雨は嫌いだ。

何をするにも憂鬱になるし、なんとなく体もだるい気がしてならない。積み重なった憤りは、足元に跳ねる水滴でノックアウト。ほんの少しでも濡れる面積が減れば。そんな淡い(往生際が悪いとも言うのかもしれない)期待を込めて買った大きめの傘は、思った以上に重くまた一つ雨が嫌いになる理由を増やすだけだった。

放課後。昼過ぎから降り始めた小雨は大粒になり、灰色の空から絶え間なく落ちてくる。そんな空を見上げて息を吐く。観念し、傘を手にして一歩踏み出す。


「泰葉先輩、傘いれてくださーい!」


唐突に呼ばれた自分の名前に振り返る。そういえば前に何かで、イギリス人は傘を滅多にささない、っていうのをみた気がする。


「…自分の傘は」
「忘れました!」
「天気予報は」
「みてないです!」


それはロシア人のハーフにも該当するのだろうか。




「最悪走って帰ろうかと思ってたんですけど、泰葉先輩に会えてよかったー!」
「……ああ、そう」


雨がさっきより強くなった。馴れ馴れしく下の名前で呼んでくるこの後輩とは、やはり何度記憶を辿ってもたいした関わりなんてないはずなのに。懐かれやすいような愛想のいい顔をしてるわけではなく、もちろん、可愛がった覚えもない。所以が不透明な好意は信用できない。最近、雨の日はいつもこうだ。なんでこんな大柄男を傘にいれてやらないといけないのか。


「(まぁ、傘を持つ手間は省けるけど)」
「先輩は雨、好きですか?」
「嫌い」
「俺は嫌いじゃないです!傘は忘れますけど!」
「…他の子と帰ればいいのに」
「え、どうしてですか?」
「わたしと相合傘なんてしなくて済むから」


この容姿だ。わたしに頼まなくたって、傘にいれてくれる女子の一人や二人いるだろうに。わたしの何が面白いのか知ったこっちゃないが、物好きとはこのことだ。


「……急に立ち止まらないで」


頭に落ちてきた雨粒に嫌気が差す。傘の中に戻って、立ち止まった灰羽に促しても一向に動く気配はなく、イライラを募らせながら問いかけた。


「なにしてんの」
「…先輩は嫌だったんですか」
「は?」
「一緒に帰るのも相合傘も…嬉しかったの俺だけなんですか」


雨がまた少し強くなった。小さな密室みたいな傘の中、灰羽の声が確かに耳元まで届いた。わたしをみつめた緑色の瞳が僅かに揺れて、雨音だけが響く。


「………好きなんです」


白い頬を薄く染めて、独り言のように呟いた。灰羽はそっぽを向いて、ぎゅっと傘の柄を握ると、伏し目がちに、追い打ちのように続ける。


「…わかってると思いますけど、雨のことじゃないです。先輩のことが、です」
「……えっと」
「本当は先輩の名前呼ぶのも、一緒に歩くのも全部どきどきしてしょうがないんです。先輩と同じ傘に入れるのが、信じらんないくらい嬉しくて…」


それ以上灰羽は何も言いそうになかった。わたしはうまく言葉が出てこなかったから、言葉の続きを待つしかなかった。沈黙の中、灰羽の顔を見上げていると、みるみるうちに色づく頬に汗がひとつ、ふたつと流れた。


「…え、なん、ですか…」


気づけばわたしは、ポケットから取り出したハンカチでその汗を拭ってやっていた。されるがままの灰羽は薄紅色の顔で、きょとんとわたしを見下ろす。


「汗かきすぎ」
「…すいません」
「…案外、悪い気はしなかった。と、思う」
「なにがですか」
「名前で呼ばれることも、いつも傘に入ってくることも、妙に懐かれてることも」


雨は嫌いなはずだった。いや、今でも心底大嫌いだ、だけど。


「…好きだって言われたことも」


いつだったか、初めて灰羽を傘にいれたあの日から。二度目、三度目と回数を重ねてから。わたしは心のどこかで待っていたんだと思う。次に雨が降る日のこと。憂鬱な放課後、その声に名前を呼ばれることを。雨は天敵のはずだったのに。


「……えっとそれは…え、いやでも」
「…嫌いなやつと何度も相合傘してやるほど、わたしがいい奴じゃないのは知ってるでしょ」


あまのじゃく。そう言われたら返す言葉もない。それでもこれが、わたしの精いっぱい。ああ、こんなこと生まれて初めてかもしれない。地面をみつめて返事を待っても、聞こえるのは雨音だけ。少しだけ不安になって顔を上げると、大きな手で顔の下半分を隠した灰羽と目が合った。


「…へへ、嬉しいです、すげえニヤける」


そう言って首元に手を当てながらはにかむものだから、胸のあたりがはちきれそうなくらい苦しくって、顔が熱い。思わず顔が下を向く。


「泰葉先輩、顔赤い」
「言わなくていい。っていうか言うな」
「ちゃんとみたいです」
「嫌だ、調子に乗んな」


わたしの肩に手を置いて、顔を覗き込もうとしてくるのをやめさせようと手を払ったら、指の間にするりと灰羽の指が通って、手と手がぎゅっと繋がった。


「好きな人に好きになってもらえたんですから、調子に乗らせてください」


今度はもう、その手を振り払うことができなかった。



の日のあまのじゃく
(傘の中は、ふたりだけの世界)