彼、一之瀬くんが現れた後の授業は全くもって右から左へ状態だった。何も頭に入ってこない、覚えているのは彼の、悲しそうな表情だけ。


「俺のこと…覚えてないの?」


覚えて、ないよ。君のことなんて何も。小さく唸って首を傾げた。駄目だ、何も出てこない。でも何か引っかかる。何か、何か。
下校時間になって教室から少しずつ人が減っていくのを他人事のように眺めながら、私は俯いた。こんなに胸がもやもやする理由がわからなかったから、だ。


「…帰ろ」


一度溜息を吐いて、そう決断する。考えても何も出てこない、それなら考えるだけ無駄なのでは。夕焼けに照らされるグラウンドで活動している部活をちらりと見て、私は自分の席を立ち上がった。がた、と音が鳴った。顔をあげた。目を丸くした。
だって教室の扉の前に、一之瀬くんが立っていたから。


「よかった、ゆい、まだ帰ってなかったんだ」
「…ど、どうしたの、一之瀬くん」
「えっ、名前思い出してくれた!?」
「あ…秋ちゃんが、そう呼んでたから」
「ああ…そっか」


輝かしい笑顔を浮かべたと思いきや、すぐに影を落とす。感情表現が豊かな子なのかな、と無責任ながらにそう思った。そのまま教室に入ってくる一之瀬くん。もうこの教室には私たち以外誰もいなかった。


「さっきはごめん、急にさ」
「え、あ、いや、別に…大丈夫」


赤く染まる教室は二人きりだととても広く感じる。薄らと笑みを浮かべている彼は、本当に笑顔が似合う人だ。まるで、太陽のような。


「俺、一之瀬一哉」
「…わ、私は、」
「藤城ゆい。大丈夫、俺は君のこと覚えてるよ」


全部ね。
そう言う一之瀬くんの言葉は、何処か別の意味が含まれている気がして。なんとなくだけど、でも私は思わず俯いてしまった。そっと口を開く。


「一之瀬くん、こっちこそ、さっきはごめんね」
「なんでゆいが謝るんだ?」
「えーと…覚えてない、から?」
「…疑問系か」


ははっと声を上げながら笑う一之瀬くんは、何処か掴めない人だ。居心地が悪くなって俯いたままだった視線を横に逸らす。掃除されて綺麗になった黒板が目に入った。


「…わ、私、もう帰るから」
「あ、待って!ちゃんと用があるんだってば」


謝りにきただけじゃないよ!と慌てて両手を左右に振られる。今のが用件じゃないなら一体何だ。訝しげな表情で彼を見やると、一之瀬くんは一度大きく深呼吸をした。


「ゆいは覚えてないかもしれないけど、俺と君は昔アメリカで一緒に居たことがあるんだ」
「…私の記憶には、3人しかいないけど」
「…悲しいな。でも、俺も含めて4人いるはずなんだ。覚えてない?」


そう言われても、覚えてないものは覚えてない。ゆっくり左右に頭を振ると、そう、と一之瀬くんが苦笑を零した。私の記憶の中に、彼はいない。何度言われてもそれは変わらないことなのに。


「じゃあ、約束も覚えてないよな」
「約束?」
「うん、俺とゆいと、二人だけでした約束。俺は今でも覚えてる。…その約束を果たす為に、日本に来たんだ」


そういえば一之瀬くんは最近アメリカからやってきたんだったか。それにしては普通に日本語話せるんだな、と頭の隅で考えた。ようやくのことで顔を上げると、彼は真剣な表情で私を見ていた。こんな顔もできるんだなぁ。でも、話しかけてくれる内容全て、身に覚えがない。私はさらりと言い放った。


「ごめんね、多分人違いだと思う」


探してる人、見つかるといいね。
同姓同名の人は、そう珍しいものじゃないと思う。無責任にそう思いながら私は教室を後にしようと一之瀬くんの横を通り抜けようとした。彼につらそうな顔をさせる必要はない、だって、きっと人違いだから。
でも通り抜ける前に、鞄を持っているのと逆の腕をぐっと掴まれた。


「…一之瀬くん?」
「俺が探してたのは、ずっと約束を果たしたいって思ってた女の子は、君だよ」
「だって私、身に覚えがないもん」
「それでも君なんだよ、ゆい」
「…いい加減に、」

「俺は藤城ゆいが好き」


言っても聞かない一之瀬くんに、一度がつんと言ってやろうとした。でも不発に終わった。だって、彼が急に、そんな。
好き、だなんて。


「え…」
「アメリカに居たときから、ずっと好きだった。大好きだった」
「ふ、ふざけない、で」
「ふざけてない、本気だよ、ゆい」
私は咄嗟に彼の腕を振り解いていた。突然のことに一之瀬くんも驚いたのか目を瞬かせていて、でもそれより私の方が何倍も驚いていて。その感情は勝手に怒りへと向いていた。声を荒げる。


「逢ってすぐの相手に、好き…?ふざけてるとしか思えない、でしょ。からかわないで」
「っ違う、ゆい。君は忘れてるかもしれないけど、俺は、」
「うるさい、うるさい!私は君のことなんか知らない!記憶にない!!」


頭の中がぐるぐるする、気分が悪かった。一刻も早くこの場を離れたかった。私は一度彼を睨みつけると強く手のひらを握り締める。ほら、また一之瀬くんは悲しそうな顔をする。そんなの反則だ、わけがわからないのは私の方なのに。どうして、そんな。


「…昔のゆいは、俺のこと一哉って呼んでくれた」
「…そう」
「もう呼んでくれないのかな?」
「さあ、そんな覚えないから」
「…ゆい、」
「じゃあね、“一之瀬くん”」


苛立ちを抑えることもなく、私はあえて強調して彼の名前を呼ぶ。酷く傷ついたような表情をした一之瀬くんに、どうして私はこんな酷いことが言えたのだろう。そう思っても後の祭り、散々言った手前何も言えず、私は彼に背を向けて歩を進めた。これでいい、だってきっと、本当に人違いなんだから。
すると背後から、大きな声。


「俺はサッカーを続けるよ!もう一つの約束も、守るから!」


前者の言葉を聞いて思わず肩が跳ねる。でもあえて立ち止まらなかった。そのまま何も言わずに廊下へ向かう。扉まできてちらりと振り返ると、一之瀬くんは悲しそうに笑ってた。胸に込み上げる何かを押し殺そうと、私は容赦なく扉を強く、閉めた。

どうしてこんなにも胸が痛いのだろう、それからずっと、




彼のことが頭から離れなかった。





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