あなたの声だとか、温もりだとか、笑顔だとか。そんなものさえも自己防衛のために忘れてしまっていた。ただあなたが死んだという現実を受け止めるのが怖くて、つらくて、耐え切れなかった。秋ちゃんや飛鳥のように受け止めることができなかった。だから蓋をして忘れてしまっていたんだ。
私の、何よりも一番大切な思い出を。















ゆっくり目を開けると、今度は赤ではなく白が広がっていた。
朦朧とする意識のまま私は息を吐き出す。此処は何処だろうと首を動かして、すぐに理解した。白しかない空間。ああ、病院だ。重くベッドに沈んだままの身体を腕をついて起こそうとしてずきんと鈍い痛みが頭に走る。片手で額を押さえながら起き上がった。


(なんで、病院に…)


そこまで考えてはっとなる。一之瀬くんを振り払って車道に出たこと、耳を突く大きなクラクション、ブレーキの音、私の名前を叫ぶ誰かの声。私はどうして轢かれなかったのだろう。不意に違和感を感じて目を擦るとそこには生暖かい涙。それをぼんやり見つめていると、胸の内側が何とも言えない温かい気持ちで満たされた。
何度も秋ちゃんや飛鳥に言われた忘れてしまったという言葉の意味。一之瀬くんが初めて出会った時に言った言葉の意味。欠けていたパズルのピースが埋まったかのように、全てが頭の中で噛み合った。一之瀬くんが私の幼なじみであったこと、私が待っているべきだったのは彼だったこと、それから、過去の私が彼を好きだったということ。


「一之瀬、一哉くん…」


今更思い出すなんて、あれだけ酷いことをしておいて都合が良すぎるのかもしれない。今まで空白だった記憶が涙となって溢れそうで、私はぐっと唇を噛み締めた。今一人で泣くのはあまりにもずるい、本当につらかったのは私に酷い態度を取られた一之瀬くんだというのだから。
ごしごしと目元を擦っていると、ぱたんという音と共に病室の扉が開いた。「あ、」と小さな声が聞こえて扉の方を見る。驚いた表情の秋ちゃんが立っていた。


「ゆいちゃん…!もう大丈夫なの?い、痛いところとかは?」
「あ…大丈夫だよ、私は平気」
「平気じゃないよ!私、ゆいちゃんと一之瀬くんが事故にあったって聞いて、本当に驚いて…っ」


え、と言葉を失った。今にも泣きそうな秋ちゃんは私の肩に触れたまま安心したように私に話しかける。彼女は今、何て言った?


「私と…一之瀬、くん…?」


確か事故にあったのは私だけではなかったか、トラックの前に飛び出して、コンクリートに頭を強くぶつけて。…いや、でも私は轢かれなかった。誰かに突き飛ばされたはずだ。トラックと接触する前に。


「…一之瀬くん、ゆいちゃんを突き飛ばした拍子にトラックとぶつかっちゃったみたい、で」
「え…」


あの時私を呼んだのは一之瀬くんで、突き飛ばしたのも一之瀬くんで。じゃあ私は一之瀬くんに助けられたということ?あんなに酷いことを言ったのに、何度も傷つけたのに、それでも彼は。
震える手を強く握り締めて身を乗り出した。驚いたような表情を浮かべる秋ちゃんに、私は畳み掛けるように問い掛ける。


「一之瀬くんは無事?大きな怪我とかしてない?今何処にいるの!?」
「ち、ちょっと、ゆいちゃん…落ち着いて」
「落ち着けないよ!だって、一之瀬くんは私のっ…私のせいで…」


私のせいで。もう一度言うと私の肩に触れたままの秋ちゃんの手に力が篭められた。


「ゆいちゃん、そんなこと言わないで。事故なんだからゆいちゃんのせいじゃないよ。…一之瀬くんは隣の病室にいる。でもまだ、」
「ありがとう、秋ちゃん!」


私は言葉を遮るようにそう伝えると秋ちゃんを軽く押してベッドから出た。ずきずきと頭が痛むけれどそんなことも気にならず、ただ彼の姿を見たいと思った。一歩踏み出せばふらつく身体、でも大して支障は出ないようだ。ゆっくりと歩いていく。


