自分がしたことをすごく後悔して、涙も止まらなくなって、ただひたすら泣いていた。目を擦りながら、小さく呻きながら。彼には想い人がいるのに、私は何をしているんだろう。リカちゃんにも応援するなんて言っておいて、何をしているんだろう。そうやって自分を何度も何度も、責める。そんな時ふと、掠れた声で懐かしい呼び方をされた。


「ゆい…」


え、と私はベッドに横になっている彼を見つめる。すると一之瀬くんの瞼が震えて、その隙間から茶色い瞳が覗いた。その表情はまだぼうっとしていて、状況を把握しようとしているのかその目が揺れる。


「い、ちのせ、くんっ…」


小さな声で彼の名前を呼ぶ。すると揺れていた瞳がゆっくり此方を向いて、ふわりと微笑んだ。それからいつもの笑顔で、一言。


「おはよう」


さっきまでの不安が吹き飛んで、彼が目を覚ましてくれたということが嬉しくて、私は未だ止まらなかった涙を無理矢理服の袖で強く拭う。起きて早々泣いてる顔なんて見られたくない、そう思ったからだ。でもそうしていると私の服の裾を弱く引っ張られた。


「駄目だよ、そんなに擦ったら赤くなる」
「だ、大丈夫、だよ。ちょっと目にゴミが入って、」
「藤城、泣かないで」


びく、と肩が震えた。その優しい声が過去の彼と、それから図書室で【友達】だと言ったあの時と重なった。なんで私は優しい彼に心配そうな表情を浮かべさせているんだろう。そう思うと苦しくなって、何とか止まってくれた涙の最後の一粒を拭い今出来る限りの笑顔を一之瀬くんに向ける。


「…うん、もう大丈夫」
「それなら、よかった」


少し不安そうな表情を浮かべた一之瀬くんだけど、それ以上追及することを諦めたのかそこで言葉を濁らせて薄らと微笑んでくれた。そのまま目を逸らしてもう一度辺りを確認する横顔をじっと見つめる。幼い彼と変わったのは一体何処だろうか、と。声が少し低くなったこと、背も伸びたこと、肌が焼けていること。でも彼の優しく明るい性格や、太陽みたいな笑顔は変わっていないと思った。そんなことを思って口元が思わず緩む。


「俺、なんで病院にいるんだっけ…」
「えっと…私が車道に飛び出したのを、一之瀬くんが助けてくれて…」
「あっ、そうだ!藤城、怪我とかなかった?大丈夫?」


突然勢いよく一之瀬くんが起き上がって私の肩を掴む。びっくりして一瞬声が出なかったけど、その後すぐに聞こえてきた呻くような声で我に返る。


「痛っ…」
「あ、あんまり動いちゃ駄目だって!怪我してるんだから…っ」
「はは…なんか格好悪いな…」


眉尻を下げて乾いた笑みを漏らす一之瀬くんはそれでもまた横になろうとはせず、上半身を起こしたまま病室を見渡した。「私は元気だよ」と告げると、よかったととても安心したような表情を浮かべられる。それにさえ目を奪われるもののさすがに見つめすぎているかと目を離そうとした。が、意思とは逆に目を逸らせない。それはもちろん一之瀬くんの顔から、なんだけど、でも特に、唇から。
彼が寝ている間に勝手にしてしまったキス。寝ていた一之瀬くんは気付いていないはず、それでも妙にあの感触をリアルに思い出してしまって羞恥心で胸がいっぱいになった。頬が熱くなる。


「…藤城?どうかした?」


はっと我に返った時には、一之瀬くんの茶色い瞳が私の方へ向いていた。急に顔を真っ赤にした私を不思議に思ったんだろうか。私は慌てて自分の口元辺りを片手で覆って、もう片方の手をぶんぶんと左右に振る。その動作がおかしかったのか、一之瀬くんは笑い声を上げた。


「よかった、本当に元気みたいで」


そう柔らかな声で急にいうようなところも、ずるいと思う。一之瀬くんはすぐに「そういえば、」と言って考え込むように口元に手を添える。突然のことに私が首を傾げていると、彼も同じように首を傾げながら呟いた。


