。


「…そんなに好きだったんだ」


再び顔を向けた先の菅原は、憐れみを含んで微笑んでいた。

好き。そう、そうだった。これは紛うことなき、恋だった。たとえ届かないと知っていても、止められなかったものだった。謝ってなんてほしくなかった。受け入れてほしかった。笑いかけてほしかった。ただ、わたしは、好きになってほしかった。


「佐和」
「…ごめ、…ごめん、平気…だから」


涙が溢れた。こみ上げてくるもののせいで、上手く息ができずにしゃくりあげながら。きっと脳内が叫んだ。身体中が訴えた。好きだ、好きだ、好きだ、と。報われないのにまだ好きだ。こんなに苦しいのにまだ好きだ。


「……菅、原…?」


真っ黒な制服が視界いっぱいに広がった。後頭部をわずかに押されてそのまま涙が衣服に吸い取られるのがわかった。顔をあげると、今まで経験したことがないくらい菅原の顔が近くにあった。


「…俺が、大地だったらよかったんだけど」
「…そんな、こと」
「俺でも胸貸すぐらいはできるからさ、気が済むまで使って」


再び押さえられた頭はすんなりと菅原の胸に埋まった。抱き締められたぬくもりはわたしが欲しかったものじゃない。なのに、なのに。


「…制服、濡れちゃう」
「別にいいって、そんなの」
「…なんでそんなに、優しいの…」
「……泣いてる女子ほっとく男なんて、男じゃないだろ」


きっと菅原は笑っているんだろう。そんな声だった。わたしは澤村が好きだ。だから今すぐこの胸を突き放して腕を振り払わなければいけない。泣きたくなるほど心地のいいこのぬくもりを、拒まなくてはならない。


「                  」
「え…?」


小さすぎて聞き取れなかった言葉を聞き返そうとすると、それを阻止するように腕に力が込められた。痛くて痛くてそれでもやっぱり、あたたかくて。今のわたしに、この優しさを振り払うことなんてできるわけがなかった。誰でもいいから、空いてしまった隙間を埋めてほしくて仕方がない。縋るように菅原の背中に手を回して、わたしはそのぬくもりを受け入れた。



Are you ready?
(都合のいい優しさに身を委ねる準備を)





「ごめん、佐和とは付き合えない」


耳を澄まして大地の答えを聞いた。俺の予想した返答と一言一句違わない言葉に、一緒に過ごしてきた時間を感じた。陰に隠れて聞いている二人の会話。大地が佐和を傷つけまいと吐く言葉なんてどれも意味がないのに、それでも発し続けるなんてどれだけ優しいんだろう。


「本当に、ごめん」


その言葉がとどめになるとも知らずに、お前は簡単に謝って自分が佐和につけた傷をなかったことにしようとする。ずるいな、大地は。なんて、他意があるわけでもない大地に対する僻みもいいところだ。


「……スガ」
「…あ、大地。どうした?」
「…聞いてたのか?」
「何を?」
「……いや、聞いてないならいいんだ。じゃあ、また部活でな」


偶然通りかかったふりをして、いつもの俺を振舞う。ぎこちない笑顔を浮かべて逃げるように早足で通り過ぎていく大地には目もくれず、軽く深呼吸をして佐和の視界に入る距離まで歩む。


「佐和」


何も知らないような顔をして、いつもと変わらない声音で声をかける。佐和は一瞬、期待はずれとでも言いたげな表情を浮かべて、その後無理やり笑った。


「…菅原」
「今ちょうどそこで大地と会って、それで」
「振られた」
「……」
「まぁ、なんとなくわかってたけど…何回も謝らせちゃった」


知ってる。全部知ってるよ。佐和が大地のことを好きなのも、大地がそれに応えられないのも。俺は最初から、こうなるってわかってた。この日をずっと待ってた。どんなに佐和が傷ついてもいいと思った。そこに付け入ることぐらいしか俺にはできないと思ったから。俺は酷いやつだよ、我ながら呆れる、だけど。


「…そんなに好きだったんだ」


そんな顔をされると、皮肉にも心苦しくなる。つらくて悲しそうで、だけどそれはそれだけ大地のことが好きだって言ってるのと同じなんだ。これを望んでたはずなのに、それでも笑っていてほしかったなんて。自分の中にある矛盾に苦笑する。


「佐和」
「…ごめ、…ごめん、平気…だから」


息も絶え絶えに、壊れた蛇口みたいに流れ続ける涙に、胸が握り潰されてるみたいに痛む。ああ、好きだ。佐和が好きだ。でも、佐和もきっと、大地が好きで好きでたまらなくて、けどそれだけじゃどうしようもなくて。


「……菅、原…?」


こんな俺じゃ好きになってもらえないのかもしれない。それでも今ここにいるのは、佐和を抱き締めてるのは紛れもなく俺だ。初めて触れたその体は想像よりずっと華奢で柔らかくて、何度も夢にみたことなのに、こんな形で実現するなんて笑えてくる。俺を見上げた佐和の潤んだ目が、濡れた長い睫毛が、全部大地のためのものだなんて思いたくなかった。


「…俺が、大地だったらよかったんだけど」
「…そんな、こと」
「俺でも胸貸すぐらいはできるからさ、気が済むまで使って」


嘘で出来た俺の優しさに、佐和は何を思うだろう。こんなずるい俺の心中なんて知られたくない。見透かされないように佐和の頭を胸に押し付けた。


「…制服、濡れちゃう」
「別にいいって、そんなの」
「…なんでそんなに、優しいの…」
「……泣いてる女子ほっとく男なんて、男じゃないだろ」


こうなることがわかっていて、それでも黙っていたくせによくそんなことが言えたもんだ。思わず自分を嘲ってしまう。佐和を好きになる度に、自分が嫌いになる。そこまでして好かれたいのかよ、って。ああでも、結局そうなんだ。どれだけ自分を蔑んでも、たとえ、佐和自身を傷つけることになったって。


「…好きだよ」
「え…?」


聞こえてなくていい、伝わらなくていい。それでも声に出さないとやりきれなかった。小さく呟いた言葉を隠すように強く強く抱き締めた。

俺は佐和の幸せを願うべきだった?大地と結ばれるように協力すればよかったのか?そしたらこの罪悪感からは救われたかもしれない、それでも、誰も幸せになんてなれなくても。佐和が幸せになれるならそれでいいなんて、俺は思えない。そのために自分を犠牲になんてしない。

背中に回された手があまりに弱々しいから、このまま一生離したくないなんて本気で思ったりした。

なあ佐和、俺を好きになったら、
もう苦しまなくて済むよ。



I'm ready.
(そんな甘言を囁く準備はとっくにできていた)


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