「無理しちゃ駄目だよ!ゆいちゃんだって怪我してるんだから!」
「私はいいの、それより一之瀬くんは、」


病室を出てすぐに隣へ行く。同じ作りの扉を開くと、そこもまた白い空間だった。
その真ん中のベッドに横になっている一之瀬くんに目を向けて、ほっと安堵の息を吐く。けれどすぐに息を呑んだ。目についたのは頬に貼ってあるガーゼだとか、シーツから出た腕と繋がっている点滴の管だとか。呆然とする私の後から入ってきた秋ちゃんが、口を開いた。


「…すごく運が良かったみたいで、大きな怪我はしてないみたい。でも…まだ起きてないの」
「…そう、なんだ…」
「私、ちょっと外に出てるから…」


ぱたん、という音が遠くで聞こえた気がした。声が掠れて、上手く言葉が出ない。ふらふらとベッドのすぐ傍まで歩いていき近くに置いてあった椅子に腰掛けた。穏やかな表情を浮かべて胸を上下させる姿を見て無事で居てくれたことをようやく頭で理解する。少し開けられた窓から風が入ってきて、白いカーテンをひらりと揺らした。


「…ごめんね、一之瀬くん…」


聞いていることを期待したわけじゃない。言葉が勝手に口を突いて出た、それだけだ。でも一度口にすると色々な言葉が溢れて、止まらない。


「ずっと気付かなくてごめんね、酷いことたくさん言ってごめんね」


点滴の管が繋がっていない方の彼の手を両手で包み込む。温かいその手の温もりがもっと欲しくて、離れないように少し力を込めた。


「たくさん傷つけてごめんね、怪我までさせてごめんね…」


声が震える。彼が事故にあってそのまま死んでしまった、そう聞いた時、私の目の前は真っ暗になった。毎日思い返しては泣き、何にも手がつかなかった。そんな毎日が恐ろしくて、日本に帰国した後、私はその記憶を自ら封印してしまっていた。忘れてしまえば思い返すこともない、悲しむこともない。自分を守る為に、私は頭の中から一人の人物を消してしまった。
静かに瞼を閉じたままの彼を見つめているうちに、徐々に視界がぼやけてくるのが分かった。泣くなんてずるいことしたくない。でも、止まらなかった。


「約束、守ってくれてありがとう…っ」


本当に逢いに来てくれたんだ。あの時の約束を、一之瀬くんは覚えていてくれたんだ。一粒の涙が頬を流れて、ぽたりと白いシーツに落ちる。椅子から降りてベッドのすぐ脇に膝立ちになった。すぐ近くに眠る一之瀬くんの顔があって、その整った顔立ちにとくんと胸が高鳴る。
きっと気付くのには遅すぎた。彼の気持ちは私から逸れてしまっているんだろう、それでも自分の気持ちを抑えることはできなかった。止まらない涙を拭って握っていた手を離すと彼の髪に触れる。触れた髪は指の間をするりと通り抜けた。


「私、一之瀬くんに二度も恋をしたんだね」


過去と、記憶を無くしていた今と。なんだかおかしくて笑みが零れる。ただ過去は一之瀬くんも私を好きで居てくれたということが、今と違うことだった。きゅうっと胸が締め付けられる感覚。切ない気持ちが生まれる。


「一之瀬くん、起きてくれないと私…自分勝手なこと、しちゃうよ」


その手をそのまま頬へ滑らせて、ガーゼの上から彼の頬を包み込む。男の子にしては長い睫毛を見て、どうしようもない気持ちになる。その言葉でさえ自分勝手だと己を責めながら、頬を緩めた。


「だから起きて、一之瀬くん。起きてよ、早く…」


自分勝手だ、そんなこと分かってる。それでも起きることを懇願するように、でも、今だけは起きないように、そんな矛盾した感情を抱きながら私は少し身を乗り出す。もっと早くにこの気持ちに気付いて過去のことも全部思い出していたら、こんな結果にはならなかったんだろうか。


「…好きだよ、一哉くん…」


ずっと呼んでいなかった一之瀬くんの下の名前を口にして、私は彼の唇に触れるだけのキスをした。そこから全て、私の想いが彼に伝わってしまえばいいのに。そんなどうしようもない思いを込めて。



溢れる想いと、涙。

(止まったはずの涙がまた零れて、一之瀬くんのガーゼを濡らしました)






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