「なんか、すごくいい夢を見た気がする」
「ゆ、め?」
「うん…気のせいかな」


思わず肩が跳ね上がった。いい夢に該当するか否かじゃなく、先刻の行為が彼にバレてしまうのではないかと。未だ小さく唸る彼の横顔を見つめて、ふとこんな考えが脳裏に思い浮かぶ。
記憶を取り戻したとここで言えば、一之瀬くんは…一哉くんは喜んでくれるんだろうか。いや、それは分からない。だって彼にはもう既に想い人がいて、過去の私を今でも見つめているわけじゃない。逆に思い出したと言っては彼を困らせるだけではないのだろうか。優しい彼のことだ、きっと私を傷つけないようにとかで色々と悩ませてしまうんだろう。…伝えることが、正しいのか。私は彼に気付かれないように俯いて、手のひらを少し強く握った。
私は、自分に都合がいいようにしか、行動していない。今だってほら、あれだけ私から拒んだのに、君に名前を呼んでもらいたいだなんてことを、思ってる。


「あの、藤城…」
「っな、なに?」
「ちょっと、頼みたいことがあるんだけど」


少し言いづらそうに、でも何処か照れ臭そうな表情を浮かべて目を泳がせる一之瀬くん。私の中を漂っていた嫌な考えを緩く頭を振ることで振り払い、私は口元で孤を描く。そのまま一之瀬くんに続きを促した。


「嫌なら、はっきり断ってくれていいから、」
「うん…」
「その…少しだけ、抱きしめさせて欲しい」


目が点になった。今彼は何と?冗談かと思ったけれどそうでもないらしい、真剣な表情を浮かべて私を見つめる一之瀬くんに自然と心拍数が上がっていくのを感じた。だ、抱きしめるくらい、アメリカじゃ挨拶代わりだったじゃないか。それを今更恥ずかしがる必要なんて、な、な、ないよね、うん。
そう無理矢理自分自身に言い聞かせているうちに一之瀬くんが苦笑を浮かべて、言った。


「あ…ごめん、嫌なら本当、断ってくれても、」
「いっ、いい、よ!」


勢いに任せて、彼に断られる前に返事を返す。きっと今の私の顔は真っ赤だろう、でもそれを気にしている余裕さえなかった。ちらりと一之瀬くんの表情を垣間見ると最初こそ驚いたような表情を浮かべていて、それが次第にほっとしたような笑みに変わる。そんな表情にさえ、ときめいてしまうんだ。


「…ありがとう。じゃあ、もっとこっち来て」


ん、という声と共に一之瀬くんの片手が私に差し出される。私は一度病室の扉を見てそこに誰もいないことを確認してから立ち上がり、一之瀬くんの座ってるベッドに片足を掛ける。ぎし、と鳴るベッドのスプリングがなんだか気恥ずかしくて、小さく息を呑んだ。差し出された片手を緩く取って、距離を詰める。


「俺の上、跨ってくれていいから」
「えっ…え…!?」
「だってそうしなきゃ抱きしめられないし」


ね、と笑う一之瀬くんは、今の私にとっては少し酷い人に思えた。私は意を決してそっと彼の膝の上に跨る。今までにない至近距離で彼の瞳に射られて、どきどきと煩い心音が彼に聞こえてしまうのではないかと冷や冷やした。
小さな声で「ごめん、」と謝ってから一之瀬くんの腕が私の背に回されて、ぎゅうっと力を篭められる。全身に彼の温もりを感じて、胸いっぱいに一之瀬くんの匂いを吸い込んで、懐かしい気持ちでいっぱいになった。私は何度この優しい腕に助けられて、何度傷つけたのだろう。謝りたいのは、こっちなのに。


「…藤城、温かいね」
「一之瀬くんの方が、温かいよ」
「落ち着く」


そう言って彼が私の肩に顔を埋める。擽ったく感じたけど、抵抗はしなかった。そこでふと、また嫌なことを考えてしまう。
私は今、彼の想い人の代わりとなっているのではないか。起きてすぐ近くに好きな人がいなかったんだから、それで寂しいと思っているのかもしれない。彼の心の中には私ではない誰かが存在しているんだ、今の私は、その誰かと重ねられてるだけなのでは。こんなネガティブな考えしかできない私に嫌気がさす。
でも、例え代わりだとしても、今だけは私を抱き閉めてくれる一之瀬くんがいる。他の誰かじゃない藤城ゆいを抱きしめてくれる一之瀬くんが。今はそれに甘えてもいいだろうか。
一人でそう考えて私も彼の背中へ腕を伸ばそうとした。そんな時だった。


