恋人が海に行きたいと言い出したのは三日前だった。

 くたくたに疲れた体を引き摺って辿り着いた自宅のリビングで、最近はやけに薄っぺらくなった通信機器越しに言葉を交わしていた。昼間の疲れと深夜と言って差し支えない時刻に押されて今にも勝手に閉じようとする瞼を必死に押し上げ、もう半年は直に聞いていない恋人の声に耳を澄ます。彼女は女にしては少し低い、甘さを含んだハスキーな声をしている。

『疲れてる? アーサー』
「いや、大丈夫だ」

 無理はしないで、と電波を泳いで伝わってくる囁きに少し肩の力が抜けたのが分かった。正直に白状すれば、彼女からのコールを取った時、これは別れ話かもしれないという予感が脳裏に浮かんだ。だってそうだろう、仕事を理由に恋人を半年も放っておく甲斐性の無い男なんて、俺が女だったらとっくに見捨ててる。寛容な恋人に俺は感謝するべきなのだろう。謝罪を口にした俺に、彼女は暫くの沈黙の後おもむろに切り出した。ねえアーサー、それなら次の休みには、私を海に連れて行って。

 季節は冬である。海水浴にも日光浴にも向かない時期だし、何よりこの国の冬は厳しい。例年に増して猛威を奮っている寒波は衰える気配を見せず、白い波が打ち寄せる海岸は雪混じりの海風と相俟って一層寒々しかった。シーズンには大勢の観光客やサーファーで賑わう浜辺にも人影は俺と彼女の二人しかいない。近くの駅で落ち合い、ハイヤーを運転してこの海岸に着くまで、会話は殆ど無かった。長く離れていたのだから話題などいくらでもありそうなのに、いざ顔を見ると何を話せば良いのかまるで思い付かない。彼女は俺の数歩先をさくりさくりと砂を鳴らしながら歩いている。限り無くモノクロに近い色彩の中で、彼女の赤いコートがひどく浮き上がって見えた。付き合いだした頃はベージュやキャメルの落ち着いた色合いを好んでいたその背中は、会わない間に小さくなったような気がする。誰よりも近い距離を許し合っている筈なのに、今こうして先を歩いている彼女は何だか別人のように見えた。振り返らない後ろ姿から目を逸らして、彼女が来たいと言った海を見遣る。荒れ模様の天気を映したように波は高い。ザザン、ザザンと強弱のついた波音が、遠くから聞こえる海鳴りを掻き消すように響いていた。

「静かね」

 不意に鼓膜を震わせた声に、足を止めて隣を見る。いつの間にか彼女は俺の横に並んで同じように海を眺めていた。

「そうか? 随分荒れているように見えるが」
「違うわよ、あなたが。ずっとだんまり」
「それは……お前もだろ」

 彼女はまた口を閉ざしてマフラーに顔を埋めた。その白い横顔に、どうしてこんな言い方しか出来ないのかと罪悪感のようなものが込み上げる。昔から人との会話は苦手だ。それでも彼女は心地良い沈黙を共有出来る数少ない相手だったから、この気まずい空気をどうすれば良いのか分からない。こんなに遠かっただろうか、自分たちの距離は。海水がブーツの先を濡らし、爪先に刺すような冷たさを感じた。潮が満ちてきている。

「……なあ、そろそろ戻らないか? どこか店に寄って、温かい紅茶でも飲もうぜ」

 海は好きだ。凪いだ海面も嵐の夜も、この大きな水溜まりはいつだって無情なまでに美しい。けれど今居るべき場所はここではないと思った。多分自分たちは、暖かい部屋で身を寄せて、手を繋いで、沢山のことを話すべきだ。会えなかった長い時間を埋めるために、忘れてしまった感触を思い出すために。なのに何故こんな、寒くて寂しくて何も無い所に居るのだろう。彼女はゆっくりと首を巡らして、ひたりと俺を見据えた。こんな目をする女だっただろうか。何かを諦めたような、嘲笑っているような、斑の感情を浮かべて微笑む彼女に腹の底がぐるりと疼いた。待ってくれと口に出しそうになった言葉を咄嗟に飲み込む。行かないで。縋るような視線を受けても彼女は手を両脇に下げたまま、ただ小さく唇を動かして、アーサー、と俺の名を掠れた声で呟いた。思えば彼女は俺の名前を一番多く呼んだ人間だったかもしれない。

「最後にしようと思っていたのに」

 そんな小さな子どもみたいな顔をしないで。あやすような口調はまるきり母親のそれだった。俺が求めているのは、そんなものじゃ、ないのに。泣きそうだ、と思った時にはもう生暖かい液体が目元を濡らしていた。くそ。眉を下げた彼女はますます幼子を見るような眼差しで小さく溜め息を吐く。

「嫌ね、私が虐めてるみたいじゃない」
「うるさい。ふ、振られるかと思った……」
「振るつもりだったわよ」

 う、と詰まった俺に喉の奥で笑って、恋人はくるりと海に背を向けた。赤いコートが翻って鮮やかな残像を描く。情けなくも未だぐずつく鼻を啜る男に一瞥もくれることなく、彼女はまたさくりさくりと砂を踏んで歩き出した。押し寄せる波から逃げるように後を追い、少し躊躇ってから歩幅を合わせて隣に並んだ。

「なるべく早く泣き止んでね、アーサー。そしたら車に戻って、あなたの家に帰りましょう」
「ああ、とびきり美味い紅茶を淹れてやる」

 結局俺たちはそれからもう少し浜辺を歩いて、電車を乗り継ぎ家に帰った。帰路の途中で何故海に行きたかったのかを尋ねると、彼女は事も無げに「置いていくにはぴったりでしょ」と肩を竦めた。何を、とは訊かなかった。代わりに俺は、赤いコートが彼女によく似合っていることを、珍しく素直に伝えた。

thanks plan 西海岸
120312
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