「ダーリン、身体大丈夫なん!?」


どたどたどた、ばたん!と病院に似つかわしくない音が聞こえて扉が開かれた。思わず肩を震わせた私は一之瀬くんと二人で咄嗟にそちらへと目をやる。そこには青い髪の、浦部リカちゃんが息を切らせて立っていた。それから呆然とした表情を浮かべる。それもそのはず、私たちはベッドの上で抱きしめあっているのだから。それがリカちゃんの好きな相手だったとしたら、驚かずにはいられないだろう。
彼女の表情が徐々に不機嫌なものへと変わって行く。ずんずんと効果音がつきそうな歩き方で歩み寄ってくるリカちゃんに、私は大変だと頭の中で警報がなるのを感じた。


「ちょっとあんた、うちのダーリンに何しとんねん!」


次の瞬間私は肩を強く引かれて一之瀬くんから引き剥がされた。少し乱暴に引かれたせいか危うくベッドから落ちるところだったのをなんとか片足を地面につけて踏みとどまる。


「ゆい…やったやんな。あんたさっきうちとダーリンの仲応援するみたいなこと言うてたやん!どういうことやねん、これ」
「待てよリカ、これは俺が、」
「ダーリンは黙っといて!…あんたもダーリンのこと好きなんやったら、最初からそう言えばええやろ。うちのこと舐めとんか?」


リカちゃんに浴びせられる言葉がナイフのように私に突き刺さる。そうだ、私は一度応援するようなことを言ってしまっている。それを、今更。私は本当に、自分に都合が良いことしかしていない。今だってそうだ、今くらいはだなんて甘い考えを持っていた。瞳が揺れて、俯くことしかできない。一之瀬くんがリカちゃんを制するようにその腕を掴んで、彼女の言葉が止まる。小さく深呼吸をして、私は俯いたまま口を開いた。


「ご、ごめんね、リカちゃん。その、別に変な意味でこうなったわけじゃなくて、」
「…じゃあ何やねん、ちゃんとした理由言うてみぃ」
「っも、もうこんなことしないから、ごめんね!本当、ごめん…!」
「藤城!」


駄目だ、耐えられない。そんな思いが自分の中で爆発して、私は病室の白い床を蹴って駆け出した。後ろから一之瀬くんが私を呼ぶ声が聞こえてきたけれど立ち止まる余裕なんかない。ただ、彼女からの言葉のナイフに耐え切れなかっただけ。私はずるい人間だ、そう自分を叱るけれど足が止まることはなかった。
記憶がない今までなら何とか切り抜けることができたのかもしれない。でも、全て思い出してしまった。彼への気持ちも、何もかも。
暫く走っているうちに強く打った頭が痛み出して小さく呻きながらスピードを落とす。気付けばそこはもう病院の外で、私の見知らぬ土地だった。行く宛てなんかなくて、私は力なく立ち止まる。


「どうしたら、いいの」


何度も思っているように、自分勝手なのは分かってる。都合が良いのも、分かってる。でも一度溢れた気持ちは抑えられなかった。


「全部思い出しちゃったよ…っ」


忘れてたはずの記憶は私に大切なことを教えてくれたけれど、それと同時にとても残酷なものを残していったと思う。


「もう、嫌いになんか、なれないよ…!」


応援すると突き放して、それでも求めている私。諦めようだなんて言っといて、諦めきれない私。考えれば考えるほど胸が苦しくなって、また視界がぼやけてきた。
私はリカちゃんの鋭い視線を思い出しながらその場で立ち尽くし、隠すように両手で顔を覆って、泣いた。



そんな矛盾だらけの、私。

(好き、大好き。この気持ちを伝えてもあなたは、隣で笑っていてくれますか)






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